◆新潟大学統合移転闘争の経過 その1(1965年〜1968年)
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その2(1969年1月〜4月)
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その3(1969年5月〜12月)
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その4(1970年1月〜3月)


◆新潟大学統合移転闘争の経過 その1(1965年〜1968年)ver.2

年月日見出し事     項
S40.2.24(1965)新大評議会、統合移転候補地を決定新潟大学評議会、新潟市五十嵐2の町地区を統合移転候補地とすることに決定。
S40.3.2(1965)伊藤学長、統合移転先を記者会見で発表伊藤学長は3月2日午前11時から大学本部で記者会見を行い、大学の統合移転先として新潟市五十嵐二ノ丁が正式に決まった旨を発表。またこれまで問題とされていた教育学部長岡、高田分校も新潟本校に統合する方針を明らかにした。大学側では統合整備計画委員会を4月から発足させ、新天地における大学の青写真作成を急ぐとともに、7月中には文部省に予算の概算要求をして41年度からの着工を目ざしている。
S40.3.2(1965)伊藤学長の発表要旨1.大学では昨年10月11日に移転候補地を新潟、長岡、新津の三市にしぼって以来、「統合移転候補地に関する委員会」ならびに「評議会」で慎重審議を続けていたが、学問研究と教育の充実を図り、総合大学の実を上げるためには新潟市五十嵐二ノ町地区が最適との結論に達したため、文部省と話し合いの結果、正式に決定した。候補地の提供など協力を惜しまなかった各市町に感謝する。2.教育学部長岡、高田分校の統合問題は昨年3月21日の教育学部臨時教授会で「新潟本校に同時統合する」という議決がなされたが、これに反対する高田分校代表が脱退場のうちに採決されたため、その後も紛糾を続け「教育学部に関する委員会」ならびに「評議会」で審議した結果、やはり臨時教授会の決定を尊重して、新潟に統合することを決めた。
S403.3.(1965)新大統合移転新潟市決定″に暴挙と怒る高田市長高田市議会新大対策特別委(間瀬喜代治委員長)では3日、「上越住民をあげて反対運動を展開する」との態度を決めた。
S40.3.6(1965)統合は新潟だけで″塚田知事、新大問題で記者会見統合は新潟だけで″塚田知事、新大問題で記者会見。私個人の考えは「新潟にあるものだけを統合すればよく、長岡や高田にあるものを統合する必要はない」という点ですっきりしている。もともと教員養成には地域性を重視する必要があるが、本県のように南北に長い大県では、新潟一カ所でこうした教員養成をすることは無理だ
S40.6.22(1965)「統合移転問題全学協議会」(全学協)が発足。教育学部、人文学部(後に医学部、歯学部自治会も加入)、教育学部長岡分校の各自治会、生協、新聞会、教員養成制度研究会により「統合移転問題全学協議会」(全学協)が発足。
S40.9.22(1965)稲葉代議士が「稲葉私案」を示す新潟県選出衆院議員・稲葉代議士が地元のとりまとめについて来学され、伊藤学長、君副知事、新潟、長岡、高田の各市長に稲葉私案を提示して懇談。@高田分校、長岡分校は新潟大学へ統合するA長岡には、工学部統合のあとに独立の工業単科大学を設置する、高田市には教員養成大を設置するB新潟大学の統合は方針通りに行う。
S40.12.22(1965)政界関係者、稲葉私案の線で収拾を図ることで一致自民党文教議員グループと文部省、本県の政界関係者22人は、12月22日夜、東京永田町の料亭「瓢亭」で懇談会を開き、話し合った結果、先に稲葉代議士の提案どおり@新大の統合は原則として認めるA高田市に教員養成大学、長岡市に工業大学をつくるという線で事態の収拾をはかることに意見が一致した。
S40.12.28(1965)稲葉代議士、文教部会に要望書を提出稲葉代議士から新潟県選出の自民党衆参両議員、坂田自民党文教調査会長、新潟県君副知事、新潟、長岡、高田の三市長で協議の結果、@新潟大学を新潟市五十嵐地区に統合し、総合大学として整備するAさらに長岡に工業大学、高田には教員養成大学を設置する、という要望書が自民党政調文教部会長に提出された。
S41.1.8(1966)長岡の工業大は無理/稲葉代議士中央の反対で変更稲葉代議士(自民党政調会文教部会長)は、1月8日東京・平河町の都市センターで開かれた県関係の予算獲得対策会議の席上「中央の空気としては長岡に工業大学をつくるという方針には反対が強く、このままでは新年度予算に新大教養部の新設費(12億円)は認められなくなる。このため方針を変更し、長岡には従来通り工学部を存置することで新大・長岡双方から了解してもらえるかどうか意向を打診している」ことを明らかにした。
S41.9.3(1966)新大高田分校拡充同盟、亘知事が上越が不利になれば県立大学もありうる”と発言、と報告新大高田分校拡充期成同盟会代表者会議は9月3日午前10時から高田市役所で開き、関係者から経過報告があった後、今後の対策について協議したが、席上亘知事が地元陳情団に対して新大問題で上越が不利になれば県としてこの問題とは別に県立教員養成大学の設置を考えると陳情報告があり注目された。
S41.9.27(1966)亘知事、高田市長に教育学部の統合問題のタナあげを提案亘知事は9月27日午後、新潟市のイタリア軒で小山高田市長らと会い、新潟大学教養部の建設用地買収執行の必要性を強調するとともに、教育学部の統合問題については当分、タナ上げすることを提案、了解を求めた。これに対し小山市長は即答を避けたが、亘知事としては大学の現状から統合問題とは切り離して用地買収の執行は当然との考えに立ち、事態の前進的解決を図りたいとしている。
S41.10.24(1966)亘新潟県知事が亘私案を発表亘新潟県知事が亘私案を発表。@新潟大学を統合整備し、充実せる地方の総合大学として発展せしめる方針を堅持するA統合の全面的実施は、高田及び長岡両地区の教育施設整備の方針が決定されるまで留保し、この間両地区の大学施設は廃止しないB新潟大学の教養部校舎は、統合問題と切り離して早急に整備する。その際図書館、体育館、講堂など併せ新設する。
S43.1.25(1968)新大統合問題、学生側、スト決意統合をめぐって新潟大学ではいぜん紛争が続いているが、生活協同組合、工学部教養自治会学生代表約10人は1月25日午後1時から大学本部で望月学生部次長と会見「われわれはストに訴えても大学側と対決する」旨申し入れた。全学ストについては、すでにスト権確立投票を行った工学部教養学生自治会(反対多数で不成立)もあるが、人文、教育などの各自治会はこれから投票を実施するところで、成立、不成立はともかく、全学にスト問題をめぐる緊迫した空気がみなぎっている。しかし卒業試験期でもあり、自治会も足並みはそろっていないため全学単位ストは、回避される見方が強い。
S43.1.27(1968)新大医学部4年生登録医制反対で決議登録医制に反対してきた新大医学部専門課程4年生(79人)は1月27日のクラス会で、教授会が学生の要求を入れない限り2月3日以降の卒業試験をボイコットすることを圧倒的多数で決めた。またこれを支援するため同1、2、3年生(250人)も授業をボイコットする形勢にある。新大医学部生は昨年からデモなどによる反対運動を続けてきたが、@教授会は登録医制反対の声明をせよA卒業後の研修形態に関する6項目の学生要求を認めよーの2要求に対して、さる25日の教授会が拒否回答したため、これを不満としてスト決議に踏み切った。事実上のスト突入は31日の教授会再回答を持って最終決定するはずだが、統合問題をめぐって活動家による全学ストの動きがあり、医学部ストは直接統合移転と関係ないものの、もし決行されれば他学部の学生にも心理的影響を与えるのではないかとみられている。なお、卒業試験は11月から始まっており、あと4科目ほどが残っているが、ボイコットすれば追試験でも受けない限り卒業は延期となる。
S43.2.10(1968)新大医学部自治会の1、3年生が授業をボイコット登録医制度に反対している新大医学部自治会は、2月9日午前10時から3年生(90人)が、同午後1時から1年生(98人)が授業をボイコットした、きょう10日も1,3年生は授業に出ないが期末試験は受けるという。4年生も10日の卒業試験をボイコットする。
S43.2.10(1968)新大医学部4年生が眼科試験を放棄登録医制度に反対し2月3日から卒業試験をボイコットしている新大医学部4年生は、10日も午後1時からの眼科試験を放棄する予定。また、同学部3年生と1年生も10日午前8時半からの授業を放棄した。
S43.2.13(1968)新大教養部期末試験を延期新大教養部(永井行蔵部長、学生数1298人)は、2月13日に予定されていた期末試験4科目を、スト決議した学生とのトラブルを避けるため、18日(日曜)に延期した。同部の試験は13日から23日まで行われるが、統合計画への参加をめぐって大学側と対立している工学部教養自治会を中心とした教養部学生2百数十人が、12日午後5時過ぎから総決起大会を開き、試験放棄とともに受験しようとする学生を説得する構えを見せたので、13日午前1時までかかって教授会で試験中止を決めたもの。
S43.3.16(1968)新大医学部、苦悩深まる登録医紛争/卒業たった1人(留学生)新潟大恒例のマンモス卒業式″は3月20日行われるが、登録医制度をめぐって深刻な紛争を続けている医学部だけは卒業生のいない卒業式″を迎える。学生ストに参加しなかったマレーシアの留学生人は卒業証書を手にするが、このような事態は旧医学専門学校以来50余年の歴史をもつ医学部にとってはじめての出来事。これまでのインターン制度に代わって登場した登録医制度にも不満を持つ医学生は、目下東大をはじめとして全国共闘の形で強硬な反対手段に訴えているが、新潟大医学部ではさる2月3日から、まず目前に卒業を控えた4年生がストに突入、続いて同10日からは1、3年生がこれに同調、最近になって2年生も一部を除いてストに参加した。「教授会は登録医制度反対の声明を出してほしい」「卒業後の研修カルキュラムを自主制にしてほしい」など、学生側は7項目を要求。これに対して教授会は断固譲らない態度を堅持しているため、たびたびの話し合いも物別れ、ついには4年生は耳鼻科など4科目の卒業試験を拒否してしまい、卒業は1年延期されるという不幸な結果となった。16日に学生側の申し入れで事態収拾の折衝が行われたが、スト中止を前提とする教授会と学生の間の考えとの開きが大きすぎ、まとまらなかった。
S43.3.20(1968)チグハグな新潟大卒業式、晴れ姿とデモと新潟大の卒業式は、3月20日午前11時半から市体育館で型通りに進められ、卒業証書は人文学部の藤巻元雄君ら各学部の総代に手渡されたが、医学部だけはす通り。新潟大学(16回)同商業短大(7回)の卒業式の歴史の中でこんな事態は初めて。山之内学長も告辞のなかで、「受験拒否は、本学未曾有の不祥事であり、強く反省を促さざるを得ない」と、姿を見せぬ医学部学生に強いことばで言い切った。ちょうどそのころ、当の卒業延期となった学生たちは、後輩と一緒に「登録医制反対」のデモ行進で市民に自分たちの主張を訴え、3月20日の新潟市は、まことにチグハグな新大デー″となった。山内学長は、受験拒否にふれたあと、高野素十さんの「竹きりも弟子2、3年つとめねば」の句をひいて、卒業後も自分自身の修養を忘れないよう説き、卒業生875人を代表して工学部の江口直人君が答辞を述べて式を終わった。式後祝賀会に移り、医学部出身の山内学長の表情には後輩の姿の1人もいないさびしさがうかがわれた。一方、デモ隊は11時半に医学部を出発、医学部自治会の旗を先頭に「登録医制ハンターイ」のシュプレヒコールを繰り返し、東中通から柾谷小路、古町から一番堀へと行進、卒業式の行われている体育館を横目に見て通り、お彼岸の中日とあって墓参りに出てきた市民に「理解と支援」を求めていた。
S43.3.28(1968)新大医学部、登録医制紛争ストを中止・解決へ登録医制度をめぐる新大医学部の紛争は、同学部の助教授、講師60人によって構成される「金曜会」の仲介が実を結び、3月27日夜の教授会・金曜会・学生の三者協議会で急転直下解決へ向かった。この結果、さる2月3日から授業、卒業試験をボイコットしていた4年生(79人)はストを解き、3、2、1年生も今日28日、クラス会の討議を経て終結に同調するとみられる。紛争が新学期にまで持ち越されるのを心配した助教授、講師有志は、さる24日ころから精力的なあっせんに乗り出し、硬直化した教授会と学生側の対立をもみほぐしていたが、ようやく妥協点が見いだされたため、機を逃さず三者協議会を開いて60日間に及ぶ紛争の最終的詰めを行ったもの。整形外科の田島達也教授は「他大学に見られる混乱もなく理性と良識の解決だった」と語っている。同協議会では、紛争原因となった卒業後の研修をめぐる学生の諸要求について、教授会も十分考慮し、学生側も教授会を信頼するということでまとまり、一部懸案については両者懇談会を持つこと、卒業延期になった4年生の追試験は早急に行うことなども話し合われた。しかし、処分問題については学生側から寛大な処置″が要望されるだけで、教授会は意思表示しなかった。
S43.4.12(1968)新大、統合移転へ/きょう、待望の起工式新潟大の統合整備計画は、今年度からいよいよ実施の運びとなり、きょう4月12日、新潟市五十嵐浜の移転先で、まず教養部校舎の起工式が行われる。40年2月末に同大総合施設計画調査会が、ここを移転先と決めてから3年ぶり。そこにはやがて医学部付属病院も収容され、緑と太陽と空間″がいっぱいの広大な砂丘地の一角に見事な「学問の府」が生まれるはずだ。移転第1号となる教養部は、管理棟、講義室、大講義室、研究室など5棟からなり、延べ面積はおよそ14500平方メートルこのうち管理棟や研究室、講義室など3棟合わせて11080平方メートルは、昨年度建設する予定だったが、予算関係で今年度にずれ込んで400人収容の大講義室など2棟3500平方メートルと合わせて来年2月中旬までに完成する。工費は大講義室をなどを除いておよそ4億1000万円。校舎の長さはそろって60メートルだが、高さは2階建てから5階建てまでまちまちで一番高いのは23メートル。教養部だけで、ゆうに高校の1校分に匹敵する姿になるはず。このあと44年度からは理学部、人文、大学本部、農学部などの移転が始まり、47年度以降は工学部と教育学部(ただし教育学部は現在の校舎の転用先が決まり次第移転を開始する予定)。それに医学部、歯学部と2つの付属病院も、それに引き続いて移転する計画で、農学部の移転までが、すでに文部省でも認可済み。こうして新大の総合整備計画は仮に予定どおり移転が進めば、昭和50年前後にほぼ完了し、緑と太陽と空間がいっぱいの広大な砂丘地に7つの学部と、それに付属する病院や商業短期大学などの部局を合わせた見事な学問の府″が生まれるはずである。
S43.4.13(1968)新大医学部紛争終幕へ、18日から卒業試験新潟大医学部では、先の登録医制度をめぐる紛争で4年生79人が耳鼻科など4科目の卒業試験をボイコット、卒業を見送られた形となっていたが、同学部ではこの異例の事態を収拾するため4月13日午後、臨時教授会を開いて、これに対する善後策を協議した。この結果、4月18日から1週間置きに耳鼻科、眼科、病理科、精神科の残された4科目の卒業試験を行うことを決め、同日学生側に郵便で通知した。
S43.4.15(1968)新大は静かな入学式/山内学長、きびしく訓示新潟大と新潟商業短大部の入学式がきょう4月15日午前11時20分から新潟市の体育館で行われた。平均競争率6.3倍の難関を突破した新入生は新大が7つの学部で1377人、短大部が78人の合わせて1455人で、新入生は緊張した面持ちの中にもうれしそうな表情だった。開式の辞に続いて君が代を斉唱、山内学長が教養課程の重要性と最近の学生運動に言及し、最近の学生運動は大学の自治を自らの手で破壊する行為であると、次のように訓示した。教養課程は高校教育の延長ではない。高校教育では成し得なかった観察力、理解力、表現力の養成にあり、これらは諸君が大学を卒業し一般社会に出た後も民主的な社会の形成に欠くことの出来ない大切な教養である。一般教養課程は専門課程の学問を修得するうえでも大切な学問である。だから十分勉学に励んでもらいたい。また大学の自治と学問の自由は教育研究の自由を維持するうえで尊重されているものである。学生諸君が社会の諸問題について話し合い、意見を交換することは自由だが、大学の自治の美名に隠れて政治活動に介入し、法治国の国民としては許しがたい暴力の挙に出ることは大学としても許せない。これに対し新入生を代表して医学部の鈴木力君が「われわれは新潟大学の学生として規則を守り、学問の修得に励みます」と宣誓。このあと各部長の紹介と教養部長の講話があり式を終えた。
S43.5.26(1968)新大教育学部同窓会が15周年記念式典を開催/今は昔・・・学閥抗争/統合推進にも一役新潟大教育学部同窓会(江口直禎会長)の15周年記念式典が、5月26日、新潟市の同学部体育館で行われる。県下の初等教育界は、旧新潟師範、同高田師範(両校とも26年3月閉校)の2つの同窓会が並立、明治、大正、昭和の3代にわたって互いに教育行政、教材研究の場で張り合い、それが時に学閥抗争に発展したといわれる。これは戦後の学生改革後も引き継がれたものの、24年の学制改革で両師範は新大教育学部に一本化された。旧師範の卒業生が後続を断たれ、新制大学の卒業生が増えるにつれて、学閥抗争も微妙な変化を見せ始めた。こうした背景の中で開かれる同学部同窓会式典は学閥対立によってつづられてきた県下の初等教育史にエポックをしるすと共に、いま難攻している教育学部の統合促進に大きな役割を占めるものと関係者の期待を集めている。
S43.5.26(1968)新潟大教育学部同窓会15周年記念式典/派閥抜きの親交結ぶ新潟大学教育学部同窓会の15周年記念式典が、5月26日午前11時から、同学部体育館で開かれた。第1回教育学部卒業生が巣立ったのは、S28年3月だが、このように盛大な同窓会を開いたのは今回が初めて。会場には、およそ300人の会員はじめ、山内峻呉新大学長、渡辺新潟市長、大井ヒデ県教育委員ら来賓多数が参集。佐藤弘同窓会副会長の開会の辞で幕を開けた。午前中まず江口会長のあいさつ、会務報告、山内学長、渡辺新潟市長ら来賓の祝辞があった。続いて午後からは記念講演会が行われ、同教育学部出身で協和醗酵株式会社研究所員の鈴木武夫氏が「醗酵と人生」と題して1時間にわたり講演。このあと会場を付属中体育館に移して記念祝賀会を開き、旧新潟師範同窓会の常磐会会長遠藤稔、同高田師範同窓会の公孫会新潟支部長小林久衛、同長岡女子師範悠久会会長内山シズ、同青年師範青菖会会長加藤衛雄、新大同窓会会長岩淵信一の各氏らの祝辞があり、一同そろって乾杯し、万歳三唱して和やかに散会した。
S43.5.30(1968)新大医学部ようやく卒業式″5月晴れの30日、新大医学部の卒業証書授与式が同学部本館講堂で行われた。新大の卒業式は3月20日に行われたが、医学部は医師法一部改正案(登録医制度)に反対して、3月に行われた学期末試験をボイコットして留学生1人を除く72人が卒業延期となったため、医学部生の欠けた6学部による異常事態となった。その後、金曜会(助教授、講師)が学校側と学生の斡旋に乗り出した。学生側は大幅に譲歩して4月に卒業試験、補講を終え、きょうはれの式を迎えたもの。式典は広い本館に72人の卒業生全員が出席したが、空間の目立つ寂しい授与式となった。山内学長が卒業生代表下条文武君に卒業証書を手渡すと、一同は緊張もほぐれ明るい表情に変わった。
S43..6.10(1968)新しい医師国家試験、60%以上が願書提出/新大は半数が拒否インターン制度の廃止に伴う新しい医師研修制度による第1回の医師国家試験は6月23日から全国10カ所で行われるが、厚生省が10日まとめた原書受付状況は、受験有資格者5200人のうち3135人で、60.3%が願書を提出した。受験ボイコットを決議している大学のうち、群馬大、東大、東京医科歯科大などはほぼ全面的に願書を出さなかった。受験有資格者の半分近くがボイコットしているのが、京大、阪大、新潟大、信州大、山口大、徳島大などで、今年春卒業した医学生で組織する青年医師連合(中圭一委員長)が新制度に反対して試験ボイコットを決議、今後反対闘争を盛り上げる構えを見せている。
S43.6.15(1968)新大の学生 警官隊と衝突/ベトナム反戦デモ/妨害で3人を逮捕「6月行動」新潟実行委員会のベトナム反戦などを訴える新大生のデモ行進(約130人参加)は15日午後1時過ぎから新潟市の目抜き通りで行われたが、県警の警備にエキサイトした学生たちと県警機動隊ら約400人が激しく衝突、午後2時45分頃、実力行使に出ようとした県警機動隊員小出巡査に対し、3人の学生が顔をなぐるなど暴行の事実があったので、ただちに公務執行妨害で逮捕した。学生たちは、この事態で「即時釈放」を叫んで中央署前にすわりこんだため、当局はついにゴボウ抜き″を断行。1人1人を実力行使で排除する一幕もあった。騒ぎは夜になっても収まらず、中央署前はヤジ馬や学生のシンパ大勢見守る中で、学生たちはたき出しを食べながら、夜遅くまで抗議を続けた。なお、逮捕された3人は黙秘を続けているため、住所、氏名は明らかになっていない。
S43.6.16(1968)”警備に行き過ぎ”/山内新潟大学学長3学生釈放申し入れ/地検、学生を釈放ベトナム反戦デモをめぐって3人の逮捕者を出した新潟大の山内学長は3月16日、工藤県警本部長らに逮捕者の釈放を要請すると共に警備体制に行き過ぎがあったとし、こんご充分注意してほしい旨申し入れた。一方、夜を徹して新潟中央署前に座り込み16日早朝いったん解散した学生側は同日午後、学内で抗議集会を開いたりしていたが、新潟中央署から身柄送致を受けた新潟地検は午後10時過ぎ、「これ以上身柄を拘束する必要なし」として3人を釈放した。
S43.6.23(1968)医師国家試験4割が受験を拒否/新潟では静かに108人が受験インターン制度の廃止に伴う新しい医師研修制度による最初の国家試験(第45回)は23日朝から全国10都市で行われた。新制度に反対して試験ボイコットを決議している青年医師連合などの研修医、医学生たちが各地の会場付近でデモ。
S43.6.24(1968)新大生が全学抗議デモ新大生が全学抗議デモ。ベトナム反戦デモをめぐる新大生3人の逮捕事件に対して「官憲の不当弾圧反対」を叫び、24日夕刻から学内で二度目の不当弾圧反対全学抗議集会を開催。授業を終えた学生たち700人が集まった。教育学部前ー東中通りー柾谷小路ー古町ー鍛冶小路ー教育学部前の順路で市内デモ行進。
S43.7.7(1968)学生、本部を完全占拠/新大の統合紛争収まらず新潟大学の統合をめぐって工学部の教養部自治会、生協を中心とした学生数十人(構造改革派)が、7日夜から本部を占拠。本部が学生に占拠されたのは開学以来初めて。学生側の要求は@学長は全学生と会えA教育学部教授会が決めた高田分校に2つの特設課程を増設する計画を撤回せよB工学部の本建築計画を白紙に戻せC医学部の学士会館計画を撤回せよD全学の意思が一致するまでこれらの計画を凍結させ、全学部がすっきりした統合を実現させるよう努力せよーなど。これらの要求は学長との大衆団交で話し合う予定だった。7日午後10時頃から机、いすでバリケードをつくり、本部内に立てこもっている。
