1960年代〜70年代、私が体験した受験予備校長期ストライキと医学部闘争
大阪・高槻やまぐちクリニック  山口研一郎

1.はじめに

 『続全共闘白書』編集実行委よりアンケートに答えるよう依頼があり、主旨を十分理解できないまま答えてしまった。いざ出版物になってみると、答えた内容に反省することしきりで書き直したい箇所も多々ある。それもかなわぬ相談と思い、改めて「知られざる学園闘争」へ寄稿する。
 1つは1968年の予備校での闘いであり、もう1つは1974年の大学医学部における闘いである。いずれもそれほど有名になったわけではないが、1つは受験予備校でのストライキ闘争であり、もう1つは大学における「勝利」した闘争として、歴史の1ページに残してもいいのではないかと思われる。

2.受験予備校・関西文理学院(京都)における5か月間の自主ストライキ

(1)ストライキまでの1年間
 私は、被爆4年後の長崎市内で生まれ、1967年に県立高校3年になった。受験勉強の最中、10月8日の「羽田闘争・山崎博昭君死亡」のニュースを耳にした。1歳先輩の大学生の死ということでショックを受けた。高校卒業を約1ヵ月後に控えた1968年1月、佐世保エンタープライズ闘争があり、高校教師の多くが参加した。2月下旬、卒業式には欠席のまま、憧れの京都へ大学受験のために上洛した。
 受験に失敗した私は、予定通り「関西文理学院」(通称:カンブリ)という予備校に在籍した。1年後の「サクラサク」をめざして、毎日朝もやの中を自転車で予備校へ通った。4000名ほどの学生のうち、長崎市出身は私1人だけで、孤独な学園生活であった。少々勉学に勤しんでも、成績を上位に保つことは至難の技であった。私はややいら立ちを覚えながら、季節は早、夏を迎えた。初体験の京都の夏は毎日うだるような暑さであった。
(2)5ヵ月間のストライキ
 夏が終わりに近づき、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)の季節が近づいた。ふと目にした新聞に、小さく「関西文理学院で不正経理の疑い」という記事が載った。その翌朝、カンブリの出入り口では5〜6名の予備校生がビラ配りをしていた。「不正経理の真実究明のため、経営側からの説明を!」との呼びかけであった。カンブリ側との交渉はうまくいかず、多くの学生が大教室に集まり、長い討論の末、「9月からの授業をボイコットしよう」との決議がなされた。こうして「予備校における受験生自らの授業ボイコット」という前代未聞の闘いは始まった。学生間の討論会では、学院の不正もさることながら、「私たちが受験勉強に没頭することは、日夜闘われている大学闘争に敵対することではないか」との意見が多く出された。
 その後9月〜翌年1月まで、カンブリ内での授業は散発的に行われただけであった。ただ、院内への出入りは自由であり、私はほぼ毎日通った。昼間の時間帯には、食堂や喫茶室に散々互々集まり、自由に討論が始まった。午後には大教室において、意思統一や方針決定のための討論会が催された。地方から出てきた私は、京都や大阪の高校出身の学生たちの雄弁さや知識の豊富さに脱帽した。
 私も彼らに追いつこうと、「マルクス」や「レーニン」をかじりはじめた。独学はむつかしかったが、幸い私が住んでいた銀閣寺近くの寮には、5名の京大生が生活していた(法、経、医1名ずつ、工2名)。週1回の関連図書の読み合わせ会が始まり、ヘーゲル『唯物論的弁証法』、梅本克己『人間論―マルクス主義における人間の問題』などを共に読み、討論した。
 10月は、8日「羽田闘争一周年」、21日「国際反戦デー」と、京都・河原町や大阪・御堂筋を、約300名の灰色ヘルメット部隊が各大学の学生と共にデモ行進した。私たちは他の予備校にも働きかけて「京都反戦浪人連合」を結成し、円山公園で「全国反戦浪連集会」も開かれた。当時代々木予備校教員だった小田実氏も激励に参加した。11月には比叡の山々に冷たい霧がかかるようになり、12月には池の水が凍る京都の冬が到来した。
 1月に入り、カンブリ内に少しずつ「受験」のニュースが飛び込むようになり、学生の希望もあり、下旬より一部の授業が再開された。その頃、1月18・19日の東大・安田講堂攻防戦に続き、「東大入試中止」のニュースが飛び込んできた。学生たちは浮き足だち、それぞれが個々の道へと進んだ。私も2回目の受験に挑戦はしたが、2浪目に突入し、博多へと生活の場を移した。

