長崎大学の学生運動
1968年教育学部入学  鶴丸春告

 僕は中学校から三菱造船所技術学校に行き、3年生の時長崎市立高校定時制に入りながら、ヂーゼルエンジン組立工場で働きました。1967年の全造船三菱労組が同盟労組に分裂していく中にいました。戦闘的左派組合が先鋭化していく中で一般組合員が離反していく姿を見ました。革命的理論や正義だけでは、一般大衆はついてこない、と思いました。
 1968年4月に教育学部に入学し、大学の芝生のキャンパスを歩きながら、自由な空気を感じました。5月にフランスの学生運動で大学教授会への支配を拒否する人学占拠のニュースが流れてきました。「美しき5月のパリ」の曲がキャンパスに流れて、学生運動に関心がわいてきました。
 長崎大学でも、学生会館問題のビラがまかれ、集会があり、12月には学生会館の占拠闘争がありました。集会に参加し、教養部の他学部の友達ができ、学生会館自主管理闘争に参加しました。
 1969年1月には機動隊が導入され、徹底抗戦団が逮捕されました。2月に大学事務局封鎖したら、機動隊導入。教養部バリケード構築したら、また機動隊導入。教養部ストライキ突入したら期末試験中止再度教養部バリケード構築、教養部学外試験強行に千人デモ、受験者20名余。3月教養部に強制捜査で機動隊導入。再度教養部占拠してバリ・スト継続。9月機動隊導入で封鎖解除。
 以後、授業再開後も、教養部、教育学部、薬学部、経済学部自治会などでベトナム反戦、沖縄、反公害、三里塚、狭山闘争などが闘われた。医学部自治会では68年以前からの留年2年退学規定反対闘争などで自治会役員が処分され、処分撤回運動があり、1972年に医学部長の息子の不正入学が発覚し、医学部長が処分され、自治会役員が復学した。
 また、1964年代から、業者学生食堂の改善、生協設立運動があり、生協が設立された。1965年には文部省による学生管理のための学生会館に反対し、学生の民主的運営を要求する全学ストラーイキをやったが大学は拒否し、8人の処分者をだした。その怒りが68年69年に爆発したようにも思える。
 なお、初期の学生自治会は民青が多数派だったが、70年代には少数派となった。そして、生長の家学生部からの全国学生協議会が闘争の敗北時に自治会を二三度とった。そのリーダーが日本会議の椛島だった。我々は彼らと教養部や教育学部のクラス討論や大会で論争した。我々が、反帝国主義・世界革命を、彼らが、ヤルタ・ポツダム体制打破を言った。論争していく中で、結局何のための革命か打破か、が問われた。人民のためか、天皇のためか、と。今でも、なぜ彼らが、天皇を神のように思うのか分からない。
 人類の歴史が30万年まえのアフリカから始まり、ユーラシア大陸からアメリカ大陸までの旅路のなかで、人種・民族が派生し、部族・民族・国家が成立してきたと、理解している僕にとって。
 後、十年余には、この世から、いなくなると思うと、ますます、自分は偶然に人類に生まれ、日本人の親に生まれただけであると実感する。人類共生になぜ各国指導者が目覚めないのかと思う。

 長崎大学の学生運動参加者に呼びかけて、2011年と2014年に再会の同窓会をやれました。40名余の参加をえてうれしかった。2014年の再会の時に、昔話だけでなく、アジアの平和の懸け橋をつくるために、アジア留学生奨学基金をつくろう、となって、2016年から1800万円余の基金で、毎年5名、2年間毎月2万円を支給し、7月・11月に選考会と茶話会、3月に発表・交流・感謝の会をやっています。
 中国・韓国・ベトナム・タイ・バングラデシュ・パキスタンの留学生は、大半が工学部や水産環境学部で、朝9時〜夜6時まで大学院の研究室で研究している。先生からは、新しいことを見つけたかと叱喀激励されてる。将来は日本や母国の企業や大学でエンジニアや先生になることを夢見てがんばっています。土曜、日曜はホテルで働いています。授業料免除で、バイト2万、奨学金2万でがんばっています。彼らの話を聞いていると、学問の世界には国境が無いように感じます。母国の大学を出て、英語で大学院の面接試験に合格すると、分け隔てなく、先生たちが指導してくれていますから。彼らと、話すこと、心が通じることが、平和の懸け橋だと感じています。

 長大闘争の記録「幻想の中の自由」は映画研究会の制作です。機動隊に何度も排除されたが、バリケードの中には、あの一瞬には自由があった、と思います。


長大闘争の記録「幻想の中の自由」
(長大学生会館 自主管理の斗い  製作:全学斗)

サーバーのサイズ制限のため30Mまでダウンサイズしています


長崎大学新聞 第85号 1969年5月20日
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