S43.7.10(1968)新大学生、本部占拠続ける/退去せよ”と学長告示新大学生、本部占拠続ける。工学部教養自治会、生協を中心とする学生たちが、本部を完全に占拠してから9日まで3日目に入ったが、本部を占拠している学生たちは、@学長は全学生と会えA教育学部教授会が決めた、高田分校に2つの特設課程を増設する、との決定は撤回せよB長岡の工学部校舎永久建築計画は白紙にもどせ・・・などの要求について、大学側がはっきりとした回答を出さない限り、本部から退去しない態度を固め、クラス討議であす11日から始まる夏休み後も、大学に登校して運動を盛り上げようと学生たちに呼びかけた。これとは別に人文・教育・農・医などの学生約500人は、9日午前11時すぎから人文学部前広場で集会を開いた。
S43.7.12(1968)新大統合教養部教授会が決議/全学統合でなければ反対教養部では7月12日教授会を開き「44年度の教養部移転は、全学統合の前提が確定されているとみなし得ない状況では行わない」と決議。この“状況”を判断する資料として、各学部に「統合移転への具体的態度を10月15日までに表明してほしい」と次の要望書を作成した。1.人文学部は何年度に統合の概算要求を出し、何年度に移転するのか。2.教育学部は@5月13日の答申による高田分校の特設課程新設が、分離、移転につながるとする疑問に答えよA回答書中、長岡、高田分校の教養課程を新潟に集中するとあるが、その具体計画は。3.工学部は今後の移転の見通しについて明らかにせよ。4.医学部は学士会館の建設を、統合先の五十嵐地区か、現大学敷地以外に求め、統合の姿勢を示されたい。5.医、歯学部は現在進行あるいは計画中の新校舎建設が、統合移転の一環として、どのように位置づけられるのか明らかにせよ。
S43.7.16(1968)新大評議会が決定/全学統合を堅持/学生の意向反映も考慮統合問題をめぐって紛争中の新潟大では16日評議会を開き、学生騒動に対処するはじめての具体策を決定するとともに、同日午後6時半から山内学長が記者会見で発表。@全学統合の基本方針を堅持し、本学の総合的発展を期すために、前進的解決の方向で、各部局の当面する諸課題を「統合整備計画員会」で早急にとりあげ、9月以降の評議会で決定する。A統合を進めるにあたっては、学生の意向も反映するよう、じゅうぶん考慮する。この方針は即日学長名で全学部にはり出され、10日間にわたる本部占拠学生にたいしても、大学の誠意を認めて、退去するよう呼びかけた。大学側の説明を総合すると、@教養部教授会が指摘しているように、統合推進に反するような学部方針がある場合は、さらにその学部に再検討を求めようとというもので、来年度概算要求にも変更がありうる。A学生意見の反映機関として、どのような場を設けるのか、学生部協議会に諮問しているので、その答申を待って具体策を提示するという。この収拾策”について学生側は、受け入れて本部占拠をとくかどうか協議した。この収拾策では抽象的でつかみにくいとする意見がかなりあったため、さらに文面をただすという場面もあったが、結論がでないまま話し合いを午後11時半に打ち切った。
S43.7.17(1968)新大本部、バリケード解除移転統合のあり方に反対して新大本部を占拠した学生たちが、ようやく7月17日夜にバリケードを解除。
S43.9.7(1968)学生部協議会、新大学生に「説明会」案を提示/学生側、学長団交を譲らず学生たちが「大衆団交」を要求している新潟大では、9月7日午後、同大人文学部会議室で竹内公基学生部長ら大学側と人文、理、教育、工学部教養自治会の学生約30人が話し合い、竹内学生部長から6日の同大評議会の意向が伝えられた。学生たちは強い不満を示し「権利としての交渉を認めよ」と迫った。学長団交問題を協議していた学生部協議会は、5日@学生のいう学長との大衆団交”は大学主催の説明会ということで開催し、開催時間は約3時間、開催場所は学内のグランドとするA説明会には学生の質問を認め、かなりの時間を当てても良い。Bこの話し合いの形式が成功したら、2回目の開催も考えるーの方針をまとめ大学評議会のこの案を示していた。竹内部長は「評議会の大半は時機を考えるべきだという意見だったので、さしあたりは見送られた。しかし決して廃案になったわけではない」と説明した。学生側は「大学側のいう説明会は、単に学生を説得するためのものにすぎない。われわれの要求する団交は、統合移転について大学側に交渉”する場である」と強く反発した。
S43.9.19(1968)新大理学部本館一時占拠/3時間後解除19日未明、大学側の計画を手ぬるいとする急進派の学生約10人が、新潟市西大畑町の理学部本館を封鎖したが、駆けつけた同学部、教養部の教官約30人によって、約3時間後に解除された。
S43.9.29(1968)文部省、大学管理で立法も文部省は大学の教育内容、大学の研究体制、大学の管理運営など、大学に関する制度上の問題点について、本格的な検討を始めた。大学制度の改革についてはさる17日、自民党総務会からも申し入れがあったが、文部省としても今後、大学紛争がたとえ事態収拾の方向に向かったとしても、制度上のなんらかの改善措置が必要になると判断している。
S43.10.24(1968)新大教養部長、工学部教養自治会に、人文、教育、工、医、歯の5学部が統合移転問題にどのような態度を表明しているか各学部の回答示す新潟大学の鈴木保正教養部長は、工学部教養部自治会の学生に、人文、教育、工、医、歯の5学部が統合移転問題にどのような態度を表明しているかーを回答した。各学部の回答は次の通り。▽人文学部(同学部は今年度、移転に伴う概算要求を見送っているが)来年度は要求を提出するよう努力する。▽教育学部(同学部は、5月13日の教授会で、教養課程”を来年度の新入生から新潟地区に集中するかわりに、高田の教育特設課程を現在の2課程から4課程に増設。新たな国立芸能単科大学がもうけられるまで、それを高田に存置する”との決定を行い、問題となっていたが)それら特設課程は、適当な時期が来れば新潟に吸収され、伝えられる分離統合の形はとらない。▽工学部(同学部では、土木工学科の校舎新築問題をめぐり”鉄筋コンクリート建てにするのは、全学統合の方針に矛盾する”と批判されていたが)これは鉄骨プレハブ構造で新築することに決定した。また新潟へ移転する時期については、大半の教官が来年度にでも概算要求を出すべきである、と考えているが、いろいろ困難が予想されるので、新設の工学部統合移転促進委員会で問題点を検討、早期移転に努める方針。▽医学部 問題となった学士会館建設計画は、統合計画推進の障害とならないよう、医学部長が学士会側と話し合うことになった。その結果、同会館が医学部構内に建てられることは中止される見込みである。また病院、研究施設の転用が問題視されているが、これは学部卒業生の研修、教育施設に転用、学部校舎は五十嵐地区に新設する計画である。▽歯学部 医学部と行動を共にする。
S43.11.1(1968)理学部の青写真完成新大統合移転計画の第2号に予定された理学部校舎の設計図が11月1日完成。
S43.11.2(1968)新大教養部長、大衆団交要求するなら教授会で検討新大教養部の学生約250人は、11月2日午後3時過ぎから同部内の教室で集会を開き、統合移転問題で、教養部教官と論議した。この席で、鈴木保正教養部長は、学生が大衆団交を要求するなら、5日の教授会で検討しても良い、と答えた。
S43.11.7(1968)新大教養部初の学外集会(日報ホール)開催/移転”で学生と討論新潟大学教養部は、11月7日午前9時から新潟市の日報ホールで全体集会を開き、さし迫った同部の移転問題で、学生と意見を交換した。教養部は、同大統合移転計画の第1号として、来年4月には新潟市五十嵐浜への移転が予定されており、そのためには今月中に移転への正式態度を決定しなければならない。討議は3時間余にわたって続けられた。なお学外でこんどのような集会が持たれたのは今回が初めてで、集会には約700人の学生が集まった。両者の意見は一致せず、@9日に改めて全体集会を開いて話し合うA教養部が移転に対する最終的態度を決定する20日までに、学長、評議会、統合整備計画委員会、各学部教授会を対象とした全学集会の実現を要求するーなどを決めて散会した。
S43.11.9(1968)新大延々5時間の第2回大衆団交(人文学部40番教室)/対立点、浮き彫りに統合移転問題を話し合う新潟大学教養部教官と学生の第2回大衆団交は、11月9日午後1時から5時間にわたって同大人文学部40番教室で開かれ、さし迫った同部の移転の是非について精力的な討論を展開したが、討論を通じて教官側と学生の対立点が浮き彫りにされ、事態はむしろ悪化した。
S43.11.12(1968)新大教養部移転で教官と対立/学生、大衆団交譲らず新潟大学教養部の第3回全体集会は、11月12日午後5時から同大人文学部40番教室に約30人の教官と学生約300人が集まって開かれ、統合移転問題を論議した。学生はこの席で、教養部移転問題は「学長、評議会、統合整備計画委員会を相手とした大衆団交で決めるべきだ」と要求、会場は終始緊張した空気に包まれた。この日の集会では、同部の移転問題をどういう方法で取り扱うべきかが焦点となり、学生側は学長、評議会、統合整備計画委員会との大衆団交を開いてこれを確認せよと詰め寄った。これに対して一部の教官から「教養部の移転決定問題は、もはや教養部だけで決められる事態ではなくなった」とし、「その前に大学最高機関を対象とした全学集会を開くべきだ」という意見も出されたが、大衆団交による決定には、ほとんどの教官が反対の意向を示したため、学生の意見と鋭く対立、会場には緊張した空気がみなぎった。
S43.11.22(1968)新大教養部の8クラススト権確立/25日からスト突入の構え新潟大学で、22日までに教養部8クラスの学生がスト権を確立。スト権を確立したのは、工学部教養自治会6クラスと医学部進学課程1年2組と2年1組。工学部教養自治会の要求は、@学生の意思を受け入れず、しかも全学統合の保証がない現計画の粉砕A教養部移転、理学部の着工阻止B計画の全学的、全面的再検討C学長、評議会、統合整備委員会を対象とした全学大衆団交開催。医学部進学課程1年2組、2年1組はそれぞれ、全学大衆団交の開催。中心の工学部教養自治会では、要求が通らなければ、25日からスト決行を決めており、大学側は、22日午後1時から学外で学生部協議会を開き、学生の要求にどう対処したらよいか検討した。
S43.11.25(1968)新大工学部教養自治会、きょうから無期限ストに突入新潟大学の工学部教養自治会は、きょう25日からスト決行。新潟大学教養課程の新潟市五十嵐浜への移転阻止、理学部の着工阻止、全学大衆団交開催ーなど4項目を掲げている同大工学部、教養部の学生は25日午前8時半頃から予定通りストに入った。9時頃から人文学部前広場で開かれた集会には、1限の授業をボイコットした学生たち約120人が参集、スト決行の意思確認、今後の闘争方針を討議。一方これとは別の全学自治会共闘会議も@統合移転計画の全学的民主的再検討A全学自治会、各学部協議会を設けて大学を民主化せよーなど7項目の要求を掲げ全学生にクラス討議を呼びかけた。
S43.11.25(1968)新大工学部教養自治会スト、医進学生も同調午後からは新潟大学教養部医学進学課程2年1組の学生が、工学部に同調、ストライキに突入した。このほか同学部進学課程の全学生が終日授業をボイコット、ストは広がる気配をみせた。医学部自治会執行委員会は@工学部教養自治会のスト全面支持A大衆団交要求B全学集会での教養部移転決定、のアピールを決めた。
S43.11.26(1968)新大の看護婦問題、団交また物別れ「看護婦の夜勤月8日と複数夜勤制」を要求して来月1日から実力行使に突入することを決めている(23日スト通告)新潟大職員組合医学部分会(中村分会長)は、26日午後4時から山内学長と初の団交を開いて回答を迫った。これに対し山内学長は@看護婦増員に関する年次計画書を一両日中に組合側に示すよう付属病院側に指示した。A居残り解消のため、非常勤の臨時職員を採用したいーなどの方針を明らかにしたが、組合側は「増員問題の回答にはならない」としてさらに具体案を要求。学長が病院側が示す問題"という態度を変えなかったため、1時間半で交渉を打ち切った。
S43.11.27(1968)全学教官会議を結成/新大移転問題話し合う来年4月に予定された教養部の五十嵐浜移転をめぐり、同部の学生が無期限ストを決行、混迷を続けている新潟大学で、27日、この問題を全学的立場で話し合うという全学教官会議が結成された。この日の会議では、苦悩の色を深めている教養部の現状説明を中心に話し合いが進められたが、統合整備計画委員会や学部教授会など、大学の正式機関では聞かれない教官のナマの声も多く述べられ、有意義だったとして、今後も全学教官会議を継続させることになった。大学のあり方や、既成の大学機構が問題となっている中では、まさに画期的とされる同教官会議には、教養、人文、理、農、工、医、教育の7学部から100人以上の有志教官が集まって、同日午後6時から開かれた。
S43.11.27(1968)工学部教養自治会学生、704番教室を占拠統合移転問題で紛糾している新潟大学で27日夜、大学側の統合計画に反対する工学部教養自治会の学生たちが、教養部プレハブ校舎の704番教室を占拠して闘争本部を設けた。
S43.11.28(1968)新大病院闘争最終団交も物別れ/あすからスト突入新大医学部付属病院の看護婦夜勤改善闘争は28日夕方開かれた最終団交で組合側、病院側の話し合いが最後までつかず、組合側は既定方針どおり12月1日から組合ダイヤ"によるスト体制に入ることになった。国立大学の付属病院がストに突入するのは新大病院が初めて。
S43.11.30(1968)教養部のストさらに広がる/歯学部進学課程1年生が、無期限スト30日、歯学部進学課程1年生が、無期限ストに突入した。
S43.12.1(1968)新大首脳陣、教養部と全学集会問題を検討新潟大学では、きょう12月1日にも、学長、評議会、統合整備計画委員会と教養部教授会のメンバーによる会合を開き、全学集会開催の問題で、意見を交換することになった。教養部移転決定問題で、教養部教授会は、学生たちとの間に3回にわたる大衆団交"を開いたが、平行線に終わり「納得のゆく移転決定を行うためには、全学集会の開催以外に方法はない」と大学側に同集会の開催を要請。これに対して大学側は「いまは時期が適当でない」として、教養部教授会に「まず移転を正式決定せよ」と要請。全学集会の開催をしぶってきた。
S43.12.1(1968)スト続ける教養部学生、さらに1教室占拠全学統合紛争で無期限ストを続けている新潟大学教養部の一部学生が、1日夜9時過ぎ新たに教養部プレハブ校舎の一部を占拠(705番教室)。
S43.12.1(1968)学生部協議会と教養部教官らが合同懇/具体策、早急に練る教養部移転が宙に浮いた形となっている新潟大学はこの行き詰りを打開するため、このほど学生部協議会委員と教養部教官による初の合同懇談会(秘密会)を開き、互いの意見を交換した。学長、大学評議員、統合整備計画委員会委員、学生部協議会委員と教養部教官が一堂に集まるという異例の懇談会は、1日午後1時から、国鉄越路荘で開かれ、約100人の関係者が出席して3時間半にわたって意見の交換が続けられた。
S43.12.2(1968)医進学生、2日からスト決行医学部進学課程1年2組が2日からストを決行、人文1年B組、理学部1年2組がスト権を承認。
S43.12.2(1968)全学自治会共闘会議が集会学生側は2日、人文、理、教育の3学部学生自治会で組織している全学自治会共闘会議が、教育学部前広場で集会を開き、3つの対応点7項目の要求を掲げて一般学生に移転問題について呼びかけた他、医学部、歯学部進学課程の学生が、大学側に大衆団交の開催を要求して学内デモ行進をした。
S43.12.6(1968)新大看護婦問題が解決/3年で複数夜勤制/病院業務あすから平常に新大付属病院の看護婦増員闘争が解決した。実力行使6日目の午前5時半過ぎ、深夜12時間にわたる労使の話し合いは「1人夜勤はなくす。複数夜勤、月1人平均8日を3年計画で実施するよう努力する」という点で一致。ほぼ組合要求通り妥結した。
S43.12.11(1968)人文学部がスト/新大紛争7要求の貫徹図る新潟大学では、先月25日から工学部教養自治会の学生が無期限ストにはいっていたが、12月10日開かれた人文学部の学生集会でもスト権が確立。きょう11日の1限からストにはいる。学部全体がストにはいるのは同学部が初めて。
S43.12.17(1968)新大教育学部もストへ新潟大学で12月16日、教育学部の学生がスト権を確立した。スト(無期限)は、きょう17日から決行される。学生たちの3項目要求は@統合問題の全学的民主的再検討A全学協議会、学部協議会を設置せよB以上の要求実現の保証がないままの教養部移転、理学部着工阻止。そのための大衆団交要求となっている。
S43.12.17(1968)新大、21日に全学集会新潟大学では、17日、全学集会準備会大学側委員が、21日午後1時から新潟市公会堂で同集会を開催する、との方針を決定した。大学側が、大会準備会委員の名前で、全学集会の開催を決めたのは、教養、人文、教育の3学部学生が無期限ストを続けている事態を収拾、来年4月に予定されている教養部移転をスムーズに行うためには、早急に全学集会を開いて全学の学生、教官、職員全員に理解を求める必要があると判断したためとみられる。
S43.12.20(1968)新大全学教官集会が決議/統合計画を練り直せ新潟大学の全学教官集会第4回は、20日午後6時から新潟市小金井町の同大農学部で開かれ「統合移転計画は全面的に再検討すべきである。再検討は全学的な意思の形成が可能な全学的協議の場で行われるべきである」との決議案を採択した。
S43.12.21(1968)国立大で初の全学集会流れる新潟大は21日、紛争中の国立大では初の全学集会を開く運びとなったものの、学生側の強力なピケによる反対で流会となった。

◆新潟大学統合移転闘争の経過 その2(1969年1月〜4月)

年月日見出し事     項
S44.1.14(1969)大学側と学生代表者の予備折衝の打合せ新潟大学で1月14日、大学側と学生代表者が公開予備折衝の打合せを行い、18日午後1時から新潟市公会堂で公開予備折衝を行うことを決めた。議事が進められて次の点が決められた。@18日午後1時から6時まで新潟市公会堂で開催(若干の延長はあり得る)A大学側の出席者は学長、評議員、統合整備計画委員を含む全権を持った者B議長団の人選、数は学生側に一任C折衝内容は当日決定するD長岡、高田分校の学生参加のため交通機関確保など大学側が善処する。
S44.1.18(1969)全学集会予備折衝開催新潟大学の全学集会予備折衝は、1月18日午後1時から新潟市公会堂に約1500人の学生を集めて開かれた。しかし、予備折衝運営の方法をめぐり学生側の意見が分裂。5時間にわたって混乱を続けたため、大学側との実質的協議に入れず、次回を22日までに開催することを話し合って同7時半すぎ散会した。予備折衝は、まず折衝運営方法をめぐる学生大会の形を取り、同1時20分から開催。各学部学生自治会、学友会で選出した代表団24人が学生側を代表して大学と折衝し、一般学生は議長の指示に基づいて発言するという人文自治会系提案の代表団方式と、折衝には全学生が平等に参加するとする工学部教養自治会の大衆団交方式が対立し、学生内部で激しい議論が戦わされた。このため議場は混乱、5時間後ようやく代表団方式を採択し、6時過ぎから大学側と予備折衝にはいった。しかし大衆団交方式を主張した学生たちは「採択の強行によるこのような折衝は認めるわけにはいかない」として退場を宣言。席を立ったため、大学側も一時退場。
S44.1.21(1969)新潟大学全学教官集会は同大統合移転計画の「再検討白書」をまとめた新潟大学の全学教官集会は、昨年11月27日以来4回にわたって行った討議結果に基づいて、このほど同大統合移転計画の「再検討白書」をまとめた。白書は全文79頁、5章21節からなっており、現統合整備計画の問題点を新大の研究教育体制、管理運営機構の両面からいま出ている統合整備計画を究明し、計画を軌道に乗せるための問題提起を行っている。第1章「統合整備計画のこれまでの進め方」では、計画が紛糾する原因を「新しい総合大学創造のためのビジョンの欠除にある」として@ビジョン作成のための全学的討論の開始A討論を通じての全学一致の意思形成を提唱している。そして第4章「新潟大学民主化の課題」では@学部教授会A教授再審査制度B医学部無給医局員などの問題点をとりあげ「新大の真の民主化を行うためには、学長、評議会という既存の管理機構とは別の新しい機構を設けることが必要である」としている。そして、昨年12月21日に表明された当局の再検討声明では、その姿勢がまだはっきりしていないとして第5章で再検討の内容と方法をとりあげ@同声明をも再検討の対象とするA再検討を行う場所は全学的な意思形成が必要な全学集会でなければならないーとしている。
S44.1.22(1969)第2回全学集会予備折衝開催新潟大学の第2回全学集会予備折衝は、1月22日午後2時から新潟市公会堂に約1700人の学生、教職員を集めて開かれ、早期実現が期待された全学集会を、25日午後1時から新潟市の県民会館で開催することに決定した。折衝はこのあと集会の性格規定に議題を移し、学生側から「意思決定の場としての集会でなければならない」との要求が提出された。これに対して山内学長は@評議会で了解していたものが、集会の席でも合意に達した場合、事実上の決定となるA大学側ではまだ審議中のものが、双方の努力で合意できた場合、大学は大学側に持ち帰って関係に機関にはかる。その結果了解されたものについては大学の意思としてもよいB集会で合意できなかったものについては、その場で評議会を開いて決定せよ、という学生側の要求には応じられないと回答した。学生たちはこのあと、12月21日に発表された山内学長の統合移転計画の進め方についての再検討声明″を取り上げ「声明の中に盛られた反省″再検討″とはとはどういう意味か」「反省、再検討の内容としてわれわれは、講座制、学部教授会の改善、改組を要求する」と大学側を追求した。山内学長はこれについては「新潟大学だけでできる問題とできない問題がある。新設される新しい機構としては、学内の学生、職員、教官など各層の意見が大学の運営に充分反映されるものを考えている」と答え、話し合いは一部平行線をたどった。
S44.1.24(1969)評議員会と統合整備計画委員会の合同会議が理学部校舎建設工事のタイムリミット」を協議新潟大学では、統合移転計画の第二期として、今年度から2カ年計画で、理学部校舎の建設工事を行うことになっている。大学当局は1月24日、評議員と統合整備計画委員会の合同会議を開いて、工事を決められた期間内に終わるためには、現状では「いつ着工しなければならないのか」タイムリミット」の問題を協議した。その結果「2月中旬がギリギリの線」ということになり、早急に学部の学生、教職員にこの問題の討議を呼びかけることにした。