3.長崎大学医学部における「一学年二年制」粉砕闘争

(1)博多における1年間と、大学入学後の4年間
 春から秋にかけての博多での受験生活は、専ら在籍した予備校の学生達に社会問題について訴えることであった。学園内や寮において、私の訴えに耳をかしてくれる学生が数多くいた。夏休み中は大阪の万博公園で開催されたべ平連主催の「反博集会」に受験生数名でかけつけ、フォーク集会や討論会、小田実氏や鶴見俊輔氏らによる講演会に参加した。  秋には、仲間と共に、在籍していた大手予備校近くの公園での「受験生による討論集会」を呼びかけ、ビラ配り中事務職員により事務長室に連行された。私たちは始末書を書かされ、「強制退学処分」となった。年の暮れに郷里の長崎へ戻り、残された2カ月余り受験勉強に打ち込むしか道はなかった。
 1970年春、長崎大学に入学した私は、「70年安保闘争」の真っ只中に身を置いた。教養部学生自治会執行部に参加し、6月23日「日米安保条約改定阻止」の教養部、教育学部、医学部ストライキが実現した。教養部前には1000名を越す学生が集結し、街頭へデモ行進し、三菱長崎造船労組や日本放送(NHK)労組、べ平連などの労働者・市民4000名と合流した。
 当時の長大教養部では、右翼系学生の「学生協議会」が大きな力を持ち、一般学生の中にも浸透していた。教養部2年目に私が自治会委員長に立候補した際は、学協の学生との決選投票に持ち込まれた(私が勝利した)。入管・被爆・部落・沖縄など幾多の問題において、常に右翼学生との熾烈な闘いがくり拡げられた。それは、1970年11月の自衛隊市ヶ谷駐屯地における三島由紀夫自決をめぐり頂点に達した。当時の民族派学生の中には、現在の「日本会議」の幹部を占める人々が数多く存在する。  1年間の留年後、1973年春医学部専門課程へ進学した私を待っていたのは、旧態依然とした医学部の封建体制であった。学生運動対策として、1964年より「一学年二年制」(一学年に二年以上在籍すると退学になる制度)が導入され、すでに30名を越す学生(多くは活動家)が退学処分を受けていた。体制に一言でも異を唱えると、目をつけられかねない暗黒情況の中で、私は基礎医学に全く興味がわかず、全科目の単位を落とし、2回目の留年を迎えた。残すところ1年で、私の今後の人生が変わろうとしていた。
(2)発覚した「不正入試」と「一学年二年制」粉砕闘争への突入
 1974年春、残された1年間の乗りきり方を考えあぐねていた私を、学友会の執行委員が訪れ、「また1人の学生が除籍処分を受けた」と告げた。「学生の処分撤回」闘争への参加要請であった。私が運動への参加を確約した頃、大学入試の合格発表が行われ、医学部長の長男が不正入試によって合格したとの噂が流れた。調査を進めると、4年間にわたり入試問題(模範解答も)が外部にもれ、彼はやっと4年目に医学部合格を果たしたのであった。「恐怖政治」の中で、決してあってはならない不正が行われていたのである。
 緊迫した情況の中で新学期を迎えた学内において、まず私が在籍した1年生にクラス討論を呼びかけ、「一学生の退学処分と不正入試」について訴えた。それは大学当局が知るところになり、数名の学生に対し、学内の秩序を乱した責任で「処分」が発表された。ただちに1年生100名は「処分撤回」のクラス決議を行い、またたく間に、2年生、臨床過程の3,4年生にも拡がった。
 5月の連休明けには、1〜4年生で「不正入試真相究明、処分撤回」のストライキ闘争へ突入した。医学部教授会への抗議・介入、「不正入試究明委員会」の設置、定期試験ボイコット、長崎市内5万世帯への全戸ビラ入れ、宣伝カーによる街頭宣伝、「不正入試」に関する市内公立高校へのビラ入れ、「大学管理法」で禁止された大学敷地内での団結小屋の建設、医学部長室占拠に対する機動隊導入実力阻止など、闘いが広く、鋭くなるにつれ、当局も放置できず、秋に医学部長、学長が責任をとって退任し、大学を去った。同時に「一学年二年制」は撤回され、これまで処分された30数名の学生が復学した。暮れが押し迫った12月、学友会は自主的に団結小屋を撤去し、8カ月にわたるストライキは解除された。

4.2つの闘いを体験して今思うこと

 私は人生において2つの貴重な体験をしたように思う。1つは予備校、もう1つは大学医学部という、最も体制内化され、物を言うことがむつかしく、黙々と学ぶ(経験を積む)ことだけが目的とされる。何のために学ぶのか、何のために経験するのか、といった疑問をはさむことが許されない組織である。
 そこに「不正経理」「不正入試」という2つの不正がきっかけとなり、学生同士が討論し、掘り下げ、そして行動に移した。数名の呼びかけにも、多くの学生が耳を傾け、共鳴すればともに行動する「連帯感」が常に存在していた。学生たちの目は身の回りの世界から広い社会へと向けられ、「ベトナム戦争」「ソ連のアフガニスタン侵攻」「三里塚」「関東軍731部隊」へとテーマが拡がっていった。
 そうした体験が、1978年以来臨床の道を進み、1992年「現代医療を考える会」の立ち上げをきっかけに、様々なテーマの医療問題(生命倫理、生殖医療、ゲノム、脳死・尊厳死)、医学の歴史的犯罪、原発問題に取り組んできた私のエネルギーとなっている。これからの残された人生においても、それは脈々と生き続けることを確信する。(2020年4月記)

※3.(2)に関する資料(1974年の新聞/週刊誌)

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1 長崎新聞(9月15日付)

2 毎日新聞(9月24日付)

3 西日本新聞(9月29日付)

4 同(同年9月30日付)

5 同(同年10月1日付)


6 週刊朝日(同年9月20日号)
「学内派閥もからむ長崎大医学部の不正入試始末記」

7 週刊文春(同年9月23日号)
「疑惑の不正入学で危うし長崎大医学部長とその子」