S44.1.25(1969)新潟大学第1回全学集会開催(新潟県民会館)全学集会は1月25日午後1時から新潟県民会館で、学生、教官など2500人が集まり開かれたが、集会の議事運営段階で、またも学生間の主導権争いとなって混乱。このため大学側と論議を戦わすまでに至らず流会の形となった。人文などは「各学部の代表団による団交」を主張したのに対し、工教自などは「ただちに大衆による団交の場にせよ」と意見が分かれたため、4人の議長団もそれぞれに自派の主張を繰り返すだけで意見は平行線をたどるばかり。6時過ぎ、山内学長は「実質的な話し合いが出来ず残念であるが、大学側は退席したいと発言。しかし、続いて学生代表と話し合い、大衆団交″に臨むつもりだ」と声明。
S44.1.27(1969)新大スト学生大量留年の恐れ新潟大学の統合移転紛争は、1月25日開かれた全学集会が人文、教育2学部学生自治会系の日共系学生と、工学部教養自治会を中心とした反日共系学生の対立で大混乱、紛争収拾の見通しが遠のいた感じとなった。対立点は同集会の性格規定で、日共系自治会で選出された代表による「代表団交」の主張に対して、反日共系が、全学生の平等に参加した「大衆団交」を譲らないため、この対立は、今後更に激化の予想。教養部では、工学部に進む1年生約400人が昨年11月25日から、人文学部に進む1年生300人が12月11日から、教育学部に進む1年生74人が12月17日からそれぞれストに突入、授業放棄を続けているほか、医学部進学課程2年生の半分(50人)も11月末から授業ボイコットを継続中。教養部の学年末試験は、普通だと2月中旬から始まる。このためには早々に授業を再開しなければならないが、現状では試験の日取りすら決められない。
S44.1.28(1969)人文学部一般学生同盟を結成紛争の続く新潟大学では、1月28日工学部教養自治会、人文学部などで学生集会や大会が開かれたが、こうした動きの中でセクトにとらわれない「一般学生同盟」と称する新組織がうまれ、注目されている。同学部では一般学生による人文学部一般学生同盟が結成され、各学部に協力を呼びかけるなどの活動を始めた。
S44.1.31(1969)全学集会開催のため新大公開打ち合わせ会開催1月25日に流れたままになっている全学集会を開くための新大公開打ち合わせ会は、31日午後2時から同大人文学部40番教室で開き@議事運営で学生の意見が一致し、混乱を繰り返さないことが確認できれば、2月4日午後1時から新潟市体育館で全学集会を開くA同集会での大学側提案はー2日午前中に明らかにする、ことを決めた。学生の意見一致を条件に、2月4日午後1時から全学集会を開く。集会で明らかにする大学側提案は、2日午前中に学生側に示すーと回答。
S44.2.1(1969)理学の有志学生が、要求を掲げてハンストに突入2月1日、理学部の有志学生が、要求を掲げてハンストに突入した。この学生たちは同学部物理学科の2年生数人で、新潟市西大畑町の理学部正門玄関前にオレンジ色のテント2つを張って中に数人の学生が断食しての泊まり込み戦術に出たもの。要求は@現統合計画の白紙撤回A教養部の移転中止B理学部の着工中止C当局のはっきりした自己批判と、反省を基礎にした計画の再検討D意思決定の場としての大衆団交開催。
S44.2.2(1969)第2回全学集会の討議資料を配布新潟大学では、全学統合紛争を収拾するため「教養部の移転正式決定を延期し、理学部も五十嵐地区での着工を中止、現統合整備計画を全学的に再検討する」という方針を決めた。この方針は、きょう2月2日午前中に学生に配布、4日午後1時から新潟市の体育館で開かれる第2回全学集会の討議資料として提案する。討議資料の中で大学側は、これまでの統合計画の進め方や学外からの干渉について示したあいまいな姿勢を反省し、統合移転計画を決定した第136回評議会(40年2月)にまでさかのぼって計画を再検討するとしている。新しい統合計画の進め方と組織に関しては、まず全学集会と全学協議会の設置を提案。そこで決まったことの実行機関として大学改革委員会と統合企画委員会を新設。この新しい機構が整備されたら、既存の統合整備計画委員会は解体するとしている。全学集会は、全学統合と大学改革の方針の決定、および緊急課題を処理する場としており、また全学協議会は大学改革委員会と統合企画委員会立案された原案を検討するものとしている。そして全学協議会は学生、教職員代表と数人の評議員で運営し、協議会で決まったことは実現させるよう、評議会でも努力するとしている。また大学改革、民主化の問題では@教授会の新しい構成を学部ごとに検討するA評議会に助教授以下を教官代表として参加させる方法を検討するB学長、学部長、評議員の選出には、学生教職員の意思を反映させる方法を検討するーを盛り込んでいる。
S44.2.2(1969)山内学長が記者会見新潟大学は2月2日午前、紛争解決への「新しい統合計画と大学の改革のために」と題した大学側提案を各学部学生代表に文書で配布した。続いて午後1時過ぎから本部で山内学長が記者会見し「全学集会で全学統合をやるのかどうか″根本的な問題を学生諸君と十分な論議を尽くし合意を得たい」と解決への堅い決意を表明した。また学生側も大衆団交″でこの提案を土台に大学側の姿勢を厳しく追及する構えを見せており、長引いている新大紛争は新たな局面を迎えている。同大学は午前11時過ぎ本部で、各学部から集まった学生代表に提案書を配り、学生間の討論を要望した。続いて午後1時過ぎ山内学長が記者会見、提案についての説明を行った。席上、同学長は提案の中に述べられている理学部の五十嵐地区での着工の作業を停止する″という点について「第1期工事は入札の関係で2月中旬がギリギリの線だが、学生との合意を優先したい」と発言。また「合意に達しなければその時点で再び大学側の態度を表明したい」と述べ、今月中旬まで残された期間を学生側との話し合いに全てをかける姿勢を示した。一方、学生側はこの提案をもとに人文学部が同日学生集会を開き、工学部教養自治会、理学部などがきょう3日それぞれ学生大会を開くなどそれぞれ反応を見せている。こんどの大学側提案で紛争の局面は新しい段階を迎えたものとみられるが、現在、4日午後1時から新潟市体育館で予定されている第2回全学集会の成否は議事運営をめぐる学生側の意思統一がカギと見られており、学生側の動きが注目される。
S44.2.4(1969)第2回全学集会開催(新潟市体育館)新潟大学の第2回全学集会は2月4日午後1時から新潟市体育館で開かれたが、統合移転計画の「再検討」を主張する大学側と、その「白紙撤回」を要求する学生側の要求が激しく対立。集会の場で山内学長が不快を訴え、医師の手当てを受けるという事態があり、結論を得ぬまま午後6時半過ぎ散会した。
S44.2.7(1969)第3回全学集会(新潟市公会堂)で山内峻呉学長が統合移転計画の白紙撤回と辞任を表明新潟大学の山内峻呉学長は、2月7日午後1時から新潟市公会堂で開かれた第3回全学集会で所信を表明「統合移転計画は、無条件で白紙撤回する。その責任をとって私は辞任する」と語った。所信表明の中で山内学長は、まず、統合移転に対する学生の要求に触れ、「白紙撤回せよ″という学生諸君の要求と、それについての学部教授会の意見を聞いて、検討、調整した結果、計画を無条件に白紙撤回する」と述べた。山内学長は、さらに教養部の移転正式決定と、理学部着工が、時間切れ寸前に直面してなお決定できないでいる現実にふれ「この時、討議を白紙に戻す責任の重大さはよく知っている。私は新大を去るに当たって新大の教職員、学生全員が心を1つにして計画を推進し、統合移転が見事に実現することを希望する」と述べて、辞意を全員に表明した。なお学長の所信表明は、この時点では、評議会の承認を得た段階にとどまっており、新大の正式決定となるためには、各学部教授会での承認が必要となっている。
S44.2.7(1969)新大全学集会予期せぬ発言″に揺れる/交錯する歓声とヤジ新潟大学の統合移転計画は白紙撤回″に決まった。新大の第3回全学集会は2月7日午後2時過ぎから新潟市公会堂で開かれ、席上、山内学長は正式に現計画の白紙撤回を表明、さらにその責任を負って学長辞任を表明した。これは大学側が学生側の要求を全面的に受け入れたものとみられ、統合計画は振出しに戻ることになった。しかしこの白紙撤回″に対し、学生側の受け止め方はまちまちで、紛争解決にはさらに時間がかかることが予想される。学生、教職員約2300人が集まった全学集会は予定より1時間遅れ午後2時から開かれた。各学部学生代表が「大学側の白紙撤回」を要求した後、山内学長は所信表明として「現計画を白紙撤回する」と声明した。学長の声明が終わるか終わらぬうちに学生たちは歓声と拍手が沸き上がった。この中で、山内学長は「新しい計画が全学的に論議され、新潟大学の再スタートとなるよう」−と静かな調子で全学生、全教官に訴えた。この突然の声明に場内は騒然。予期しない学長の決定に「勝った」と拍手を送るもの、「やめてもどうにもならないゾ」などヤジも飛んだ。山内学長は医学部木下教授に支えられるようにしながら退場。休憩に入った会場では、学長声明をめぐって学生たちの話し合う姿があちこちで見られた。学長が退場した後、評議会、統合計画委員会、各学部長を代表して川瀬農学部長が臨時代行″となって学生との討議に入った。ここで学生側は白紙撤回″になったいきさつと内容を追及。大学側は「白紙撤回″はすべての計画を白紙に戻すもので、全学的な合意がない限り、教養部、理学部の移転・着工はしない。理学部の予算返上も覚悟している」と回答した。これに対して、人文・教育両学部を中心とする学生たちは要求が受け入れられたものとして、論議を進める姿勢を示した。しかし一方、工学部教養自治会を中心とする学生は「白紙撤回は本質的に学生の要求を受け入れたものではない。大学側に騙されるな」と反論。意見の対立したまま午後6時過ぎ、解散した。なお、第4回全学集会は10日新潟市公会堂で開かれる。
S44.2.8(1969)第6回全学教官集会開催新潟大学の全学教官集会は、2月8日午後1時半から、新潟市の県民会館に山内学長はじめ評議会、統合整備計画委員会委員の出席を求めて第6回集会を開いた。集会には大学側から約20人、全学教官集会側から、各学部の若手教官約80人が出席した。教官集会側は「計画白紙撤回」について質問。答弁に立った山内学長は「これは評議会、統合整備計画委員会の合同会議で決めた。撤回をきっかけに、新しい新大の創造に努めてほしい」とその趣旨を説明した。しかし若手教官側は、その具体的内容の説明を要求し「撤回の中には紛争収拾対策的なニュアンスは含んでいないか。撤回を決める際、大学側はどんな点をどのように反省したか」「大学民主化の方針は、単なるカラ手形に終わらないか。終わらないとしたら、その点の気構えを聞かせてほしい」と迫った。これに対して、北村四郎医学部教授は、医局問題に触れ「医局制度には長年のアカがついている。方法は検討しなければならないが、アカは洗い落とさなければならない」と答え、遠藤工学部長は「統合移転問題では、最近、助手以上を含めて討議することにした。また学部長選挙には助手も加えることにした」と語った。
S44.2.10(1969)第4回全学集会(新潟市公会堂)開催2月10日午後1時から、新潟市公会堂で開かれた新潟大学の第4回全学集会は、前回の第3回集会で行われた山内学長の「現統合移転計画無条件白紙撤回」声明を、文書で確認する段階で、日共系学生が撤回の内容を定める確認文書を大学側に渡すことを強行したため、反日共系学生と乱闘になり、会場は大混乱した。大学側は確認文書を一応受け取り、大学に持ち帰ったが、学生の間では、この文書交換をめぐり賛否両論が対立、今後さらに激化する見通しとなった。この日の全学集会には、大学側から評議員と統合整備委員の大学首脳約40人、学生側から約1500人が参加、3人の一般学生を議長団に「白紙撤回」声明の内容確認で開会した。人文学部を中心とする日共系学生は「撤回の内容を40年2月に新潟市郊外の五十嵐地区に全学を移転、統合すると決定した第136評議会以降の計画をすべて白紙撤回する″ものとする。撤回に基づく計画の再検討は学生を含めた場で行う」と主張した。これに対して工学部教養自治会系の反日共系学生は、撤回″を「既存の大学機構の破綻」として「全学統合ができるための大学の新しい組織の創造、大学変革でなければならない」と主張。その新組織を考える場として「全学大衆団交」を要求。この2つの意見はあくまで平行線をたどった。このため理学部学生の「確認書交換は、各学部自治会、学友会の意思で決定すればよい」とする提案が議長団に認められ、各学部自治会ごとの意思表示にはいろうとしたところ、人文学部自治会代表がいきなり壇上にかけあがり、大学側に確認文書を手渡したため、工学部教養自治会系の学生たちがおこり、両派約200人が乱闘、会場は約30分にわたり大混乱した。大学側は確認書を一応受け取り評議会に持ち帰って検討するとしているが、この確認書の受け渡しが、有効か無効かで学生の意見が分かれているため、問題は今後尾を引くものとみられる。尚、乱闘では、10人前後の学生が鼻血を出すなどのけがをした。
S44.2.10(1969)新大医学部合同討論会(医学部第3講堂)開催2月10日新大医学部では、先に43年卒、44年卒生から出されている非入局研修問題をめぐって、同日午後5時から医学部第3講堂で合同討論会を開いた。この討論会は、同学部の無給医会が呼びかけ、助教授、講師会、助手会、43年卒青年医師会、現4年生クラス会の、教授会を除く全学部的な発起で、お互いの意見を出し合った。席上、現在同学部教授会に提出されている3項目の要求について各会での見解が発表されたが、会場には400人を越す医学部関係者が詰めかけ、いずれも要求を本質的に支持する姿勢を示した。なお教授会では、要求に対するまだ正式な回答を出していない。<3項目要求>医学部の卒業後の研修のあり方をめぐって、現在の医局・講座制を改革しようと、学生から提出されている要求。そのために@現在の医局にはいらず、大学病院直属の医師として研修を受けるA43年卒と現4年生を組織として認めるB以上@Aを前提として研修のカリキュラムについては、教授、指導医、研修医の三者から成る研修委員会の合議で作成するーの3点を打ち出している。
S44.2.11(1969)人文学部学生大会開催人文学部学生大会は同日午後3時から同学部40番教室に、約530人の学生が集まって開かれた。大会では、闘争委員会から大学側との白紙撤回″確認の批准が提案され論議が行われた。人文学部ストライキ闘争委員会では確認書の交換で白紙撤回″が認められたとして、同学部4年生のスト解除の方針を固めている。人文学部学生大会の前に開かれた学部団交で、同学部喰代学部長代行は4年生の卒業について、支障のないよう最大限の努力をすると語った。
S44.2.11(1969)工学部教養自治会学生集会開催工学部教養自治会は学生集会を開くなど活発な動きを見せた。工学部教養自治会では、705番教室に約150人が集まり、同自治会の要求4項目再確認の討論を行った。同学部ストライキ闘争委員会は全学集会の人文、教育学部系の確認書交換に対して「日共系学生の確認強行は許せない」として、さらに対決する方針を決めた。
S44.2.12(1969)新大人文学部4年生がスト解除新潟大学人文学部学生自治会ストライキ闘争委員会(佐藤清純委員長)は2月12日、10日の全学集会で、白紙撤回″の確認書が交換されたことから、要求が認められたとして、同日から4年生260人のストを解いた。また1-3年生は大学側提案の内容について@交渉権などの保証A教授会の拡大ーなどについてさらに追及するためスト体制を続ける。
S44.2.13(1969)新大教育学部がスト解除新潟大学教育学部の学生は、2月13日午後2時から同学部41番講義室で学生大会を開き、10日の全学集会で大学側と交わした確認書を批准。このあと賛成290余票、反対10票、保留20票で、きょう14日の3限からスト解除することを決めた。これで同学部は昨年12月17日以来約2か月ぶりでストが解かれる運びとなった。なお統合移転問題については「全学統合の線でいくべきだ、この大会で確認せよ」との声も出、注目された。
S44.2.13(1969)新潟大学評議会は学長辞職問題結論出ず新潟大学は、2月13日午後1時から評議会を開き、山内峻呉学長辞職承認問題を協議したが結論が出ず、次回に改めて協議することにした。なお学長代理は、これまでの川瀬農学部長に代わり、鈴木保正教養部長が勤めることになった。
S44.2.13(1969)新大医学部S44年卒業生卒業試験をボイコット新大医学部の卒業後の臨床研修のあり方をめぐって、44年卒業生(現4年生・留学生2人を含む82人)は、2月13日午後からクラス会を開き、15、21日に行われる予定の卒業試験をボイコットすることを決めた。同学部では、昨年から卒業後研修の改革を要望する声が学生を中心に高まり、クラス会では先に教授会に対し、現在の医局へは入らず付属病院直属の医師として研修することなどの3項目の要求を提出していた。これに対し教授会側は13日、研修のあり方についての教授会案を示し、学生をはじめ、助教授、講師会、助手会などに説明会を開いていたが、学生側は要求に対する回答がないとして、ボイコット方針を打ち出した。同学部自治会でもこれに同調、スト突入も辞さないとする態度を固めており、昨年から続いている医学部紛争は激化する様相をおびてきた。
S44.2.17(1969)新大医学部自治会3項目要求を掲げてスト権を確立新大医学部自治会(小関康之委員長)は2月17日、1-3年生の学生大会を同学部第3講堂で開き、「医局にはいらずに卒業後の臨床研修を行う」など、いわゆる3項目要求を教授会に認めさせるためのスト権を確立した。大会は午後1時40分から始まり、オブザーバーとして出席した4年生や43年卒業生らも加わってギッシリ。「教授会の姿勢を正し医学部民主化を実現するためにはスト権確立で要求を貫徹する以外にない」「スト権確立といった力関係では問題の解決は得られない」という2つの意見が対立。午後6時近くまで討議を重ねた後、ようやく採決に入った。この結果、賛成141、反対88と過半数の賛成票をえてスト権が確立され、先に卒業試験ボイコットで事実上のストに突入している4年生を合わせ医学部全学年が「3項目要求実現」への力を結集することになった。同自治会では近く学生の結集大会を開き、教授会との大衆団交を行うが、要求が認められないときには「ただちにストにはいる」ことにしている。
S44.2.17(1969)新大教養部の期末試験延期紛争の続いている新大教養部では2月17日に行われる予定だった5教科の期末試験を延期した。同部では先に統合移転問題を中心とする一部反対派学生の行動と当面の学部内の事情を合わせ、期末試験の実施を担当教官の自主的判断に任せる方針を取ったが、この日は社会学、法学、フランス語、美術、ドイツ語の試験が中止、延期された。特に午後1時10分から人文21番教室で行われる予定だったドイツ語試験(農学部進学2年生)では一部学生がバリケードを築いて受験生を阻止する一幕もあった。同日午後開かれた教授会では期末試験の問題や移転白紙撤回″をめぐる教養部内の現状分析などが討議され、期末試験は3月10日までいっさい行わないという方針が確認された。
S44.2.18(1969)新大人文学部1-3年もスト解除新潟大学人文学部学生自治会ストライキ闘争委員会(佐藤清純委員長)は要求がほぼ認められたとして18日、同学部1-3年生のスト体制を解除した。人文学部学生大会は2月17日午後3時過ぎから開かれたが、闘争委員会は@闘争によって大学民主化の一歩を踏み出したA政府文部省の大学支配による統合移転を一応阻止できたーとしてスト解除を提案。18日未明まで論議した結果、賛成多数で1-3年生のストを解除した。これで同学部は13日の4年生スト解除に続き、全面的にスト体制が解かれた。授業再開は明日19日の教授会で検討され、20日から正式に始まる予定。
S44.2.18(1969)新大学長代行に鈴木教授を選出新潟大学は2月18日午後から夜10時にかけて学外で評議会、統合整備計画委員会の合同会議を開き、山内学長の辞任を承認。鈴木保正教養部長を学長代行として選んだ。同部長の代行就任は、28日の閣議にはかられ、承認されれば3月1日付で発令になる予定。また同会議では学長代行選出に先立ち、7日の全学集会で、山内学長の「現統合移転計画を白紙に戻す」との発表は白紙撤回″の受け取り方について学内に混乱があると分析、その意味を討議した。その結果、新潟大学としては「どのような学園をつくるにしても、学内の教育、研究機能を有機的に結びつけて、統合できる体制を目指すことは、総合大学として当然のことだ」という統一見解をまとめた。これは、統合移転計画再検討の出発点になるものとみられ、注目される。
S44.2.18(1969)新潟大学評議会「白紙撤回」に統一見解新潟大学は、2月18日午後、学外で評議会と協議会を開き、山内学長の辞任を承認。鈴木保正教養部長を学長代行に選んだあと、山内学長が発表した現統合計画の白紙撤回声明について討議した。その結果、総合大学としての新大が、学内の教育、研究機能を有機的に結び付けて、大学の発展を目指すことは当然のことだーとする見解をまとめた。これは計画白紙撤回の受け取り方がいろいろあって、学内全体に混乱が生じていることに対して、大学側が統一見解を示したことを意味しており、計画の白紙撤回から計画の再検討にはいる時の出発点になるとみられ、注目される。この点について学内の意見一致をはかるため、大学では21日午後1時から新潟市公会堂で第5回全学集会を開くことにした。全学の意見一致が得られるかどうかが、紛争解決のヤマ場になろう。
S44.2.18(1969)新潟大学工学部教養自治会評議会室(本部)を占拠新潟大学工学部教養自治会の学生約40人は、2月18日午後2時、同大本部2階の評議会室を占拠して、大学側に大衆団交を要求した。大学側は、これに対して「21日午後1時から新潟市公会堂で集会を開催する」と伝えた。新潟市五十嵐浜に全学を統合移転する、との現統合移転計画は7日の第3回全学集会で大学側から白紙撤回され、学生側の要求が通ったとする人文、教育両学部の学生は、18日までにストライキを解除したが、工学部教養自治会は、大学側の撤回を「全学統合移転まで否定するものだ」として、大学側に大衆団交の開催を要求していた。
S44.2.19(1969)新大医学部学部集会開催/医学部教授会「3項目要求」のむ新潟大学医学部(三国敬吉学部長)は2月19日午後1時から同学部第3講堂で、当面する卒後臨床研修問題などについて学部集会を開く。これより先、17日夜行われた同教授会と、研修医の入局をめぐるいわゆる3項目要求″の実現を急ぐ助教授、講師、助手、勤務医局員との話し合いの席上、教授会側は「3項目要求は認める。2月7日に出した教授会案は白紙撤回する」との態度を明らかにした。@入局によらない卒後臨床研修を行い、病院長直属の医師として契約するA研修医の組織を認めるB研修委員会の運営は教授、指導医、研修医3者の合議で行うーという3項目は学部内の若手医師、学生側から強く要求されており、44年卒業生の卒業試験拒否闘争や17日開かれた学生自治会(1-3年生)のスト権確立などの事態を引き起こしている。19日の学部集会では当然、この3項目に対する教授会側の考え方や、それに付随する研修医の性格や位置づけなど、細目についても討議が行われるものと予想される。学生側、特に44年卒業生は卒業試験、国家試験というタイムリミットに迫られており、その点からも教授会との合意、協約書の調印の時期に関心が集中するものとみられ、学部集会を契機に医学部紛争は新しい局面を迎えることになる。
S44.2.19(1969)新大が自己批判パンフ″学生に配布/全学一致を呼びかけ新潟大学(鈴木保正学長代行)は2月19日、「新潟大学の危機打開を全学生に訴える」と題するパンフレットを学生に配った。内容は@現統合移転計画白紙撤回の責任と理由ははっきりと示さなければならなかったA撤回しなければならなくなった事情、問題点をはっきり反省しなかったことが、危機を一層深めているーと、自己批判の態度を明示している点が注目される。この姿勢は、そのあとに続いている「評議会の反省」「白紙撤回の意味・内容」「危機を克服するために」「全学的な一致点を求めて」の各項目についても、はっきりと貫かれており、計画の白紙撤回に関しては@大学の反省を前提として新しい総合大学の建設と大学民主化に取り組むAその出発点として第136回評議会決定(注40年2月)以降の現統合移転計画を無条件白紙撤回するB教養部校舎、土地利用、理学部予算については、新たな計画を追及していく中で再検討するC全学的意思を統一しないままの教養部移転、理学部着工は強行しないーの線で全学の意見一致が得られるよう、学生、教職員に訴えている。
S44.2.19(1969)新大パンフレット(要旨)【評議会の反省】計画を白紙撤回しなければならなかった理由を、全学に明らかにする義務がある。第一は、136回評議会決定が、全学の総意を結集する意味で、民主的だったとは言えない点。第二は、計画に全体構想がなかった点の反省である。また第三には、計画実現の段階で派生した、学外からの政治的介入に、断固とした姿勢を取らなかったことである。しかも、評議会は、過去1年以上にわたり、学生諸君との話し合いを持たなかった。さらに大学に対する学生の不信感を蓄積してきた。この時なお、撤回の理由をはっきりしないでおくならば大学への不信はさらに拡大するだろう。【白紙撤回の意味・内容】計画の白紙撤回は、紛争の拡大を防ぎ、1日も早く事態を解決しようという強い願いから生まれた。無条件白紙撤回声明がこれに賛成する学生層との合意を急いで賛成できない学生の意見にじゅうぶん答えるという姿勢に欠ける結果になったことも否定できない。一方で「無条件白紙撤回」を決めながら、他方で全学統合を主張することは論理的におかしい。しかし総合大学としての新大が、研究教育機能を有機的に統合できる体制を目ざすことは、どのような学園建設を考える場合でも、いわば固有の原理である。計画の白紙撤回により、このような原理まで否定されるものだとするなら、それは「赤ん坊を水に流す」行水のたとえに似た愚行である。高度産業社会下の大学が、どのようなものであるべきかは、大学人なら容易に頭に描くことが出来るはずである。【危機を克服するために】学生がいだいている白紙撤回″の疑問点や主張を率直に受け止めて合意点を早急に見つけ出し、再検討のスタートとしなければならない。理由はいま新大が直面している二重の危機を回避する必要があるからだ。その1つは新しい新潟大学建設の物質的基盤の崩壊を防ぐこと。例えば年度内に理学部着工が出来ない場合、せっかくの今年度予算を国庫返上しなければならない。これは全国の国立大学でも最劣等の研究、教育施設に悩む教養、理学部の窮状打開のチャンスを失うことになるからだ。第2は全学生、全教職員の一致を見ないまま学園紛争が最悪の事態に直面した場合(警察権介入、学生間の実力行使の意味)、そこに残されるものは精神的、道徳的荒廃であって物質的破壊、損害とは比較できない一大損失であり、大学再建は不可能となるだろう。
S44.2.19(1969)新大パンフレット(要旨)【全学的な一致点を求めて】白紙撤回の意味・内容で学生間に2つの意見が対立しているが、一致点はないものか。あるし、必ず見いだせると確信する。人文、教育両学部自治会が、大学と交換した確認書は、当該自治会と大学側に関する限り、効力は否定できない。他方、白紙撤回をまだ認めることができない学生層は、この白紙撤回によって「全学統合」の理念までも失うものではないという保障を求めているようである。この意見の不一致は両方の学生間で話し合いで統一されることを願う。しかしその時の到来を黙って待っていられる事態ではない。そこで、新潟大学は、大学の危機を克服するための最後の提案をする。【白紙撤回にかんする確認書案】(原文のまま)本学の現統合計画の全体に対する大学側の反省を前提とし、さる2月7日の全学集会における学長の白紙撤回の所信表明とその後明らかになった学生間意見の一致点をふまえて、大学として全体構想と総合的研究教育の体制を備えた新しい総合大学の建設、大学民主化に取り組む出発点に立つために、次のことをここに確認する。1.第136回評議会決定と、それにもとづく教養・理学部の移転着工計画を含む現統合計画を何らの条件をつけずに白紙撤回する。2.教養部の建物、土地利用、理学部の予算については、新たな路線を追及する再検討の内容とする。3.全学的意見一致のないままの教養部の移転、理学部の着工は強行しない。右確認する。
S44.2.19(1969)新潟大学医学部学部集会開催/教授会3項目要求を認める新潟大学医学部の学部集会が2月19日午後1時15分から同学部第三講堂で開かれた。教授25人と、学生から助教授に至る約350人が出席。延々8時間に及ぶ質疑が行われたが、席上教授会側は@3項目要求を認めるAこれまでの姿勢を反省し、今後学部内各層の意思を十分反映していきたいB医局問題検討会を早急に作るーなど学部民主化に対する学生側の要求をほぼ全面的に認めた。特に教授会が「学部管理運営の決定への段階で学生参加を認める。学生の拒否権や決定権については積極的に検討したい」という態度を明らかにした点が注目される。教授会と学生側との間に4項目の確認事項が取りかわされたが、この結果2年越しに続いてきた医学部紛争は一応、事態収拾の方向をたどるものとする見方が強く、今後3項目実施をめぐる細目の協議と実施時期、スト解除などの動きに焦点が絞られることになる。同集会は24日に再び開かれる。
S44.2.19(1969)研修協約闘争で3項目要求が認められる。学部集会の確認事項次の通り。1.学生、青年医師が展開した研修協約闘争は、医学部の革新および卒業研修改善に意義ある運動であったことを認める。1.一昨年11月以来、学生、青年医師に対してとってきた教授会の従来の姿勢には反省すべき点が多々あったことを認め、その反省の上に立って前向きの姿勢で3項目実現に努力してゆくことを確認する。1.教授会は以上2点の反省の上に立って、従来教授会自治と呼ばれてきた医学部の管理運営体制を根本的に改めるため、今後の医学部内の諸問題に関して、学生を含めた学内各層の決定への過程に参加を認める。なお、単なる形式だけの民主的システムや意見の表示の場にしないことを保障し、決定権、拒否権については各層からの要求があればこれを認める用意がある。1.教授会は、従来の医局制度、講座制度にとらわれず、医学部における教育研究体制のあり方を学生および学内各層と共に検討し、決定してゆくことを確認する。
S44.2.20(1969)三国政吉医学部長と小林収病院長が辞任/大半の評議員が辞任を表明新潟大学の三国政吉医学部長と小林収病院長は、2月20日開かれた同学部教授会に、医学部長と病院長の辞任を申し出た。同教授会は2人の辞表を受け取った。後任の学部長が決まるまでは大鶴正満教授(医動物学)が臨時学部長代理を勤める。一方、新潟大学では、2月21日午後からの第5回全学集会を前にして、同日午前10時から評議会を開き、集会に臨む執行部の態度を協議した。この席で、29人の評議員中、大半の評議員が数日中に辞任することを表明した。7日の全学集会で山内学長が辞意を表明して以来、川瀬農学部長ら数人の評議員が、全学教官集会などの席上で、暗に辞任を表明しており、評議員の大量辞職が起こるのは、このころから予想されていた。
S44.2.21(1969)鈴木保正代行らの現執行部が評議会で総辞職を決定新潟大学の統合移転紛争は、2月7日、山内学長が計画の白紙撤回と学長辞任発表してから、事態が流動化していたが、21日同学長の後任に就任した鈴木保正代行をはじめとする現執行部が、同日午前の評議会で総辞職を決めた。一方、統合紛争とは別に医学部の三国政吉学部長、小林収付属病院長の2人は研修医入局紛争にからみ20日開かれた同学部教授会に辞任を申し出た。大鶴正満教授が臨時学部長に決まるなど、卒業試験、入学試験を目前に新大の動きは急にあわただしくなってきた。
S44.2.21(1969)第5回全学集会(新潟市公会堂)中止大学側が21日の全学集会を計画したのは、計画の白紙撤回、辞任を表明した2月7日の山内学長声明で、日共系の人文、教育両学部自治会とは合意できたが、反日共系学生自治会との合意″に失敗、紛争の収拾が、結局、片面講和に終わったため、山内学長に代わって登場した鈴木保正代行らは、統合移転問題の推進で移転問題をめぐって発生した紛争の中で取ってきた大学側の姿勢を自己批判。これを討論の題材として、もう一度全学生と話し合い、事態を完全収拾するため開催を予定した。ところが、集会の開催に先立って開かれた同日午前の評議会で、集会に臨む大学側の態度を協議した結果、評議会内部からも、この全学集会には反対の声が強く出されたため、鈴木代行も中止と決定。統合移転計画に関係してきた現執行部としては、もはやいかなる解決策をとっても通らないと判断して、評議員の総辞職を決めたもの。
S44.2.21(1969)工学部教養自治会(反日共系)学生が同大本部を封鎖工学部教養自治会の反日共系学生が、大衆団交開催の要求が通らなかったとして、同大本部を封鎖するなどあわただしい動きをみせた。これで2年越しの同大統合紛争は最悪な局面を迎えた。
S44.2.21(1969)鈴木保正学長代行ら4首脳が記者会見新潟大学の鈴木保正学長代行、竹内公基学生部長、青木清理学部長、小林茂夫歯学部長の4首脳は、全学集会の中止、それに続く工学部教養自治会系(反日共系)学生の本部封鎖が行われた21日夕刻、新潟市公会堂で記者会見し、理学部着工、入学試験など当面の問題について次のように語った。1.混乱を収拾する最後の集会と期待したが、学生自治会、評議会で集会を持つこと自体に反対意見が強かったため中止した。1.この結果、現執行部では事態解決の方法がないと判断、全員が総辞職することにした。1.新しい評議会の構成は法令で定められているので助教授を加えるかどうかは文部省と協議しなければ決められない。1.間近に迫った入試は、社会的責任も大きいので、統合問題より重視し、必ず行う。(共闘派の学生が入試阻止に出た場合どうするか?との問いに対し)事態がどう動くかわからないが、警察力の導入は避けたい。1.理学部着工問題は、各学部教授会、学生の了解を得て、できるだけ着工したい。全学統合の一部としての着工とか、部分統合ということではなく、老朽校舎の改築という気持ちだ。
S44.3.2(1969)新大新執行部スタート/初の評議員会開催新潟大学は入試をひかえた3月2日、新しく選出された学部長、評議員による初の評議員会を開いた。全学的な意思統一を図るため、13日ごろにまず大学初の「全学教官懇談会」を開くことを決めた。
S44.3.6(1969)新大全共闘が評議会と団交新潟大学の本部を封鎖している同大全共闘の学生約80人は、3月6日午後3時過ぎ、大学外の新潟市下所島、新潟会館(県教職員互助会経営)で開かれた2回目の新評議会場に押しかけ@新評議会は認められないA旧執行部は自己批判せよーの2項目要求を突きつけて、30人の評議員を約8時間にわたりかん詰めにし、団交したが、大学側は応ぜず午後11時物別れに終わった。
S44.3.11(1969)新大、分散で卒業式新潟大学は3月11日夜開かれた評議会で、43年度の卒業式は学部単位の分散卒業式にすることを決めた。
S44.3.13(1969)学長代行に長崎教授新潟大学は3月13日午後1時から、新潟市内で評議会を開き、鈴木保正学長代行の後任を互選の結果、長崎明農学部長を新学長代行に選んだ。
S44.3.14(1969)初の全学教官懇談会(新潟市公会堂)開催3月14日午後1時から新潟市公会堂で初の全学教官懇談会を開き、約5時間にわたる討論を展開した。
S44.3.14(1969)新大今週に全学集会新潟大学は3月14日の全学教官懇談会のあと評議会を開き、今後の方針などを話し合い、さらに15日学生部協議会を開いた結果、今週中にも再び全学集会を開くことを決めた。
S44.3.17(1969)新大理学部着工問題、あさって態度を決定新潟大学は、理学部着工のタイムリミットを20日に控え、あわただしい動きを見せている。長崎明学長代行ら大学首脳は17日、文部省を訪れ、理学部着工期限の再延長を申し入れたが、受け入れられず「20日に着工可否の決定」を確認する結果となった。このため大学側では、18日午後1時から新潟市公会堂で第2回全学教官懇談会、翌19日には教官、職員、学生の全新大構成員を集めた全学集会を開き、学内の世論″を聞いた上で、20日中には決断″を下すことになるとみられる。
S44.3.18(1969)「全教懇」、理学部着工の意思統一ならず新潟大学は3月18日、新潟市公会堂で第2回「全学教官懇談会」を開いた。長崎学長代行ら新執行部はこの懇談会で20日がタイムリミットといわれている理学部着工問題について教官の意思統一を目指したが、全共闘系学生の激しい反対や、教官の意見の食い違いも表面化、結論は出なかった。
S44.3.19(1969)新大第6回全学集会(新潟市体育館)、「理学部着工」結論出ず理学部着工問題で揺れている新潟大学では、3月19日午後3時から新潟市体育館で、長崎学長代行らの新執行部発足後初の全学集会を開いた。この集会で新執行部は、一応20日がタイムリミットとなっている理学部着工問題についての教職員、学生の意見を聞き、「新大再建」への共通基盤をさぐる予定だったが、集会はしばしば日共系と全共闘系学生の対立の場となった。このため論点が定まらず、教官、学生、職員の意見を煮詰めることができなかった。
S44.3.20(1969)新大、異例の分散卒業式新潟大学の43年度卒業式が3月20日、各学部一斉に行われた。今年の卒業式は紛争の影響で例年のような各学部合同のマンモス卒業式″が取りやめになり、学部毎の分散卒業式になった。新潟地区では人文、農学、医学部がそれぞれ学内で、理学部が自治会館、教育学部が市体育館、工学部は長岡市厚生会館、高田(教育)は高田分校で、午前、午後にかけて式を行った。
S44.3.20(1969)新大第7回全学集会(新潟市公会堂)また空転新潟大学は、3月19日に引き続き、20日午前10時から新潟市公会堂で全学集会を開催した。この日の集会で長崎代行は「学内意思統一の基盤を探し求め、新大の民主化の改革を進める。しかし大学の再建には精神と同時に施設、設備の充実も必要である。大学としては理学部着工を決定したい」と大学の考えを述べ、議題として討議するよう提案した。しかし集会は相変わらず学生間の勢力争いの場となってサッパリ焦点が絞られず、いつもと同じ不毛の集会となった。21日午後1時から新大医学部グランドで青空全学集会を開き最後の意思統一を図る。
S44.3.21(1969)第8回全学集会(教育学部グランド)また流れる新潟大学では3月21日、再度全学集会を開いて、極限に迫った理学部着工問題を討議する予定だった。ところが集会に臨もうとした長崎学長代行が、会場の教育学部体育館横手のグランドで全共闘系学生約50人に取り囲まれ、3時間余りにわたりつるしあげられたため、全学集会は中止となった。
S44.3.21(1969)新大全学集会不信の乱闘″/包囲の代行救急車で脱出理学部の着工をめぐって荒れ続ける新大は、3月21日の全学集会を混乱のうちにまた流産させた。冷たい雨がパラつき、膚寒い風が吹き抜ける教育学部グランドの中で、長崎学長代行を取り囲んだ学生たち。約3時間半にわたる学生の追及に、堅く口を閉じて答えない代行。肩をすくめてこれを見守るだけの教職員たち。夕刻、代行はついに救急車で脱出したが、大学当局・日共系学生・全共闘系学生の救いがたい対立はますます深まり、新しい糸口を見つけ出す術もないまま、また1日を空費した。混乱は長崎代行の会場到着と同時に始まった。全共闘系学生約30人が駆け寄り「集会の目的は何か、理由をはっきりさせろ」と迫った。教官十数人が代行をかばうように人垣を作り、学生とのもみ合いが続いた。長崎代行と全共闘系学生を中心に人の渦巻きができ、それがずるずるとグランドへ。渦の中、長崎代行は人波に押されてか顔面蒼白。大学側は附属病院の救急車をグランドに入れた。しかし車の前ですわり込んだ全共闘系学生たちに代行の脱出は阻止され、事態は悪化。何回かの殴り合い、もみ合いの後、代行を中心に円陣が出来て、学生たちのつるし上げが始まった。日共系学生は「暴力学生排除、大衆団交の予備折衝を開け」と全共闘系学生を非難。激しいやり取りの中、長崎代行は終始無口。じっとこらえている様子。約1時間半の不毛の野外団交が続いた。大粒の雨が横なぐりに降り始め、円陣の一角が崩れると同時に教職員、日共系学生がスクラムを組み長崎代行を救急車へ。つかみ合い、殴り合い、怒号と罵声が入り乱れ、じりじりと人波が動き、何度かの衝突。もみ合いの中から長崎代行はやっと救急車へ。最後は代行の乗った救急車を護衛する学生と阻止しようとする学生の対立になった。カタツムリのようにのろのろと移動してようやく道路へ押し出され、阻止する学生を振り切って、救急車はスピードをあげて中心部方向へ消えた。
S44.3.22(1969)新大長崎学長代行が発表/理学部着工は進める新大は3月21日の全学集会が混乱のうちに流れた後、新潟市内の「湖畔」で徹夜の評議会を開き、22日午前2時、理学部新校舎の着工を強行する方針を決め、22日朝文部省など関係機関にも連絡した。長崎代行は22日午前9時50分からの記者会見でこの方針を発表するとともに、今後若干の困難はあってもこの方針を推進する決意を表明した。
S44.3.22(1969)「評議会声明」=原文のまま=<原文>3月21日新潟大学評議会は左記事項を考慮に入れ、理学部新校舎の着工を決定した。1.理学部の現校舎は老朽化がはなはだしく、到底今日の進歩した科学と教育・研究するための場たりうるものでなく、早急な改築が熱望されている。2.五十嵐地区における土地・建物および本年度認められた理学部新校舎の予算は、新潟大学にとって大きな財産であって、これを教育・研究のために有効に使用することは、われわれ大学人が社会に対して当然負うべき責任である。もし予算を返上するならば、それは新潟大学の今後の整備計画に対して致命的ともいえる重大なる結果をもたらすであろう。3.右の土地および建物予算は、第136回評議会(昭和40年2月)の決定にもとづく統合計画の一環として得られたものであり、したがって本年2月7日に山内前学長の決意表明によって統合計画が白紙撤回された以上、それは当然全学的再検討を経て、全学的合意のうえにのみ着工しうべき性質のものである。本日、年度末の期限に迫られて、右の条件がまだみたされていないにもかかわらず、着工を決定せざるをえなかったことは、現評議会が成立して以来いまだ日が浅いという事情があったこととはいえ、まことに遺憾なことである。4.特に大学側と学生諸君との間の信義にもとる決定をし、このことがひいては大学側と教官、事務職員諸君との間の信頼関係をそこねざるを得なかったことに対しては、甘んじて非難を受けなければならないと思う。しかしわれわれはこんご全学的再検討の場を早急に設定し、大学革新の途を精力的に追及するなかでわれわれと学内各層間との不信感を取り除きたいと念願している。5.旧統合計画が白紙撤回されたことは、それを生んだ大学のもつ古い体質に対する批判から出発したものであり、したがって学内的にみた場合、それは必然性をもったものであるにもかかわらず、社会的には少なからぬ混乱を生みだし、大学の社会的信用を失墜したことは否めない事実である。われわれは今回の理学部新校舎着工決定を再出発点として真の総合大学の名にあたいする大学の建設に邁(マイ)進することにより社会の期待に答えたいとおもう。6.今後に予想される困難な事態に対しては、学長はじめ評議会員全員が一致してその解決に当たる覚悟である。昭和44年3月21日新潟大学長ほか評議員一同
S44.3.22(1969)新大理学部強行着工/学内さらに混乱の恐れ(1)タイムリミットを控え、その行方が注目されていた新大理学部着工問題は、3月21日、全学集会が混乱のうちに流れた後、新潟市内のホテル「湖畔」で開かれた同大評議会で着工を決定し、22日早朝、文部省など関係機関に連絡された。これで紛争の焦点となっていた同着工問題は一応決着がつき、計画どおり3月末着工、明春完成の運びとなった。しかし強行着工の形となったため、学生はじめ一部教官層はこの決定に反発を示しており、そうした返発が今後どのような形をとって動き出すのか、その動きを中心として学内情勢は、さらに混乱するには必至となった。一部学生と教官の反対を受けながら、大学側が理学部着工に踏み切ったのは、着工決定後の記者会見で発表された声明でもわかるように@理学部着工を中止した場合の統合移転計画の完全ご破算と、それによって巻き起こされる新大施設整備の遅れの回避A計画を県下に公表し、土地確保、敷地整備などに寄せられた県、市の協力に対する社会的責任の遂行などが大学の考えに大きく作用したものとみられる。中でも特に捨てきれなかったことは@の理学部着工中止による新大施設整備の遅れだったと考えられる。何故なら理学部校舎建設は、40年2月、第136回評議会で決定された新大統合移転計画の第二次計画分の一環の中にあり、文部省から既に予算を割り当てられたが、いまここで着工を流してしまえば、理学部予算の返上はおろか、理学部に続く、人文学部、大学本部、中央図書館、農学部、教育、工、医、歯の全学部を含む統合移転計画の一切がご破算″になり、新大の施設設備の充実は、この先何時になるのかわからない、お先真っ暗のものになってしまうからだ。事実、理学部着工のタイムリミットが切迫し、学内に苦悩の色が濃く漂い出した今月初旬、理学部といわず、人文、教養の各教官の間では、理学部着工中止後の施設整備、文部省予算配分についての展望を語る中で、校舎は建設したものの、学部内の意見が分かれ、新校舎への移転を見送った東北大学農学部がその後、研究教育予算でも冷遇され、困っていることが話題になった。
S44.3.22(1969)新大理学部強行着工/学内さらに混乱の恐れ(2)今度の理学部着工決定は、そうした計画推進の面から見れば、風前のともしびとなっていた統合移転計画をとにかく”延命″させたことになり、新大の施設充実面ではかなりの意味を持ったといえる。しかし学内情勢は、この強行着工決定で、さらに混沌とするものとみられている。全共闘系学生は、2月7日、山内学長が白紙撤回して以来、依然着工中止を叫び「タイムリミットを持ち出して理学部着工に踏み切るのは、学生の意見を無視しようとするものだ」と反発している。計画の白紙撤回要求を、大学民主化=学生自治会の大学に対する交渉権承継と引き換えに、一旦闘いのホコを収めた日共系学生も「学生を加えた民主的再検討を経ないうちの理学部着工は許せない」としているからだ。過去何回かにわたったこれまでの全学集会から、全学生と大学側が同席しての話し合いは意味がないということがわかったものの、全学的合意のうえでの着工をうたいながら、形の上では強行着工となった点、学生の反発をさらにあおるものとみられ、大学側自体も、着工を決定した評議会当夜、各学部が徹夜の教授会を開き最終的態度を協議したが、出そろうまでにはかなりの時間がかかり、学部間には微妙な意見の食い違いを残している。
S44.3.23(1969)理学部着工決定/全学ストをぶっつけろ″/学生にはやはりショックあらしの中で揺らぐ新大。その渦中で理学部の着工は強行されることになった。ただ今度の決定″が異なるのは、事件の落着では全くないという点。問題の発展次第では、この決定″を土台にして、再三大揺れが繰り返される可能性があるからだ。焦点に立った理学部は、現実には手のつけられない老朽校舎の悩みをかかえながら、全学的な大学改革を考えなければならないという二重苦″を背負ってスタートするわけだ。決定″の日、学内の動きはあわただしかった。<あわただしい学内>「理学部着工決定」のニュースは3月22日午前中に大学構内に広がった。この決定はある程度予想されていたものの、各派の学生に衝撃を与えたようだ。21日の激しい衝突の後、疲れ切った表情で情報集めに忙しい。全共闘系学生は占拠中の解放本部″で集会。「予想はしていた。われわれの要求を大学側は完全に無視した力量からいって今すぐ阻止の実力行使は難しいが、長期的な闘争になる」と早くも大学と対決の姿勢。一方、日共系学生は、21日夜からの対全共闘の理学部防衛逆封鎖″を終わったばかり。「代行を探し出せ」「動員をかけろ」−とリーダーの指令が飛ぶ。人文自治会書記局・佐藤清純委員長は「評議会との団交を強く要求する。人文教授会は着工に強く反対していた。民主化を進めなかった教官の退官も要求する」と怒りをぶっつけた。午後3時過ぎからは人文40番教室で学生集会。「新しい闘争を組み大学と対決する。新学期にかけ全学ストも辞さない」とこれまた強い姿勢。対立の続く全共闘系学生と日共系学生は「理学部着工阻止」という点では同一歩調。理学部では全共闘系学生の封鎖″の実力行使を恐れて、疎開態勢にはいった。フラリと現れた全共闘系学生に女子職員が「あんたたち本当に封鎖するつもりなの?被害を受けるのは私たちなのヨ」とやんわりつめ寄る一幕もあった。教官は連日の会議、そして前日の深夜から22日未明にかけての暁の教授会″でダウン。午前中はほとんど学内に姿を見せなかった。理学部のある研究室では声をからし、疲れた表情の若手教官がポツンと1人、電話の応対。「学生の封鎖には抵抗できないが、研究室だけは守りたい」「理学部着工の決断はありがたいが、今後すべての目で覚悟が必要ですよ」と学内の難しい情勢に暗い表情だった。
S44.3.23(1969)新校舎の青写真/明春までに3棟<新校舎の青写真>着工と決定した理学部校舎設計図は昨年10月末完成していた。A,B,Cの3棟からなっており、A棟は全館5階建て。B,C棟は3階建てで、延べ面積は1万1455平方メートル。当初はA棟とB棟を本年1月中旬着工。そのあと引き続いてC棟を着工し、明春3月末までに全館完成。数学、物理、化学、生物、地質・鉱物の5学科と460人の教官、職員、学生を収容する予定だった。紛争による約2ヶ月半の着工延期は、今後の工事にも影響し、完成は約2ヶ月遅れて明年5,6月になるものと見られるが、計画通りに進めばとにかく明年新学期には早々には新潟市五十嵐浜に新校舎がお目見えし、西大畑町からの移転が実現する運びとなった。
S44.3.23(1969)全国でも最低クラス/実験さえままならず<オンボロ現校舎>しょうてんとなった理学部。移転統合の論議は別として、校舎や施設は「全国でも最低クラス」(同事務職員)のひどさ。大正8年建築いらいほとんど手が加えられていない校舎はまさに荒廃″ともいえる貧弱さだ。旧制新潟高等学校の校舎をそのまま使用しているのだから無理ないことだが、学生数の伸び、研究施設の膨張係数″とは全く無関係といわんばかり。朽ちかけた廊下は学生が歩くと無遠慮?にギシギシと鳴り、教室の戸も壊れているところすらある。研究室といっても名ばかり。器材や実験用具が雑居して、まるで物置き。学生や教官たちは、その間で肩身せまく動き回る。だから精密さが必要とされる実験には不向き。ある研究室などは電子顕微鏡を使う際は、大学が寝静まった深夜に限るーというところさえある。更に1700万円で購入した最新式の核磁気共鳴装置(化学系統の分析装置)も同じく振動で使いにくいし、39年に買ったコンピューターは、これは収容の場面がなく、プレハブ校舎の中で泣いている始末。新年度予算がついたベータ、ガンマー線の同時観測装置、地盤研究施設、物理学科の3講座の増をどうさばくかーと頭を抱えている現状。
S44.3.31(1969)新大理学部校舎で文部省が予算(2期分)お預け/全館完成かなり遅れそう新潟大学は3月22日決めた理学部校舎移転建築工事の入札を31日、新潟市で行い、東京の大手業者である熊谷組が建築部分を落札、紛争で遅れていた着工は新年度早々から始まることになった。ただ今度の落札は第1期工事分だけとなり、第2期工事については予算措置が保留の形となったため、当初予定されていた来年春までの理学部全館の完成はかなり遅れることになった。大手業者13社が参加した入札は熊谷組が1期工事の建築部分を2億1950万円で落札。付属設備の電気、給排水、ガスの工事は専門業者4社が9550万円で落札し計3億1500万円の工事が開始され来年2月下旬完成の予定となった。現在の計画によると工事は校舎、事務系管理部門、物理、数学、地質・鉱物3学科の研究室、実験室など延べ6580平方メートルで全校舎のうちA棟とB棟の半分が完成する。しかし残り半分のB棟は第2期工事分に含まれているため、化学、生物の実験室、研究室など4890平方メートルの建設は遅れる見通しとなった。同大施設部の話では、計画通りに進んでいれば、2月中旬に1期工事の入札をおわり、2期工事は年度内(43年度)に契約を済ませるつもりだったという。この2期工事については、「ゼロ・100方式」と呼ばれる予算執行法が適用される。これは前年度に予算執行を前提に業者と契約を済ませ、後年度に工費が支払われる予定だった。ところが文部省が予算保留の態度を示したため、2期工事分は「ゼロ・100方式」を適用することが出来なくなり、大学側は単年度予算という形で文部省と再交渉しなければならなくなった。
S44.4.4(1969)新大、入学式取りやめ/新入生(人文学部除く)は自宅待機に新潟大学は4月4日午後、学生部協議会を開き、今年度新入生の入学式開催と新入生の取扱いについて協議の結果、この15日に予定していた同入学式は中止、人文学部を除く医、歯、工、農、教育、理の6学部新入生は、当分の間自宅待機させることに決定した。
S44.4.10(1969)期末試験めぐり応酬/新大教養部教授会との団交物別れ新潟大学で4月10日、教養部教授会と工学部教養自治会の教授会団交が行われた。これはさきに決定した教養部期末試験実施(大学側は18日から始めると発表)に反対する教養部自治会が教授会と話し合ったもので、午後1時過ぎから理学部17番教室で約80人の学生が参加して開かれた。学生側は「なぜ試験をやると決めたのか」「試験実施で闘争を圧殺するつもりとしか受け取れない」と教授会を追及。一方、教授会は「現在の情勢からみて、試験を中止、延期することは不可能だ」と回答。了解点のないままこの日の団交を終わった。
S44.4.11(1969)「新大再建準備会」が発足新潟大学長崎明学長代行は4月11日記者会見し、今後の同大学のあり方の根本について考える「新潟大学再建委員会」の説明を行った。同委員会は実質的には10日から「準備会」としてスタートしており、学園紛争の中で起きた諸問題を検討し、大学改革を通して新しい大学づくりを目ざすという。同委員会設置は先月中旬の新評議会スタート共に考えられていたもので、3月20日の全学集会で長崎代行が提案していた評議会では再建委員会設置の前にまず準備会を発足させ、問題点の整理と検討をする方針で、去る10日に第1回準備会が開かれた。準備会で取り扱う問題は、再建委員会の構成、討議事項、タイムスケジュールの設定、各種資料の収集調査などで、機構調査会、施設調査会など分科会を下部組織としてつくり活動するという。10日に開かれた第1回準備会では結論を出さないフリートーキングの形で進められた。この中で、主に討議されたのは、これから考えなければならないものとして@総合大学としての新潟大学のあり方の再検討A新潟大学の管理運営組織の再検討B総合計画を含む施設整備計画の再検討C大学管理運営への学生参加D同じく職員参加の問題ーなど5点を挙げている。この問題を通じて各学部、部局のあり方、評議会と各学部の関係、施設整備計画などを検討する必要があるとしている。特に、改革には各部局の改革の実践がまず必要で、それが再建委員会に反映されなければならない。これを準備会の基本的な考え方としていくべきだという意見が多かった。発表では同準備会のメンバーは32人(学長代行、教授14人、助教授13人、助手3人、無給医1人)。各学部から2-4人の委員が参加している。評議会としては、準備会の意向を尊重していく方針。今後は運営委員会をつくり、分科会の設置を早急に進め、なるべく早い時期に再建委員会を発足させたいという。
S44.4.12(1969)入学式「入学式」:4月15日予定されていた合同入学式は4月8日の評議会で中止を決定。新入生の取り扱いは各学部に任された。理、医、歯、工、農学部では所属新入生に入学式中止と、15日までに各自入学手続きを済ませ、講義開始まで自宅待機″とするよう既に連絡済。この中で、人文、教育学部は15日に学部主催の入学式を行うことにしている。
S44.4.12(1969)教養部期末試験「教養部期末試験」:教養部教授会は期末試験を18日(金)から始め、25日(金)までに終わらせることを決定。14日試験スケジュールを発表する。現在試験の対象は同部所属の1340人と専門課程2年の572人。7日間で約200課目の試験を受けることになる。教授会では、専門学部の授業日程の関係から、早急に進級判定をしなければならないこと、日本育英会の奨学金交付が保留になっているが、試験が実施されない場合、交付が停止されるーとしている。
S44.4.12(1969)講義「講義」:専門課程は11日工学部が開始、17日教育学部が始めるなど平常通り行われる予定だが、問題は新入生だ。教養部試験が終了するまで自宅待機させる学部が多い。ただ人文学部では18日から25日まで、新入生対象に特別講義を行うことを決定。18日の喰代教授の「現代科学の方法」を皮切りに各専門教官講義を始める予定。大学側では11日の教務委員会で来月15日からガイダンスを行い、19日からは協議を開始することを決定。また来月6日からは人文学部に続いて各学部が特別講義を始めたいーとの提案があり、各学部は早急に検討することになった。
S44.4.15(1969)紛争を見つめる三人新潟大学の問題は、単に新潟大学だけでなく、新潟県全体にとっての大きな問題である。とりわけ統合移転問題は、候補地が新潟市に決定する前から、中、下越の数多い市町村に新大誘致の夢を抱かせ話題を呼んだ。地域は政治家を動員し、政治家は地域と密着して統合反対、あるいは移転予算の執行阻止を働きかけて、紛争の種をまいた。学内的には、統合移転を決定した伊藤学長は超A級戦犯″のレッテルを張られた。紛争は、地域と何らかの形で計画に関係した人たちすべてに波紋を投げた。「統合移転を決めた元新大学長伊藤辰治氏」「高田分校の拡充を期す前県知事塚田十一郎氏」「新大誘致に敗れた津川市長伊藤正一氏」がコメント。
S44.4.14(1969)新大 期末試験に強い態度/工学部教養自治会スト解除に動く大学側は4月14日、この18日から行う試験日程を発表したが、学内情勢が落ち着かないため、試験会場を各学部に分散することに決め、さらに学内でただ一つ、ストを続けている工学部教養の学生については今回、受験させないことにした。このため同日午後開かれた工学部教養自治会の学生大会では、大学側の?強硬態度″を反映してか、大勢は「スト解除」の方向に動き出したことが注目される。
S44.4.15(1969)新大全共闘派、教養部事務室を占拠新潟大学で4月15日未明、教養部期末試験中止を要求していた全共闘系学生が同大教養部(新潟市西大畑町)の管理部門に当たる事務室をバリケード封鎖、占拠した。このため18日から予定されている期末試験の実施にかなりの支障がでるものと予想される。同日午前5時すぎ、ヘルメット、覆面姿の全共闘系学生約15人が教養部横の入口から学内にはいり、同学部の部長室、会計、庶務、厚生課の事務室と、廊下に隣接する理学部地質学教室プレハブ研究室を机、いす、ロッカーなどでバリケード封鎖、占拠した。大学側にとってこの封鎖は予期していなかったもので、期末試験用の事務書類、学籍簿、新入生の入学手続き関係書類、入学金、授業料などは一切持ち出していないため、18日からの期末試験にかなりの支障があるものと見られる。
S44.4.15(1969)新大期末試験あくまで実施4月15日、新潟大学では評議会を開いて、封鎖に対する大学側の態度を協議した。この結果「一部学生が大学本部に続いて教養部事務室を封鎖したことは遺憾である。学生は直ちに封鎖を解除して退去せよ」という告示と「教育と研究の場の大学を不法に占拠するような行動は許されない。大学は一致して暴挙に対処する決意である」という声明を発表。長崎学長代行が記者会見し、次のように語った。「試験実施の方針には変更はない。試験には封鎖派の妨害も予想されるので、全職員を動員し、警戒に当たらせる方針だ。人命に危険を生じない限り機動隊は導入しない。まず教官の説得で自主解決を図る。」
S44.4.16(1969)新大教育学部長岡、高田分校新入生の授業開始4月11日の工学部を始め各学部の専門課程の講義がそれぞれ始まっているが、16日から教育学部長岡、高田分校で新入生の授業が開かれた。
S44.4.16(1969)工教自、スト解除を決定新潟大学の本部を封鎖している全共闘の中心勢力、工学部教養自治会は、4月16日午後1時から教養部プレハブ教室で学生大会を開き、スト解除の問題を討議した結果、賛成159、反対、棄権91で、約5ヶ月半ぶりにストライキ解除を決定した。しかし本部封鎖後の全共闘学生は、前日の教養部事務室封鎖に続いて、この日午後零時過ぎ、更に教養部の教官プレハブ研究室を封鎖した。このため大学側は、学生部協議会を開き、封鎖に対する大学側の態度を協議した。この結果、全学の教官、職員を総動員、封鎖学生の説得に当たらせることになり、約600人の教職員を三班に分けて、本部など封鎖箇所に繰り出したところ、封鎖学生に反感を持っていた職員たちが、実力排除に出、教養部教官研究室は?解放″したが、本部、教養部事務室の解放はできなかった。なお工学部教養自治会のスト解除で、新大の闘争学生は、各学部から集まった?同志の学生″で構成している全共闘だけとなった。また、全共闘は、この日の大学側の出方に態度を硬化させており、あす18日の教養部試験実施を控えて、学内に緊張の空気が高まることは必至となった。
S44.4.16(1969)新大紛争、説得戦術も立ち往生4月16日の新大は、大学側がとった占拠解除のための?説得作戦″が不調に終わる一方、学生大会を開いてスト解除を決めた工学部教養自治会のうち?スト堅持派″約100人が新たに占拠に加わるなど、1日中目まぐるしく揺れ動いた。
S44.4.18(1969)農学部を除き中止/新大期末試験全共闘が実力阻止新潟大学では、紛争で学年末試験が延期となっている教養部学生約1308人の大量留年を避けるため、きょう4月18日から1週間にわたり、各学部教室で分散試験を行うことにしていたが、試験実力阻止の方針を立てていた全共闘系学生が試験場封鎖、学生の入場阻止などの実力行動をとったため、1限の試験はほとんど中止された。試験実力阻止の方針を決めていた全共闘系学生は、この朝8時頃から行動に出、ヘルメットにゲバ棒を持った学生約30人が、まず人文学部の教室2棟20教室を机やイスでバリケード封鎖。そのあと約10人が教育学部正門玄関に押しかけピケを張った。一限の試験科目は経済学で、受験生は約100人。午前8時半開始を予定し、続々集まってきたが、全共闘学生の阻止行動で中に入れず立ち往生。人文学部では午前9時、試験中止を決定した。人文で受験を予定した約130人の学生は、教育学部正門玄関前に流れ、教育学部で試験を受けることになっていた約70人の学生の成り行きを見るのに集まったので、教育学部正門玄関は約200人の学生で膨れ上がった。この中で日共系を含む教育学部自治会学生が、全共闘学生に詰め寄って「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールを叫んだり、マイクで妨害の自主排除の構えをみせ、緊張した空気が流れた。このため試験実施は事実不可能となり、午前10時10分、教養部は1限の試験中止を発表した。一方、医学部では、17日の学生集会で試験ボイコットを決めていた。医学部進学課程の生約100人が、この朝8時頃から旧医学部本館前に集合。説得に来た教養部教官と討論し、試験ボイコットの行動を取ったため、ここでも事実上試験は中止となった。結局1限の試験が予定通り行われたのは受験生43人の農学部だけだった。
S44.4.19(1969)農学部試験も中止/新大全共闘が本館封鎖新潟大学学年末試験2日目の4月19日、全共闘系学生は再び試験妨害に出、新潟市小金町の農学部本館二階を占拠した。この日午前7時45分頃、全共闘系学生15、6人が農学部本館に入り、数学の試験が行われる予定だった特別講義室のある二階の階段二カ所をイスや机でバリケードを築き、二階を封鎖した。二階には特別講義室など4教室、事務室、会議室がある。この事態に対し、教養部教官が検討した結果、午前9時過ぎ、数学の試験中止を決定。全共闘系に封鎖された農学部は新潟市郊外にあり、いつもは静かなところだが、全共闘系学生のマイクのアジ演説が休むことなく響き渡った。教養部教官などは各所で占拠学生を相手に説得を続けたが、占拠学生はさらに4号館の二階に机やイスでバリケードを築くなど行動をエスカレートするばかり。これに対し一般学生はバリケードを崩そうとするなど学生同士の対決の動きも出始めている。
S44.4.21(1969)期末試験、総くずれ/新大ほとんどレポートに三日目を迎えた新潟大学教養部期末試験は4月21日、またも全共闘系学生の阻止行動にあいほとんど実施できなかった。一方、農学部学生が「このような混乱状態で受験しても無意味だ」と大衆団交を要求して、自主的に試験をボイコットしたのを始め、歯学部進学課程1年でも試験ボイコットを決めた。この日14科目約600人の試験が予定されていたが、受験したのは4科目25人だけ。こうした事態に対し大学側では、約30科目予定されている22日以降の試験をほとんどレポートに切り替え、混乱を避ける方針。農学部では同日午前9時過ぎ、全共闘系学生数人が、受験生にボイコットを呼びかけた。このため受験生たちは急きょクラス討議を行い、約80人が試験をボイコット。しかし18人が教室に入り受験したため、これを阻止しようとする全共闘系学生と入り口を守る教職員が対立。スピーカーでボイコットを訴える混乱の中で英語の試験が行われた。また人文学部でも第一限の英語は二教室が封鎖されて中止。午後は理学部と人文学部で6人受験しただけ。残りの十科目がレポートに切り替えられた。三日間ともほとんどの試験場で妨害を受けた大学側は万策尽きた感じ。これ以上混乱を繰り返してはと、筆記試験をレポートに替える教官が増えてきた。理学部前の掲示板に発表されている試験日程表も次々に消され「レポートに変更」の赤字が目立った。
S44.4.28(1969)?沖縄返せ″とデモ/新潟市でも2つの集会4・28沖縄デーの4月28日夜、新潟市では2つの集会が開かれ、それぞれ集会の性格は違いながら「安保条約破棄、沖縄を返せ」と政府に抗議した。県庁前広場では県反戦委員会・新潟地区反戦青年委員会主催の集会は、同5時半過ぎから学生・青年労働者など約500人が参加。社会党子田忠男県議、鈴木県評議長らが「4月28日は日本にとって屈辱の日である。佐藤内閣を打倒して安保条約破棄・沖縄即時返還を勝ち取ろう」と演説。集会には官公労、国労、動労、民間単組の青年労働者、学生が参加。特に新潟大学の全共闘系学生が、ヘルメット姿で行進をリード。東中通ー柾谷小路ー駅前大通りのコースをセンターラインを超える激しいジグザグデモで気勢を上げた。このため国道8号、7号線などが混乱。交通は一時マヒ状態になった。学生たちはデモ終了後、駅前タクシー駐車場で集会、参加者の中に高校生の姿も目立った。

◆新潟大学統合移転闘争の経過 その3(1969年5月〜12月)

年月日見出し事     項
S44.5.8-9(1969)医・歯を除き全員進級/新大教養部が特別措置新潟大学は5月8、9の両日、教養部教授会、学生部協議会を開き教養部期末試験の進級判定問題を検討した結果、現在の状態では完全な進級判定を行うことは不可能であると判断、43年度の教養部所属学生については「特別措置」として一応専門課程への移行を認めることを決定した。ただし医学部、歯学部の学生については学校教育法の関係から対象からは除外する。大学側では「結果的には全員進級という形にはなるが、あくまでも特別措置であり、一般教養科目の不足単位は卒業までに必ず取らなければならない」としている。この措置では専門課程のカリキュラム編成にかなりの支障が生まれることも予想され、また学生にとっては当然卒業年度が遅れる心配もある。教養部期末試験は2月中旬に予定されていたが、紛争の激化から延期が続いていた。このため大学側は4月上旬、教養部期末試験実施を決意、同18日から開始した。しかしこれに反対する全共闘系学生が教養部封鎖、試験妨害の直接行動に出たため、試験は混乱、ほとんどの試験をレポートで代行させた。教養部では一応、レポートを進級判定の材料にすることにしたが、進級に必要な39単位の判定には期末試験結果、出席日数など細かい資料が必要となってくる。このため教養部が封鎖現状でほとんどの資料が持ち出せなく、厳密な判定は出来ないと判断、こんどの特別措置となった。このため教養部所属の学生は医学部、歯学部進学課程の学生を除き、約千人が専門課程に移行することになる。
S44.5.8(1969)「統合確認」を白紙撤回/新大医学部教授会が決める新潟大学医学部教授会は、5月8日開いた教授会で、統合移転に関する昨年7月9日の同学部教授会決定を白紙撤回することを決議した。白紙撤回された昨年7月の教授会決定とは、大学の全学統合計画を「ズサンである」と批判した学生の質問に答え、同学部が全学統合移転についての態度を明らかにしたもので、@医学部も全学統合移転計画の一環として新潟市五十嵐地区へ移転するA移転の時期は約10年後をメドとするB医学部の既存の施設は、医学生の卒後研修施設に当て、五十嵐地区に新設される建物は、学部学生の教育と、研究を行うものとするーと定めている。同大では、この2月7日に行われた山内学長の統合移転計画白紙撤回声明で、既存の計画は一応白紙還元し、今後新しく設けられる再検討の場で、計画を練り直す方向が決まっており、既に同大評議会では声明を批准している。各学部教授会段階でもその確認と批准が行われているもの。しかし紛争の中で医学部は統合阻害学部の1つに挙げられ、実際に統合移転するのかどうか疑われていたことから、こんどの教授会決定が果たして計画再検討の路線に乗るものか、または将来とも五十嵐地区への統合移転を破棄することを意味するのか、問題になっており、助教授、助手、学生の間では、学部側の真意をただそうという機運が高まっている。
S44.5.10(1969)新大再建に新組織/教官、研究者ら35人で/評議会とは一線を画す新潟大学は先月10日、同大学のあり方を考える「新大再建委員会準備会」を発足させ、同準備会で3回にわたる討議を重ねてきたが、このほど準備会を発展的に解散する一方、学内体制とは別組織の「新潟大学再建に関する教官・研究者代表者会議」(略称「再建会議」)が生まれ、学内の民主化、改革に取り組むことになった。同会議は近く基本姿勢を全学に表明し、具体的な作業を始めるが、学内各層、特に学生がこれにどう反応するか注目される。新潟大学再建委員会準備会は、4月上旬評議会の提案によって発足していたが、準備会の性格について各種の意見が出され、同会議は当初考えられていた「評議会を拡大した形の再建委」ではなく、学長・評議会など大学管理運営機関とは別の組織としてスタートすることになった。同会議はその性格として@学生、職員と同一線上の組織層の認識で全学の教官、研究者を母体とし、その代表によって構成されるA大学を構成する学生、職員に対しては大学再建に関して平等な立場で接触し、意思交流を図るBこの会議で合意点に達した結論は大学管理運営機関である評議会(学長)も教官、研究者層の総意として尊重すべきであるーと3点の基本線をあげている。また基本姿勢として@大学自治は教授会だけの自治であってはならないA研究、教育に従事するものは教授でも助手でもすべて平等B学生、職員も大学の構成員であり、大学管理運営に何らかの形で参加する平等の権利を持つC学部のあり方や運営は全学的視野においてかつ可能な限り全学的に検討されるべきであるーとしている。同会議は早速小委員会を設置、具体的な作業に取りかかる。まず当面の課題として@新潟大学の機構・管理運営のあり方A同大学の研究、教育および体制のあり方B同大学の研究、教育施設のあり方を取り上げるという。同会議の性格が大学管理運営部門と一線を引いている″ことから学内では「教官集会を組織化したものではないか」また「法的なバックを持たないものであることから重み″に欠ける」など批判が出されている。学生側の反応はいまのところ表面化しておらず、今後学生の動向が注目されている。なお会議は人文、理、教養、農、工、歯、脳研から各3人、教育、医は各6人、商短2人の計35人の代表で構成されている。
S44.5.17(1969)5月20日から授業を開始/新大自宅待機の新入生紛争で新入生を約1カ月自宅待機させた新潟大学はきょう5月17日と19日の2日間オリエンテーション(適用指導)を行い、5月20日(火曜日)から一斉に新入生の講義を始める。また医学部、歯学部を除く教養部所属の学生も大学側の特別措置で、進級判定なしに専門課程に移行、20日からは2年生として専門講義を受ける。このように同大学では学生の講義だけはほぼ正常の状態にこぎつけた。しかし本部封鎖、教養部封鎖が依然続いており、完全な学園正常化はまだ望めそうもない。「大学立法」成立が必至の情勢の中で、大学首脳部がどう決断するか注目される。約1500人の新入生は先月15日から自宅待機していたが、留年が心配されていた教養部学生の専門課程移行でようやく講義開始のメドがついた。17日、19日のオリエンテーションは各学部ごとに行われ、所属する教養部の講義内容、各学部の説明などが行われる。20日から講義が始まり、長かった自宅待機に終止符が打たれる。また専門課程移行の新2年生約1000人も17日までに編入手続きを終わり、講義が始まる。しかし全共闘系学生による大学本部封鎖は約3カ月、教養部封鎖は1カ月と長期間にわたった。教養部教授会の再三の説得も不成功で、封鎖のとける見通しは全くない。また教養部期末試験をめぐり、医学部進学課程の学生がレポート自主管理″の闘争に入っている。更に教育、人文学部など自治会、全共闘の要求している大衆団交″には大学側が態度を決めかねているため対話″は望めない空気。
S44.5.17(1969)統合計画、来月をメド/新大学長代行発表/再建会議に期待新潟大学は5月20日から新入生の講義を開始するが、その中で、3月21日の理学部着工以来検討の遅れていた「統合計画」が6月の概算要求期を目前に再び重大事項として浮かび上がっており、大学側は早急な再検討を迫られている。長崎明学長代行は17日記者会見し「統合計画の再検討は6月いっぱいをメドに進めなければならないだろう」と、当面する学内問題に対する考え方を語った。1.文部省の予算保留の影響は新潟大学の場合あまり大きくない。統合計画の予算への影響を心配する声もあるが、理学部着工で一応大学の姿勢は認められている。ただ紛争の直接の影響で教養部の学生経費が四分の三(約2800万円)保留の形になっている。しかしこれも授業開始で解消されると考えている。1.統合計画は3月19日全学集会に提案したように再検討を早急に進める必要がある。統合予算は白紙撤回″で、本年度分に関して保留の形になっているが、概算要求のタイムリミットである6月いっぱいまでに保留分の計画を含めて統合をどうするか見通しをつけなければならないと思う。統合計画の再検討は、先に発足した「再建会議」の仕事になる。ただ統合だけを扱うものではなく、新潟大学のあり方を含めて考える必要があり、時間がかかることは予想されるが、どうにか6月いっぱいにはメドをつけてもらいたいと考えている。評議会としては再建会議が再検討の場として十分な機能を果たしてくれることを望んでいる。また合意に達したものは教官層の総意として尊重してゆきたい。ただ現状で6月末までに完全な合意に達するかどうかは五分五分だと思うが、最善の努力をしたい。1.全学集会については、今のところ早急に開催する考えはない。単に全学集会を開いたことで問題が解決するとは思えず、学部段階、学科単位、さらには教官1人1人が学生と話し合いをしてほしい。これが全学集会へのステップになると考えている。自治会の要求している団交については現在、自治会と接触を続けており、機会をみて開きたい。1.本部封鎖、教養部封鎖は大学にとって頭の痛い問題だ。学内世論を喚起して、学生たちに自分たちの間違いを感じさせたい。当面実力解除は考えていない。1.中教審の発表には大学評議会として見解をまとめた。近く学内に発表し、論議してもらいたいと思っている。中教審が紛争の収拾のみにとらわれて治安対策的、学生対策的な考え方をしているのは残念に思う。現場の苦悩を十分に考えているのか疑問といえる。学長に権限を集中したところで、問題が解決するわけではない。
S44.5.20(1969)新大新入生ようやく授業/目立つ休講に不満/先輩″のアジ演説も飛び込む新入生が自宅待機を続けていた新潟大学ではきょう5月20日から、新一年生の講義を開始した。第一限の午前9時から8科目の授業が予定をされていたが、休講になる授業も目立ち、張りきって出席した新入生たちは当惑した表情ー。4月15日以来紛争の影響で延期されていた新入生の授業は、教養部所属の旧1年生専門課程移行で20日からようやく始まった。大学側の特別講義など新入生を遊ばせない配慮もあったが、正式な授業開始は新入生にとって待ちに待っていたもの。17日、19日のガイダンスに続き、きょうの授業となった。理学部階段教室では、約100人の学生が出席して、鈴木保正教授の物理学。早速「ベクトル解析」の講義に入り、新入生たちは、真新しいノートの1ページにペンを走らせた。しかし、授業の休講も目立った。人文学部40番教室には「倫理学」の授業のため約150人の新入生が集まったが、定刻の9時が過ぎても教官の姿は現れない。休講になるかならないのかわからない状態で新入生はただ待つだけ。30分、40分と時間がたっても連絡がない。ざわついてきた教室で突如自治会の先輩″が中教審答申を批判するアジ演説を始めた。新入生から「帰れ!」のヤジが飛ぶ。ビッシリとスシ詰めの教室、後ろでは立って授業開始を待つ学生も多く「マスプロ大学ではないか。いったい先生はどうしているんだ」と不満の声も上がっていた。授業終了の10時半近くになっても授業は始まる様子もなく、無責任な休講″に多くの新入生は怒っていた。
S44.5.23(1969)学生街は大荒れ/全国で大学立法反対デモ政府の「大学立法」に反対する学生や労組は5月23日午後、全国各地で統一行動を展開した。警察庁の調べによると、同午後10時現在、全国29都道府県で、国立22、公立8、私立5計35大学が「大学立法反対」のストライキを実施、抗議行動で東京34人など計58人が公安条例違反、公務執行妨害現行犯などで逮捕された。東京では反日共系全学連各派(革マル派を除く)と東大、日大、中大など全共闘の学生約3000人が同1時過ぎから神田駿河台の明大記念館、日大理工学部前などに集結、明大前通りなどで散発的なデモを始め、警備の機動隊約1500人は、これに対して催涙ガス銃と放水で応酬、通りを埋め尽くした学生たちを排除した。この騒ぎで明大前通りをはじめ周辺の交通は一時完全にストップ、学生、機動隊員双方に17人のケガ人を出した(午後6時現在)。学生はこのあと明大記念館で大学立法粉砕集会を開いた後再び付近にバリケードを築き、また地下鉄を利用して銀座、国会周辺に押しかける動きを見せており学生街の駿河台一帯は夜になっても騒然とした空気に包まれた。
S44.5.23(1969)きょう大学立法粉砕スト全国約30大学/教授・学生ぐるみも/共闘の傾向も強まりそう大学立法をめぐる政局の緊迫化に伴って、全国各大学では「大学の自治と学問の自由を奪い、大学紛争を法律で規制しようとする策動は許せない」とする学生の動きが目立ってきた。学生ばかりでなく、教授会ぐるみで抗議声明を出したり、労働組合が学生を招いて大学立法の勉強会を開くなど幅広い反対運動が盛り上がりつつある。5月23日には全国約30大学が抗議のストライキを行うほか、東京では日共系、反日共系がそれぞれ集会とデモを予定している。大学立法粉砕に最も力を入れている日共系全学連は、5月12日から6月23日までを「大学紛争収拾臨時措置法粉砕、大学民主化、自治会選挙勝利闘争月間」とし、早くから取り組んできた。22日正午までに北大(法)東北大(教養、理)東大(教育、理科系大学院)一橋大、都立大、お茶の水大、理科大(二部)東経大(一部)信州大(教育)名大(教育、理、法、教養)愛知大、日本福祉大、名古屋市立大(薬)大阪女子大、大阪社会事業短大、大阪工業大(二部)京大(教育、経、法、理)立命館大(経、文、法、理工)香川大、九州工業大の20大学がすでに大学立法阻止のスト権を立て、日共系全学連では23日ストライキ実施大学は30大学を越えるだろうといっている。東京では中央総決起集会を午後2時から小石川の礫川公園で開き、約5千人が文部省に抗議デモする。また北大、東北大、名大などでは教官の一部も参加して学生、大学院生、教職員組合共催の学園ぐるみの反対集会が開かれる。これに対して反日共系各派は「政府は機動隊の力ではヘルメット学生を学園から締め出せないため、反戦的な大学立法を打ち出してきた」と同法の粉砕を叫び、5月23日午後2時東大安田講堂前で総決起集会を開く予定だった。しかし東大当局が同日の構内立ち入り禁止を打ち出したため、清水谷公園などに集まることを予定している。また明大などのある神田駿河台に集まって地下鉄で文部省や東大に押しかける動きもある。革マル派は早大に約500人があつまり文部省に向かう。西の拠点校京大では23日、構内で大学立法反対の「全関西総決起集会」(反日共系)と「全京大集会」(日共系)が同時に開かれ、後者の封鎖をめぐってかなり紛糾しそうだ。
S44.5.23(1969)新大も市中をデモ新潟大学できょう5月23日、中教審答申、大学立法に反対する教職員、学生など主催の3つの反対抗議集会が開かれる。同大学教職員組合主催の「全学教職員総決起集会」は午後0時15分から教育学部前広場、また学生も教育、人文学部自治会がストライキ態勢を目標に総決起集会を午後から開き、さらに全共闘系学生も全学討論集会、全学総決起集会を午後1時過ぎから開く。学生たちは集会後の夕刻から市中デモを予定している。教職員、両学生の三団体はそれぞれの立ち場は違っているが、先に出された中教審の答申、また今国会の焦点となっている大学立法に対して、治安対策的、大学の自治を脅かすものとして反対している。なお、新潟大学評議会は、先に中教審答申に対して@答申は紛争収拾だけを目的にした治安対策的なもので、現場の苦悩が十分に反映されていないA学長権限を拡大し、管理運営機関を強化しても、紛争は解決しないB大学は大学なりに紛争解決のために努力しており、大学の自治を尊重してほしいーなど答申に反対する態度を表明している。
S44.5.23(1969)新潟学生をごぼう抜き中教審答申、大学立法に反対して5月23日、新潟大学でも教職員組合、学生などの抗議集会が開かれた。また学生は全共闘系、自治会両派学生がそれぞれ夕刻から新潟市内をデモし「答申、立法粉砕」を叫んで気勢を上げた。特に全共闘系の学生約160人の集団は、市内各所で激しいジグザグデモやすわり込みを行ない、規制の警官隊ともみあって軽傷者1人を出した。この日午後5時20分、色とりどりのヘルメット姿の全共闘系学生70人あまりと約100人のシンパ学生は営所通りー東中通りー柾谷小路で「立法フンサイ」「闘争勝利」をシュプレヒコールしながら激しいジグザグデモを繰り返して進んだ。特に西堀通六、興業銀行前では、ジグザグデモを規制しようとした警官隊と激しいもみ合いになった。警官がガードレールに押しつけられ、学生がえり首をつかまれる。歓声と警笛の交錯する中でのぶつかり合いに、ラッシュ時のやじ馬が目をみはっていた。この間交通は各所でストップ。数百メートルにわたって車の行列ができた。このあと学生は西堀三の自民党県連前で座り込んだ。「交通の邪魔になる。学生は直ちに座り込みをやめよ」というマイクでの警告の後、6時45分、警官隊は実力を行使、ごぼう抜きにかかった。警官隊は40人をごぼう抜きにして学生を二分、7時過ぎになってようやく学生は動き出した。この騒ぎで学生1人が道路にころび、軽い脳しんとうを起こして救急車で運ばれた。このあと全共闘系学生は教育学部前で集会、同夜8時すぎ解散した。新大教職員組合による全学総決起集会は教育学部前で午後1時から開かれた。白衣姿の教職員など各学部から約100人が集まり、児玉執行委員長が「中教審答申は大学の弾圧である。民主的権利に根ざした民主化闘争をくり広げよう」とあいさつ。各学部からのアピール、決議文を採択して30分後に散会した。このあと同じ場所で、全国学生統一行動に呼応して教育学部自治会を中心とした学生約150人が集会を開き、人文、教育、理学部学生約250人は全共闘系学生の30分後に同コースを整然とデモ行進して、8時ころ人文学部前広場で解散した。
S44.5.24(1969)大学の運営に関する臨時措置法案政府は5月24日の臨時閣議で「大学運営臨時措置法案」を決め、国会に提出した。法案の全文は省略し、項目は次のとおり。目的 第一条、定義 第二条、学長等の責務 第三条、大学紛争の報告 第四条、文部大臣の勧告 第五条、運営機関等の特例 第六条、教育等の停止に伴う効果 第八条、国立学校設置法の改正等の措置 第九条、学部等の間の紛争に係るあっせん 第十条、紛争大学の新入学者に対する教育実施等の協議 第十一条、公立又は私立の大学についての準用 第十二条、臨時大学問題審議会 第十三条、省令への委任 第十四条、付則
S44.5.30(1969)新大生ら25人逮捕・外相訪米阻止行動/全共闘が無届けデモ/新潟宵の繁華街で交通混乱/中央署前で抗議集会 県反戦青年委員会、反安保県実行委員会主催の「愛知訪米、ASPAC、出入国管理法案粉砕」大集会は5月30日午後5時過ぎから米海軍第七艦隊給油艦「ケネベック」が寄港している新潟港北フ頭で行われた。しかしこれに先立って同集会に参加しようとして新潟市内を無届けでデモ行進した新大全共闘派の学生約80人が警察の警告にも解散しなかったため、25人が県公安条例違反で逮捕された。デモの新大学生が逮捕されたのは昨年6月15日に3人逮捕されて以来のこと。午後5時半過ぎヘルメット姿で新大理学部前をスタートした全共闘学生約80人は駆け足で営所通りー西堀ー柾谷小路へ向かった。この間学生は車道で激しいジグザグ・デモを繰り返した。新潟中央署は広報車で「無届けデモはやめよ。学生は解散せよ」と警告した。しかしデモ隊は警告を聞かずに行進を続け、上大川前七の交差点に入った。このため新潟中央・東両署員150人と機動隊70人が学生を歩道に追いやり、解散するよう命じた。そして約20分間にわたって学生と警官隊の間でにらみ合い、警告、シュプレヒコールの応酬が続いた。午後6時5分、警官隊は検挙体制に入り、学生25人を次々に県公安条例違反で逮捕、残りの学生は一団となって古町方面へ逃げた。このあと学生はバラバラになって北フ頭の集会へ向かった。学生の逮捕騒ぎで柾谷小路の交通は約500メートルにわたって渋滞。騒ぎを知って約200人の市民が現場に集まった。反戦青年委員会はこの日「愛知訪米粉砕」のデモをする予定でいたが、新潟港に「ケネベック」が入港したため、デモを中止した。しかし、同委員会のデモに参加しようとしていた全共闘学生はあくまでデモ決行の方針を打ち出し、独自のデモに入った。全共闘は警察に届け出をしていなかった。北フ頭の集会の後、新大全共闘派学生ら約100人が新潟中央署前に集まり、「学生を返せ」「不当弾圧やめよ」と約3時間にわたって抗議集会を開いた。
S44.5.30(1969)「ケ号」みらみ抗議集会/艦上の米兵はのんびり一方、県営北フ頭で開かれたアメリカ海軍第七艦隊の給油艦「ケネベック」への抗議集会には県評加盟組合員、反戦青年委員会など約800人が参加。同艦に向かって抗議の気勢を上げた。集会は鈴木四郎県評議長、日本婦人会議代表らの寄港反対表明のあと@ケネベック寄港に強く抗議するAアメリカ帝国主義と結託した佐藤内閣のアジア侵略に抗議するB愛知外相訪米を阻止するーの3項目の決議文を読み上げ「ヤンキー・ゴー・ホーム」のシュプレヒコールを繰り返した。「ケネベック」艦上で、この抗議集会を見下ろすアメリカ兵は「ヤンキー・ゴー・ホーム」のシュプレヒコールに一瞬顔を曇らせたほかは、いたってのどかな表情だった。このあと、午後6時過ぎから同フ頭でジグザグ・デモを行って同7時前解散した。
S44.5.31(1969)高校にもゲバルトの波/4・28から急増/新潟の無届けデモ事件二十数人が参加か県警、新潟中央、東署は5月31日朝から、新潟市で無届けデモをして逮捕された新大全共闘派学生ら25人(うち1人は釈放)の本格的取り調べを始めた。この結果、同日夜さらに高校生1人を釈放した。しかし残る23人は黙秘権を使っているため、いぜん住所氏名についてはわかっていない。このため県警は1日夕方までに23人全員を身柄送検する予定。今回の事件で注目されるのは逮捕者の中に数人の高校生がいる(県警の話)とみられることと、デモに参加する高校生が最近急に増えてきていることといえる。昨年新潟市で行われた反戦青年委員会、ベ平連、新大全共闘などのデモに参加する高校生はほとんどなく、たまに「全高連」のヘルメット姿が1人か2人いた程度。ところが今年にはいってから「全高連」は急に増え、4月28日の沖縄返還デモでは20数人になった。さらに今回も20数人が参加している。県警では新大の全共闘派学生の行動に共鳴した高校生の反日共系グループの組織化が次第に進んでいるものとみている。しかし今のことろ組織は百人足らずで、それも新潟、三条地区など一部の高校に限られていると推測している。一方「民青系の勢力は各地区の高校にまんべんなく根を下ろし、その勢力は200人前後」ともいう。
S44.5.31(1969)「学友返せ」とデモ/逮捕学生の救済を急ぐ新大が調査委/すぐ釈放せよ県評が抗議5月31日、人文、教育学部前で集会を開いた学生約300人が、新潟中央署前で逮捕に対する抗議集会を行い、ジグザグデモや「学友かえせ」「完全黙秘」などのシュプレヒコールで気勢を上げた。4時過ぎから平井新大学生部長の立ち合いで、学生5人が河津中央署長と会い、無届けデモ、逮捕時の状況について意見を交わした。引き続き5時半過ぎに、約150人の学生が東署に向かい、同署わきの万代公園でデモ、シュプレヒコールを繰り返し、再び中央署へ引き返し同7時過ぎ解散した。新潟大学は31日午前、学生部協議会を開き、学生逮捕問題を協議した結果、学内に逮捕調査委員会(仮称)を設け、逮捕学生の救済などの対策を検討することになった。平井孝学生部長は「逮捕に至るまでの事実経過をはっきりさせ、大学の姿勢を決めるつもりだ。将来ある学生のことでもあるし、今後の問題を含めて考えたい」と語った。県評の鈴木四郎議長ら代表4人は社会党県本部、県評を代表して31日午後3時過ぎ新潟中央署を訪れ、河津同署長に会い「今回の学生逮捕は不当であり即時釈放してほしい。警察の取り締まりは過剰だったと思われる」と抗議した。
S44.6.1(1969)ケネベック号きょう出港5月29日朝、新潟港に入港したアメリカ第七艦隊所属の給油艦ケネベック(排水量2万1千100トン、乗員250人)は、3日間の乗務員休養を終え、6月1日朝、新潟港北フ頭を出港する。
S44.6.1(1969)新大紛争に新局面ー無届けデモ事件ー/ホコ先を「外」に向ける/革新団体との共闘微妙に今回の逮捕事件は無届けデモになった経過や大量逮捕者を出したことなどから、今後の全共闘派学生と革新団体の共闘、さらに新大紛争にも微妙な影響を与えそうだ。逮捕された学生の大半が全共闘系学生であることから、新大紛争が新しい局面を迎えることが予想される。4月末の教養部期末試験阻止行動以後、全共闘系の統合問題を中心とした闘争は性格を変え、学内から学外に移りつつある。学園闘争を基盤とした70年安保闘争といった色彩を強くしているともいえる。このためか4・28沖縄デー、5・23大学立法粉砕行動と市街デモに一段と激しさを見せてきていた。さらに学生には警察アレルギー″が強いといわれており、昨年6月の三学生逮捕の時も学生が刺激され、7月の闘争の1つのきっかけになっていた。この日人文学部校庭で開かれた総決起集会には一般学生を含め、かなりの学生が参加、関心の強さを示している。闘争のリーダーは今後の方針としてストライキ態勢を呼びかけている。また6月は学生運動にとって熱い季節″といわれる概算要求期を迎え、統合移転計画問題が再燃するのは必至の情勢であり、また学内封鎖がさらに長期化する様相で紛争の行方が注目される。デモが「無届け」となったのは新大全共闘系の学生と新潟地区反戦青年委員会との行き違いが原因。反戦青年委員会は愛知外相訪米阻止などのスローガンを掲げ、同日のデモの準備を進めてきた。ところが、5月29日、ケネベック号入港がわかり、反安保県実行委が30日夜、同港北フ頭で抗議集会を開くことを決めると、反戦青年委員会もこれに参加することを決定、届け出たデモを取り止めることになった。このため同デモに共同行動をとる予定だった新潟ベ平連と新大全共闘派学生は同委員会と交渉「デモ主催の責任は同委員会、行動の主体は学生にする」よう話し合った。しかし、同委員会は名前を貸すことを拒否、3者は午後2時ごろ新潟中央署でデモ主催責任者の名義変更を認めるよう交渉した。同署はこれに応ぜず「デモをしないなら退願届けを出すよう」指示した。同委員会は同4時ごろ、正式に退願届けを出したため、30日午後5時半からのデモは全く無届け状態となった。反戦青年委員会のこうした態度について学生側の批判は厳しいが、同委員会は「今後、共催を組むにあたって、レッテルをはり合わず綿密な連係を取っていきたい」といっている。
S44.6.1(1969)無届け学生デモ、23人を送検/県警がきびしい処分県警、新潟中央署は6月1日午後、新潟市で無届けデモをして逮捕された新大全共闘派学生ら25人のうち、すでに釈放した2人を除く23人(うち少年4人)を県公安条例(行列行進、集団示威運動に関する条例)と道交法違反の疑いで新潟地検に身柄付き送検した。新潟市でも4・28沖縄デー、5・23大学立法粉砕行動、5・30愛知外相訪米阻止と、新大全共闘派学生を中心とした市街デモが強まってきていることから、今回の警備当局の厳しい処分が、今後の反戦行動に与える影響が注目される。これまでの調べによると逮捕された25人は、5月30日午後5時半ころから同6時過ぎまで、新潟市西大畑町、新大理学部正門前から同市上大川前7に至る約1.3キロにわたって、県公安委員会の許可を受けずに集団示威行進、所轄署長の許可を受けずに場所を移動しながら道路上で集団行進を行ったという。今回逮捕された25人のうち既に高校生ら2人が31日までに釈放されている。送検された23人の中には、黙秘権を使っているため住所氏名のわからないものが12人いるが、この中には高校生や労働者はおらず、ほとんど新大全共闘派学生とみられている。同署では、引き続きデモの計画性などについて捜査を続けてゆく方針。一方、全共闘派学生を中心とした学生側は、30日から抗議行動をとっているが、今回の逮捕について「すでに逮捕直前に解散宣言″をし、さみだれデモに移る時点だった」と主張しており、今後も学内外で抗議行動を続けてゆくという。なお同署では先に釈放した2人について書類送検するかどうかを検討中。
S44.6.1(1969)新大当局、「学生逮捕は不当」/警察に要望書渡す新潟大学学生部協議会は、先月30日、米給油艦ケネベックの新潟港入港に反対して行われたデモ行進のさい、新大生多数が検挙されたことについて、6月1日、大学側の見解を取りまとめ、警察に対する「要望書」として、新潟中央警察署に手渡した。要望書の提出者は、長崎明代行となっており、文面には、今度の警察側の処置を不当とするニュアンスが盛られている点、デモ行進逮捕事件についての新大側の見解が、警察と正面から対立するものとして注目される。要望書の要旨次の通り。@必ずしも公訴を必要としないものにも関わらず、大量の参加者を逮捕したことは、明らかに法の趣旨に違反しているA当日のデモは、既に解散の態勢にあったにもかかわらず、なぜあの時点で逮捕しなければならなかったか理解に苦しむB400人の機動隊をあらかじめ動員しておいた事実は、デモ主催者の名義変更を拒否したことと考え合わせると、憲法に保障された基本的人権を不当に制限しようとした意図が(当局に)あったと疑わざるを得ない。
S44.6.2(1969)学生9人を釈放新潟市の無届けデモ逮捕事件を調べている新潟地検は6月2日午後1時半、さきに新潟中央署から県公安条例違反と道路交通法違反の疑いで身柄送検されていた新大全共闘派学生ら23人のうち、9人を処分保留のまま釈放、2人の未成年者を身柄付きで新潟家裁へ送った。残りの12人については住所氏名を明らかにしなかったり、無届けデモの容疑について黙秘権を使ったりしているため、新潟地裁に10日間の拘留延長を請求した。これに対し、新潟地裁は約4時間にわたる拘留尋問の結果、請求を却下したが、新潟地検はこれを不服として同夜3人について新潟地裁に準抗告した。一方、全共闘系学生はこの日午後0時半から人文学部前広場で「不当逮捕・不当弾圧全学弾劾集会」を開き、約50人の学生が新潟市川岸町1の新潟地検に押しかけて「弾圧粉砕!学友奪還」を叫んだ。さらに学生たちは中央署に向かい同7時近くまで抗議行動を続けた。
S44.6.3(1969)逮捕の全学生を釈放/新潟地検 地裁が準抗告認めず新潟市の無届けデモ事件で逮捕された新大学生ら全員が6月3日午後4時までに釈放された。新潟地検は2日夜、学生12人の拘置請求を新潟簡裁に却下されたのに対し、うち3人の学生の拘置を認めるよう新潟地裁に準抗告していたが、3日午後、同地裁は「3人は住所氏名を明らかにしており、身柄引き受け書も提出しているので逃亡する恐れはない。さらにデモの背景、証拠がはっきりしているため身柄を拘束してまで調べる必要はない」として同地検の準抗告を棄却、3人は釈放された。同事件で新潟中央署に逮捕されたのは25人で、うち2人は31日までに釈放された。しかし残る23人は住所氏名を言わなかったため新潟地検に身柄送検、2日にはこのうち9人を釈放、2人を新潟家裁へ送り(釈放済)12人について同地検は新潟簡裁に10日間の拘置を請求した。しかし同簡裁は身柄を拘置する必要はないとして却下、これを不満とした同地検はこのうち3人の拘置の準抗告をしていた。これで全員が釈放されたことになった。
S44.6.3(1969)五分科会を設け未来像の検討へ/新大再建会議動き出す新潟大学では、6月2日開いた同大再建会議で、とりあえず5つの分科会を設け、新潟大学の未来像を構想することにし、3日の評議会に報告した。新設される5つの分科会は@大学の管理運営A医学部、歯学部、脳研究所B教養部教養課程C人文、理、農学部D中央研究施設の共同利用、共同教育、研究体制のあり方とそれらの部門の管理運営民主化、全学統合問題との関係を追及しようというもので、再建会議では、これを各学部の教官会議、教授会、助教授会、助手会などの教官各層に提案、認められれば来週中にも発足させて本格的な討議を進めたいとしている。再建会議では、これら5つの分科会が、各学部、研究施設の統合移転問題を扱う場合、今月中に本部を通じて文部省に提出しなければならない。来年度概算要求を出すべきか、見送るべきか、などの現実問題は取り扱わず、全学統合計画と医学部、歯学部の現地整備計画との関係など、統合移転計画を進めるに当たっての考え方″を重点に、検討を進める予定。これは既存の統合移転計画の実質的再検討に当たるとみられ、注目される。
S44.6.4(1969)逮捕は不当ではない/中央署、新大の抗議に反論さる5月30日の無届けデモ逮捕事件で新大当局はさきに新潟中央署と県警に「学生の大量逮捕は明らかに法の趣旨に違反している」という内容の要望書を手渡したが、県警は3日「要望書は不法学生に迎合した抗議で、不当逮捕ではない」と反論、新大側と正面から対立する見解を打ち出した。県警の反論によると、学生はデモの届け出をしていないのに30日午後5時半ごろから新大理学部前を出発した。さらにジグザグデモをしたため警告を何度も出した。しかし学生は聞き入れず柾谷小路へ向かった。このため警察は古町十字路付近でデモ隊を車道から歩道へ移動させ、さらに解散するよう警告した。デモ隊はそのまま万代橋方面に向かったため逮捕に踏み切った。警察は一般大衆の迷惑を少なくするという意味で警告と誘導を繰り返しており、逮捕は法に従った正当なものである。逮捕したのは現場の状況から判断して指導者、扇動者とみられる者である。5月23日にも学生は大学立法粉砕デモでパトカーをこわしており、不法行為は認めることができない。さらに新大当局の要望書は学生の一方的な意見だけをまとめたもので、不法学生に迎合した抗議だ。こうした抗議を警察としては受け付けることはできない、と厳しく反論している。
S44.6.15(1969)6・15統一行動/2つの遺影先頭に/新潟でも学生らが集会/吉川事務局長を逮捕/ベ平連のデモ指揮中に6・15統一行動の6月15日、県下では新潟市で、新大全共闘、新潟ベ平連、反戦教師の会、高校反戦共闘など主催の集会と市中デモが行われた。集会は午後4時半過ぎから、封鎖の続いている新潟大学本部前で開かれ、参加した各団体から「70年に向かい、安保条約を粉砕しなければならない。そのためにもきょうのデモに参加し積極的に戦う」と決意を表明。5時過ぎから、新大生、高校生、労働者、市民など約200人がデモ行進に移った。デモの先頭に立った全共闘学生はジグザグ、うず巻きなど激しい動きを見せた。これに対して、警戒、警備にあたっていた新潟中央署の正規警官隊約60人と機動隊二個小隊約70人は、デモが激しくなるたびにサンドイッチ規制などを行ない、警官隊、機動隊の間に小さな衝突もあったが、特に大きな混乱はなく、デモ行進は7時前、新大教育学部前で終わり、集会後解散した。デモ隊の先頭には赤、緑など色とりどりの旗と樺美智子さん、山崎博昭君の遺影が続き、ヘルメット、覆面姿の学生たちが市民の目を引いた。機動隊の規制が始まった市役所前の西堀交差点では、買い物帰りの市民など約700人が遠巻きにして「何が始まったのか」とささやいていた。警視庁公安部は15日午後5時半ごろ、東京都保谷市本町6の17の4、ベ平連事務局長吉川勇一(38)を中央区銀座3丁目の路上で、東京都公安条例違反の現行犯で逮捕した。調べによると吉川事務局長はこの日、日比谷公園ー東京駅八重洲口間で行われた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15デモ」でデモ隊の総指揮に当たっていたが、午後5時過ぎ、新橋大ガード下から銀座3丁目までベ平連のデモ隊を指揮して道路いっぱいのフランスデモ″をさせた疑い。吉川事務局長は作家小田実氏らとともにベ平連のリーダーで、日共を除名された評論家いいだ・もも氏(本名飯田桃)らが作っている共産主義労働者党の中央委員でもある。ベ平連の幹部が街頭デモで逮捕されたのは初めて。
S44.6.16(1969)新大無給医がストに突入/7日間の診療拒否へ/早くも影響受け付け制限も無給医の待遇改善を要求する全国無給医統一行動が6月16日、全国国立大学付属病院で一斉に行われたが、新大では約300人の無給医がこの日午前8時から、7日間の診療拒否闘争に入った。この闘争で病院の診療に影響が出、新患、外来の受け付けを制限する科や、外来の診療が午後にまで持ち越される科、高度の治療が必要な患者を他の病院に移転させる科があったほか、新患、外来の受診者も平日の約二割減、800人前後に減った。新大付属病院の1日平均診療数は、外来が約1000人、入院患者約750人。この患者を診療するのに、現在約600人の医師″が同病院にいる。このうち有給の医師は約300人で、残りの医師はいわゆる無給医。このため無給医たちは、前から待遇改善ー無給医制廃止を要求、41年6月にも、外来の診療拒否闘争をくり広げたがいまだに要求が通らないので医学教育改善、有給医師の大幅増加、医局講座制の民主化の要求を掲げ、全国統一行動に合わせて、この日、二度目の実力行使に入ったもの。午前8時から診療拒否に入った無給医たちは、この朝、病院の各入口に係を配置、訪れる患者たちにチラシを配って協力を求めていたが、この実力行使で患者はかなり少なく、16の診療科のうち整形外科など2、3の科で外来の受け付け制限、新患の診療中止を行ったほか、人工腎を使用する重症患者14人を、信楽園へ移すなどの影響が出た。闘争は22日まで続けられるが、「これで病院の診療業務がいかに無給医の力に頼っているかの実態が浮き彫りにされるはず。これを政府と文部省にぶっつけて要求実現を目指していく」と闘争委側では言っている。
S44.6.16(1969)新大無給医会が初の総会/闘争声明など採択6月16日から7日間の診療拒否闘争に入った新大病院で14人のじん臓患者を市内の信楽園に移すなど影響が出ているが、新潟大学医学部、脳研無給医会は、午後1時半から同大医学部で、約100人を集めて総会を開いた。同無給医会が昨年11月再発足して以来初めて。まず宮下同会会長らから議案説明、経過、無給医の卒業後研修の実態、今後の無給医の運動方向などの報告があった。このあと質疑討論、さらに「医学の研修研究の場を保障せよ」「医局講座制の民主的変革を推し進め、大学立法反対」「国民の健康を守る医療の確立」の3つの闘争スローガンと「政府は無給医を無償の労働者として利用するだけで研修、研究の場を保障せず身分的保障もない。今回の闘争によって医療制度の矛盾を明らかにして行く」という声明文を採択した。4時からは各支援団体の連帯のあいさつ、支持電報などが発表され、21日までの1週間、午前中は討論会、午後からは医療問題などを報告、討議する分科会。20日には医学部教授会との公開討論会などの行動スケジュールを確認して、午後4時半過ぎ総会を終わった。
S44.6.19(1969)瀬戸ぎわの新大移転予算要求期限間近/進まぬ統合再検討″/学生に再びストの動き学生の占拠が続いている新潟大学本部ー占拠当時とは打って変わり周囲には緑が繁ってすでに夏。建て物の荒廃も日ごとにひどくなっている。だが学生たちは闘争の象徴″だとして封鎖を解こうとしない。各学部の授業は平常に行われているが、紛争で浮かび上がった問題はまだ解決していない。紛争は概算要求期を迎え、再び動き出す気配だ。特に「統合移転計画」に伴う来年度の概算要求は6月末がタイムリミット。移転計画を焦点にひと荒れ″するーそんな声が学内に強い。「統合計画と評議会」:タイムリミットをひかえ、このところ評議会の動きが目立っている。「白紙撤回」以来、統合計画は再検討されることになっていたが、切り離せないのが予算の問題。文部省の意向は「統合をどうするのか態度を決めてほしい。そのうえで予算を考えよう」。概算要求をしなければ保留分も含め統合計画はご破算になる危険が大きい。しかし再検討はなかなか進んでいない状態。予算のタイムリミットで苦労した理学部着工決定では学内から強行着工″と多くの批判を受けた。再検討の進み方が焦点といえるが、ギリギリの段階で執行部側がどう決断するか注目される。「再建会議」:5月12日スタートした再建会議は教官層の意思統一を図るもの。統合計画の再検討は当然議論の一つとなっている。長崎学長代行が期待を持っていることも事実で、その動向が注目されるが「再検討が間に合うかどうかは五分五分」という見方が強い。再建会議では学内民主化の問題など、具体的な作業が進んでいる半面、統合計画の討論は研究、教育体制のあり方とからんでこれからという段階。今月中に分科会も含め数回の会議が開かれることになっている。「統合計画のタイムリミット」を再建会議がどう考えるかが注目される。「学生」:全共闘系学生はいぜん本部、教養部の封鎖を続け、闘争の足がかりとしている。闘争の目標が安保粉砕など外に向いている中で中心部隊″である工学部教養自治会は「長崎執行部打倒」「正常化反対」などのスローガンで再度スト突入を目指している。これまで数回の教養部教授会との団交は全くかみ合うところがないまま終わっており、きょう19日に開かれる「工学部教養自治会旧1年生大会」で執行部提案の「バリケードストライキ」がどう受け取られるか1つのカギになる。一方、人文、教育自治会は「大学立法」粉砕が最大の目標。23日の全国統一行動に向かってストライキ体制を呼びかけている。しかし17日開かれた人文学部学生大会は約50人を集めただけで盛り上がりは見られない。一般学生、特に4年生は就職試験の季節。就職で浮足″立っているのが現実で、紛争への関心はかなり低い。しかし1年、2年生を中心に闘争への参加が目立ってきており、大学側が学生の動きを無視出来ない状態といえる。
S44.6.20(1969)反安保実行委結成大会で気勢/新大全共闘系学生ら約100人、デモ行進でサンドイッチ規制6月20日夕刻、新潟市の中心部で反安保″大学立法阻止″などを訴える3つのデモ行進が行われ、勤め帰りの市民をしばし立ち止まらせた。新大全共闘系学生ら約100人は、理学部構内で集会を開いた後午後4時45分から教育学部前ー営所通りー古町とコースを取りながら大学立法粉砕″を叫んでデモ。ジグザグ行進で気勢をあげ、両側から警察官のサンドイッチ規制を受けたが、大した混乱はなかった。同じく新大の教育、人文学部自治会などの学生ら約500人は、教育学部構内で集会を開き、午後5時半から大学立法粉砕、機動隊導入反対″のシュプレヒコールを繰り返しながら繁華街をデモ行進した。一方、県庁前では午後5時半から社会党、地区労などの「反安保新潟地区実行委員会結成大会」が開かれた。約600人が参加して議長に社会党新潟総支部長の若槻勉氏を選出。大会の後安保反対″沖縄返還″を市民に訴えながら整然と行進して気勢をあげた。
S44.6.20(1969)大学立法に反対、ストへ/新大医学部3年生新大医学部3年生は6月20日、@中教審答申粉砕・大学立法法制化阻止A教授会専制自治解体・医局講座制解体B70年核安保粉砕・沖縄無条件全面返還C健保特例法延長阻止の4項目をスローガンに、23日朝からストライキに入ることを決めた。医学部学生に学生大会の開催を呼びかけ、医学部のスト体制確立を訴えて、さらに全学的な抗議行動を起こす方針。
S44.6.20(1969)新大医学部教授会も改善約す/無給医が公開討論会6月16日から始まった無給医の診療拒否闘争のヤマ場の1つである新大医学部、脳研無給医会(宮下正弘会長)と同医学部教授会(大鶴医学部長事務取扱)との公開討論会が20日午後2時から、同医学部で開かれた。教授と無給医とが、お互いに意見を交換、現行医療制度を再検討しようと、無給医会の呼びかけで開かれたもので、大鶴医学部長事務取扱、河野新大病院長事務取扱など教授約20人、無給医会からは宮下同会会長など約150人が出席した。無給医側から今回の闘争の目的、無給医の実態などが報告され、無給医の闘争について教授側はどう考えているか、無給医会と教授会との関係、製薬資本と医局の関係などについて活発な討議が行われた。会場は白衣を着た医師などで満員の状態。教授の側からも正しい医師像の追及、医師としての倫理の確立を考えようと呼びかけが行われるなど、医療問題、医師自身の立場などについて最後まで真剣な話し合いが展開され、討論会は5時半過ぎ終了した。
S44.6.20(1969)新大教育学部大学立法粉砕叫び/長岡分校でも封鎖/説得も物別れ新大教育学部長岡分校は大学立法に反対するノンセクト学生約30人により、6月20日午前6時から第二人文校舎6、7、8、9番教室が封鎖され、その後も学生たちは無期限ストの構えをみせ21日、学生大会を開いて気勢をあげている。占拠派学生は自治会の封鎖反対に対して「現状を打破するためには封鎖しかない。現執行部の態度は黙認できない」と、自治会批判の立場を打ち出し、20日未明、封鎖に踏み切った。学生たちは「大学立法反対」「観察参加延期」の要求を掲げてろう城を続けているが、大学側では教育実習の観察参加について1週間の延期を決め、学生説得に当たっている。しかし21日午前8時の押見分校主事と学生代表との話し合いは物別れに終わり、学生たちは8時半から約230人が講堂に集まって大会を開き、無期限スト権確立について討論集会に入った。大学側でも教官会議名で「学生諸君に告げる。われわれは諸君と話し合って問題解決にあたりたい。しかし、突然の封鎖は誠に残念だ。これからでも対話で解決していきたい」と呼びかけている。封鎖した第二人文校舎には十数人が泊まり込んだ。学生たちは2つの出入り口に机とイスを積み上げ、バリケードを築いて封鎖。また1階の教室と廊下の窓側にも机とイスを積み上げ、内側からカギをかけてスト破りを警戒。1カ所、窓の下に踏み台を置き、学生たちはそこから出入りしている。泊まり込んだ学生たちはヘルメット、ゲバ棒スタイルで廊下や教室を巡回。時おり二階廊下の電灯がつき、青地に赤で書かれた反戦旗がくっきり夜空に浮かび上がっていた。大学側は5人ほどが宿直。何を聞いてもいっさいノーコメント。「何も話す義務も権利もありません」と緊張しきった顔で厳重に戸締りをしていた。21日は午前8時ごろから学生たちが登校。スト派学生はストの意義を印刷したビラを配りながら、マイクで8時半から開かれる学生大会参加を呼びかけた。一方、スト反対の自治会執行委員会は「バリケードを築いただけでは大学立法を粉砕することは出来ない。21日昼からの市中デモに参加を」と呼びかけた。登校する一般学生は突然の封鎖に「これを支持している学生も多い」「一部学生に振り回されている」と複雑な表情。午前8時35分、押見虎三二主事ら約15人の教官が校舎を占拠した学生代表に「大学側も立法化には反対だ。君たちが封鎖したのでは、大学が立法化を阻止できない根拠が作られてしまう。運動の目的に反するのではないか」と封鎖解除を説得したが、学生は「教官が生ぬるい態度では阻止できない。少数でも論理を通すためには、封鎖の行為に出るのも1つの論理だ」と説得をはねつけ、話し合いは物別れ。このため同8時55分、押見主事名で「バリケードを除去するよう」また教官会議名で「封鎖解除について話し合いたい」などの張り紙をした。
S44.6.21(1969)新大長岡分校封鎖は自主解除/あすから全面スト新大教育学部長岡分校はその後もノンセクト学生約15人によって第二人文校舎が封鎖されていたが、6月21日に開かれた学生大会で1週間の全面ストを決めた。このためろう城学生たちは同日中に自主解除することを決めた。20日未明から封鎖に踏み切った学生たちは自治会に対する批判的な立場から「大学立法反対」「観察参加延期」を要求、登校する学生に無期限ストを呼びかけた。この日の学生大会には高田からの応援学生を含め約230人が参加。冒頭、スト権確立について自治会執行部と一般学生の意見が対立したが、結局参加者の80%の支持でスト権を確立した。その後、ストの内容について討論を続けているが、執行部案の波状スト、一般学生からの無期限スト提案を排し、23日から1週間の全面ストを決めた。学生たちは夜に入っても大会を続け、各クラスから3人の闘争委員を選出した。一方、スト権が確立したことにより占拠派学生たちも封鎖校舎を自主解除することを決め同日中に撤収した。学校側では全教官が学生説得に当たっているが、学生大会の結果を待って教官会議を開き、今後の具体的な対策を検討する。
S44.6.23(1969)大学立法粉砕統一行動/新大教・医3年スト突入/教官囲んで討論「大学立法粉砕」全国統一行動日の6月23日、統合移転紛争が続いている新潟大学でも、この日に向けてスト体制にはいった教育学部、医学部3年生が授業ボイコットを行なった。全学部ストに入った教育学部では全教室にピケをはり、講義に来た教官は学生のいない教室を見て帰るなど授業は全く行われていない。医学部3年生も授業放棄体制で、教官を囲んで熱心に討論をする姿が見られた。その他の学部では平常通りの静かな学園で、2、3の学生が大学立法粉砕と夕方の集会、市中デモに参加するよう呼びかけていた。一方、23日から1週間の全面ストに入った新大教育学部長岡分校でも、学内はいたって静かで、学生たちは午前中からクラス討議を続けている。2日間第二人文校舎を封鎖したノンセクト学生たちは自主解除し、当面の運動を自治会とともに大学立法粉砕に向けることにした。学生たちはクラスから3人の闘争委員を選出、同日から連日クラス討議、学生大会を開くスケジュール闘争に切り替えた。また学生たちは同日午前11時から学生大会を開いて今後の闘争方針を決め、クラス討議で学内デモ、教官と語る会などを決めた。
S44.6.27(1969)大学立法新大教官も反対デモ政府は今国会に大学運営臨時措置法案″を提出、成立を図っているが、この大学立法に反対する新潟大学の教官、職員、研究員など約600人が、6月27日午後5時半から同大教育学部前広場で抗議集会を開いた後、市内をデモ行進した。この集会は同大職組が中心の実行委員会(委員長・児玉彰三郎人文学部助教授)の主催で「大学立法」の粉砕と一般市民に「大学立法化は弾圧である」ことを強くアピールしようというもの。参加者は若手教官、職員が圧倒的で、熱っぽい集会だったが、最後に「言論・思想を奪う大学立法反対」の決議文を採択して市内のデモ行進に移った。約600人のデモ隊は、営所通りー東中通りー柾谷小路ー駅のコースを整然と行進、警察の警官もこの日は、交通整理のおまわりさんだけという静かさ。それでも「立法粉砕」のシュプレヒコールやプラカードがバス待ちの乗客の目を集めていた。
S44.7.1(1969)新大第三内科教室を封鎖/青医連が自主管理へ/医学部紛争再燃全学に影響も新潟大学医学部青医連(青年医師連合)所属の一部研修医と医学部共闘会議準備会、全学共闘会議の学生約50人は7月1日未明「医局講座制解体」を実行するとして「自主管理」を主張、医学部構内にある第三内科教室(市田文弘教授)を封鎖、占拠した。この封鎖、占拠で同大学では統合移転計画をめぐる学園紛争とは別に医学部紛争が昨年春に続いて再燃、全学の紛争が急速に拡大することは必至の情勢となった。大学当局、医学部首脳は突然の封鎖にショックを受けており対策に苦労している。同日午前3時過ぎ、研修医とヘルメット、覆面姿の全共闘系学生が新潟市旭町の医学部第三内科の正面玄関から、教室内になだれ込み、5つの出口を机、イス、ロッカーなどでバリケード封鎖した。この事態で医学部当局は全教職員に緊急招集をかけ「封鎖解除」の説得を始めたが、教室内に閉じこもった研修医、学生はこれに応ぜず、姿を見せなかった。同教室の周囲には封鎖に反対する教職員たち約100人が集まり、医学部には緊張した空気が流れた。この中で、医学部当局は「占拠、封鎖は研究、教育さらに患者の診療に大きな支障を与えることが予想される。研修医、学生らはただちに封鎖を解除せよ」との退去命令を出した。第一、第三内科教室が封鎖されたこの朝、医学部構内には「本日、研究室を封鎖す!」の立カンが構内のあちこちに張り出され、関係医局員が5、6人、10人と集まって堅く閉ざされた入り口の防火壁や山と積まれた机、イスのバリケードを見上げて「ああ、これでは中には入れない。だめだ」と、あきらめの声を漏らしていた。医局員たちは、この後同学部新研究棟講義室に集合して対策を協議。医学部では学部長、病院長名で封鎖学生、研修医に対する立ち退き通告文を張り出したほか、緊急教授会を開いて、封鎖に対する方策を検討したが、目立った動きはなかった。しかし、この封鎖は、一般教職員にとっては、ハプニング″と映ったらしく、構内のあちこちには3人ー5人と集まって立ち話。病棟の窓からは入院患者や付添人が「何があったんだろう」と下を見下ろしていた。
S44.7.1(1969)新大移転統合予算″要求へ/本部分など17億円/長崎代行記者会見 提出までに全学討議新潟大学は、45年度予算の概算要求タイムリミットを迎え、統合移転関係分を要求すべきかどうか決断を迫られていたが、長崎学長代行は7月1日記者会見し「30日に開かれた評議会は白紙撤回″で保留になっていた本部、中央図書館、学生寮の分と、さらに新規に歯学部校舎と歯学部病院の分を要求することを認めた」と明らかにした。しかし同時に評議会は、この概算要求について全学の教職員、学生の討議に付すべきであることも決め、また長崎代行は新規分の要求については「学内にかなりの異論がある」としてさらに評議会の再検討を求める考えであり、平常なら提出期限の6月30日を過ぎているところから新大は概算要求問題をめぐってここ2、3日はあわただしく動くことになる。概算要求額は保留分、新規分合わせて10億円。これに環境整備関係を含めた新大の文部施設予算の総要求額は約17億円となる。また、やはり保留になっていた付属病院西病棟の分については医学部教授会自身が要求を落とすことを決めたため、新大評議会も放棄する態度を打ち出した。西病棟の建設については医学部内でも特に若手教官を中心に異論があり、全学的には「医学部ははたして新潟市五十嵐地区に移転する意思があるのかどうか」と疑問を投げかけられる原因になっていた。一方、五十嵐地区の土地購入(6-7億円)については、学長代行は「土地を手に入れることは再検討の前提条件で、土地がなければ再検討のしようがない」として文部省に強力に折衝していることを明らかにした。大学内では「保留分の要求は、新大が文部省から与えられた権利の継続だ」との声が強いといわれる。しかし新規分については「学内の再検討が終わらないうちは提出すべきではない」との声も強く、長崎代行は「再開評議会で決定をみなければ要求から落とさざるを得ない」と語っている。こうして大学は統合移転計画全体をつぶしたくないとの考えから予算概算要求を提出する方針を打ち出したものだが「計画白紙撤回後の再検討を終えないままに要求を提出すれば学生の強い反発を招く」という板挟みに立ち、窮余の策として、提出までに全学討議の方法としては、学内で各学部段階の討議を経て全学集会をせよとの強い声も出ているが、長崎代行はこの全学討議のあと最終的にもう1回評議会で決定する考えでいる模様だ。いずれにしろ予算概算要求提出期限は一般的には6月30日で、これを延期するとしても今後2、3日で、この間、新大はあわただしく動くことになる。
S44.7.1(1969)新大医学部教授会 封鎖の対策協議新潟大学医学部教授会は7月1日、緊急教授会を開いて@青医連、全共闘などの学生、研修医がなぜ封鎖行動に走ったかA封鎖の理由B封鎖に対する医学部としての対応策などを協議した。
S44.7.2(1969)新大、大学立法反対で/工学部本館も封鎖新大工学部の闘争委準備会(反学友会系)は7月2日早朝、大学立法反対を叫び、同学部本館=長岡市学校町=二階に通ずる階段3カ所に机を積み重ねてバリケードを築き、無期限封鎖を宣言、占拠した。工学部が占拠されたのは初めて。同日午前3時半ごろ、ヘルメットにゲバ棒スタイルの学生が宿直員と警備員4人を軟禁状態にし、約1時間にわたってバリケードを築いた。占拠学生は十数人とみられているが、大学当局との交渉を拒否しているため詳細は不明。また闘争委準備会″という名称も初めて出てきたもので、学友会の方針に批判的な学生らしい。占拠学生は登校する一般学生にビラを配り、大学立法に反対するための無期限ストを呼びかけ、学生集会を開こうとしたが、一般学生の参加が少なく、集会は開かれなかった。またクラスでも同様趣旨を説明、討議を行っている。封鎖のため本館二階の9教室が使用不能になり、休講するクラスも出た。大学当局は占拠学生に話し合いを申し入れているが、拒否されており、目下のところ情勢判断に苦しんでいる。一方で大学当局は17日から始まる夏休みまでの間、極力授業を続けていく方針。
S44.7.3(1969)新大、近く学生部協議会/統合移転の概算要求で新潟大学では統合移転関係の来年度概算要求について全学的合意をうるため、数日中に学生部協議会を開いてその方法を討議する。新大では先月末の評議会で人文、農学部の移転費用の来年度概算要求は見送り、代わって白紙撤回声明でその執行を文部省から差し止められている本部、中央図書館、学生寮の予算を再要求することにした。しかし紛争の結果、統合移転問題は学生、職員を含めた民主的組織で再検討したのち実行するといういわゆる再検討路線が敷かれているため、学生部協議会でその方法を検討するもの。全学的合意をうる方法として今のところ教授会、学生、職員を一堂に集めた各学部集会を踏まえたうえでの全学集会または学部集会抜きにした全学集会の直接開催などが考えられている。
S44.7.3(1969)新大工学部本館占拠続く講義に影響なし/午後から全学集会大学立法粉砕を叫んで7月2日から初めてバリケード封鎖した新大工学部(脇屋正一学部長)=長岡市学校町=の闘争委準備会の学生十数人は、3日もいぜん本館二階に立てこもって占拠を続けている。学部当局は2日午後6時、占拠学生に対し話し合いに応ずるよう呼びかけたが応答がなく、事態は進展していない。同学部学生(3、4年生と大学院生約600人)はきょう3日、午前中はクラス討議、午後からは全学集会を開く予定だが、大学構内には一般学生とみられるバリケード封鎖反対″などと書かれた張り紙があちこちに張られ、占拠学生に対する反発も起こってきている。学部側の話では、占拠されているのは本館二階の9つの普通教室だけで、研究室、実験室では正常通り講義と実習が行われ、あまり影響はない。といっている。
S44.7.3(1969)工学部全学集会は流会新大工学部=長岡市学校町・脇屋正一学部長=の学生(3、4年と大学院生約600人)は7月3日、午前はクラス討議、午後からは全学集会を開いた。しかし全学集会は討論が長引いたため、退席する学生が多く、決議前には定員数を割ってしまい、流会となった。クラス別討議では化学工学科3年1クラスがスト決議したほかはスト決議はなく、大学構内には一般学生によるとみられるバリケード封鎖反対″などと書かれた張り紙があちこちに張られ、占拠学生に対する反発も起こっている。
S44.7.4(1969)新大の概算要求きょうにも提出新潟大学の長崎学長代行は来年度予算の概算要求の中に新規に歯学部校舎と歯学部病院建設の分を含めるかどうかについて評議会の再検討を求めていたが、評議会は7月2日開かれ、この新規分を要求することを決めた。この結果、新規分と、統合移転計画の白紙撤回によって保留になっていた本部、中央図書館、学生寮の分10億円、それに環境整備関係も含めた総額約17億円の45年度概算要求書をきょう4日にも文部省に提出することになった。歯学部校舎と歯学部病院の建設費を要求することについては、再検討評議会では一部に異論の声もあったが、大多数が賛成したといわれる。また大学側の説明によると歯学部の教官、職員、学生のほとんどが賛成しているという。評議会は、先月30日と今回の2回とも、新規分、保留分の予算要求について全学の教職員、学生の討議に付すべきであることを決めている。このため学生部協議会で全学的討議の方法について検討することにしており、夏休み前には全学的討議を終えたいとしている。つまり大学が文部省に概算要求説明をする23日ころまでには全学的合意を求めたい考えでいる。こうして歯学部は、医学部と密接な関係にあるので行動を共にしたいとの観点から現在地整備″の方針を一応打ち出した。しかし医学部の方は「いったい新潟市五十嵐地区に移転する意思があるのかどうか」との疑問を学内から投げられたことから、今回は西病棟や新研究棟建設など現在地整備″関係の概算要求を見送っており″歯学部と医学部の歯車がカミ合わないことになる。
S44.7.5(1969)新大高田分校学生側、無期限ストへ/団交″討論会で対立大学立法粉砕″学生の要求に応じて団交を開け″と7月4日から全面ストにはいった新大高田分校学生自治会では、5日も朝から学生大会やクラス討議などで大学側との団交の糸口を見つけようとしているが、大学側も全教官会議を開き真剣に討議している。高田分校自治会のストは今回初めてだが、分校正門前に大きな立て看板を出したり、時計台の上から垂れ幕を下げるなどあわただしいふん囲気。ストに突入した4日は、午後4時から全学生と全教官参加による討論集会を開き、4時間にわたって話し合ったが、最後まで平行線をたどった。大学側は「教官側としても現時点に立って法案立法の問題点について真剣に討議している。自治会が団交を正面に出してきている以上、話し合いの場はない。団交でなくても全学討論集会でいくらでも共通点を見いだせるとおもう」といい、自治会側は「討論集会では決定的なものはない。やはり団交の場で大学側の考え方をいうべきだ。討論集会で教官に質問すると一個人の見解だから″と逃げてしまう。大学側があくまでも団交を拒否するなら、われわれは無期限ストによって戦う」と強い態度を示している。同自治会では6日市内の目抜き通りで大学立法粉砕の署名運動やチラシまきを行ない、7日には市内をデモ行進する。
S44.7.6(1969)工学部でも化学工学科3年クラスが授業放棄長岡市の新大工学部で、さきの本館バリケード封鎖をきっかけに長岡地区在学の3、4年生約600人の間で大学立法問題の討議が活発になり、このうち化学工学科3年の1クラスが大学立法反対を主張して授業放棄に入った。学部当局は同クラスの学生を欠席扱いにしている。工学部自体はバリケード撤去によってようやく平静を取り戻している。同クラス代表は「他のクラスへの働きかけを今後続けていく。われわれが今回の封鎖に賛成の決議をしたという情報が流れているのは迷惑だ。決議はしていない」と言っている。
S44.7.7(1969)新大教養部で1年生集会/「大学の責任を追及」新潟大学教養部は7月7日、統合移転計画を中心にした当面の学内問題について教養部教授会の考え方を説明する「教養部1年生集会」を開いた。大学側が正式に1年生を対象にして学部集会を開いたのは新入生入学以来初めてで、1年生の強い要望で開催された。集会は同日午後1時過ぎから、約400人の学生が集まって教育学部41番講義室で開かれた。1年生は@3カ月間1年生を放置した大学側の責任A統合移転計画B移転計画と概算要求の関係ーなど教授会の説明を求めた。これに対して教授会は「教授会、大学側の見解がまとまっていないことから説明会を積極的に開くことに自信がなかった。しかし1年生の要求を無視することは出来ないと考えている」と説明。「こんど概算要求することは、新大の将来を考えた場合、保留分の予算など最低限の権利を確保しておきたいということだ。そこを理解してほしい」と訴えた。しかし1年生側は@入学以来、自宅待機を強いられたA紛争の原因である統合計画について大学側の説明、釈明がなかったことーなど自分たちが放置されたことに感情的″な反発が強く「各教官の自己批判を求める」として追及を続け、午後5時過ぎ終わった。現在同大学では概算要求問題をめぐり全学的合意″をどうするか、議論がわいており、その意味でもこの日の1年生集会が注目されたが、予想以上に学生の不信感は強く、全学的合意″の前途は多難な感じだった。
S44.7.8(1969)新大歯学部など概算要求で/来週中に全学集会か新潟大学評議会は7月9日までに歯学部校舎・病院の建設予算も含め45年度概算要求書を文部省に提出することを決定したが、この決定の全学的合意″を得るため来週中にも全学集会を開く方針を固めた。学生部協議会は今週中に全学集会開催の予備折衝を開く予定だが、学内には全共闘系学生と教育、人文学部など自治会系学生の対立が激しく、開催方法、議事運営方法などをめぐり開催までにかなりの曲折が予想される。大学当局は45年度概算要求にさいし、移転統合計画の予算保留分の権利を継続させる″ためこれを要求書に盛り込むことにし、また老朽化の激しい歯学部整備予算も同時に要求することを決定した。しかし学生など学内各層では「統合計画を白紙撤回″しながら、保留分とはいえ概算要求するのはおかしい」「大学の決定には全学的意思の一致が条件」など反対の声が強い。このため学生部協議会では@学部ごとに意思統一を図るA全学集会を開くB全学投票をするーなど「全学的合意の方法」について検討を進めていたが、8日の協議会で「全学集会を開くこと」を決めた。場所、日時については学生部協議会常任委員会、予備折衝を通じて決定する方針で、県営陸上競技場、理学部グランドが候補にあがっており、14日前後をメドにしている。全学集会の開催は3月下旬以来3カ月ぶりで、新大紛争の最大のヤマ場を迎えることになる。
S44.7.9(1969)新大1年生が教授会と対話新大教養部は7月9日午後1時から1年生大会を行ない、入学した1年生との対話集会をもった。同日午後1時から5時過ぎまで1年生約1200人が集まり、教養部教授会との集会を開いた。内容は概算要求をめぐる大学側の姿勢と、1年生を3カ月間も放置したという大学側の責任の追及を行った。集会では1年生は、開かれることが予定されている全学集会に独自に予備折衝に代表団を送るという結論を出した。
S44.7.11(1969)新大農学部本館の一部封鎖/全共闘系概算要求に不満新潟大学農学部の全共闘系学生が「概算要求の撤回」を要求して7月11日未明、農学部構内にある学部本館の一部をバリケード封鎖、占拠した。同日午前2時過ぎ、全共闘系学生約15人が新潟市小金町にある農学部の本館宿直室付近からなだれ込み、机、イス、ロッカーで廊下、階段にバリケードを築き、1階にある各事務室を除いた宿直室、二階各教室を封鎖した。農学部当局は同日長崎学部長名で「いかなる理由があるにせよ占拠という形で多くの学友に迷惑をかけてはならない。大学法案の審議中でもあり、このような行動が法案の可決を促すことになり、ただちに占拠をとけ」との告示を出した。同学部では、5日から「学部集会」開催のため、学生との予備折衝を行ってきたが、教授会と学生の話し合いは難航。9日行われた公開予備折衝は事実上決裂に終わっていた。学生たちは「概算要求の評議会決定」に対する不満、不信が強まっており、また概算要求の「合意」のために開かれる「全学集会」は無意味と決めつけている。農学部の封鎖で、同大学の建て物封鎖は、大学本部、教養部事務室、医学部第一、第三内科、を合わせ5カ所に拡大した。しかし大学当局は現在「物理的に封鎖を解くこと」は考えておらず、45年度概算要求の全学的合意″を得るための「全学集会」開催に全力を注いでいる。だが学内は学生間の対立などから集会開催を危ぶむ声も多く、なお曲折が予想される。
S44.7.11(1969)人文学部「立法反対で/学部長代行先頭に市中デモ新潟大学人文学部は7月11日午後5時過ぎから「大学立法」に反対して教官、職員、学生の決起集会を行ない、中村学部長代行を先頭に約200人が新潟市内デモをした。これに全共闘系学生約60人が独自に加わり、柾谷小路で激しいジグザグ行進を繰り返した。このため県警機動隊が出動、同6時過ぎデモ規制にはいり、人文学部集団は予定していたコースの途中でデモをうち切った。この混乱に対して同学部のある教官は「最後まで整然と行進し、「大学立法」反対をを市民に強く訴えたかったのだが・・・」と語っていた。
S44.7.16(1969)新大18日の予備折衝はムリ/全学集会、遅れそう新潟大学は、全学集会開催のため7月18日に公開予備折衝を予定していたが、場所、時間の決定が遅れているため、予備折衝の開催はさらに延びることが決定的となった。このため全学集会もかなり遅れることが予想され、概算要求の最終決定のため大学側はギリギリのところまで追い込まれている。同大学では45年度概算要求決定の全学合意″を得るため、全学集会開催を決め、9日から各学部ごとに学生との折衝を続けてきた。この結果、全学集会の議事運営、開催方法を話し合う公開予備折衝を18日に開くことになったが、会場決定が難航しているうえ、ほとんどの学部が夏休みに入ったため、帰省中の学生を全員集めるのは不可能になった。ところが大学側は23日までに概算要求書について文部省で説明することになっている。そのためにも早急に大学側の最終的な態度を決めておく必要があるが、予備折衝、全学集会が延びることで、大学側はますます窮地に追い込まれてきたわけ。また学内では、全学集会開催を危ぶむ声も多くなっており、全学合意″のないまま最終的には概算要求が決定されてしまうとの見方も出ている。
S44.7.17(1969)新大帰省中の全学生に連絡/20日に公開予備折衝45年度概算要求の最終決定を迫られている新潟大学は7月16日、全学集会開催のための公開予備折衝を20日(日)に開くことを決め、学内に告示すると共に、夏休みで帰省中の全学生に連絡した。今月8日の「全学集会」開催決定以来ようやくこぎつけた公開予備折衝だが、学生内には評議会の概算要求提出決定に強く反発する声があり、混乱は避けられない模様。予備折衝は20日午後2時から同7時まで、医学部グランドで開かれる予定。しかし予備折衝から全学集会に移れるかどうかは、全共闘系学生の反発もあり、今のところ見通しは暗い。
S44.7.17(1969)新学部長に石岡氏/歯学部教授会が選出新潟大学歯学部教授会は任期満了の小林茂夫学部長の後任に石岡靖教授を選出した。任期は46年7月まで。同じく任期満了の常葉信雄歯学部付属病院長の後任は未定。
S44.7.19(1969)新大商業短期大学部「昼間並み」構想示す/夜間総合学部つくれ新大商業短期大学部が34年4月1日に新大に併設されてから十周年。記念式がきょう7月19日開かれるが、席上、同短大教授会は勤労者教育の向上のために現行の大学二部(夜間学部)、夜間短大とは別の、昼間大学と対等の地位にある「夜間総合学部」構想を明らかにする。大学改革に関して新大内部から具体的に構想が出るのはこれが初めてである。この「夜間総合学部」構想が出るのは「現在の大学教育は勤労者に大きく開かれていない」との観点からで、高卒の勤労青年教育、成人再教育の社会的要請にこたえようというもの。その構想によると@法律、経済、工学などのコース″を持つ。その他のコースは現在の大学の学部構成、地域社会の要請によって設置されるべきで、新大では農学が考えられるA必要な専任教官・職員の定員を設け、実験科目については独自の施設を持つ。専門課程の教官の一部を昼間学部教官を兼任させないB入学試験は昼間部と同時同一C入学資格は勤労者(含自家営業)であることD成人教育、社会再教育機関であるので、学士入学、短大卒者の編入の余地をもたせるE修業年限は労働条件を考慮して幅を持たせるーなど。同短大教授会では「特に地方都市の国公立にこの夜間総合学部を設置する必要度も効果も大きい」とし、すでに新大内で説明を開始している。「商業短大大橋周治教授の話」:現在の大学改革の中で勤労者教育は無視されているが、ぜひ考えなければならない。新大の統合移転問題との関連だが、現在、同問題は再検討の段階で結論的にはいえないが、一般的には夜間部の授業期間の関係から都心部にあることが望ましい。
S44.7.20(1969)新大きょう公開予備折衝/「移転統合予算」の要求で新潟大学はきょう7月20日、45年度予算概算要求についての公開予備折衝を午後2時から理学部グランドで開く。この公開予備折衝は新大がさる4日、文部省に提出した44年度予算保留分の大学本部、図書館、学生寮という統合移転関係予算と、新規に歯学部校舎、歯学部病院の現在地建設予算を要求したことについて全学的合意を得るための全学集会の前段階のもの。しかし、新大が文部省に概算要求を説明する日取りが23日に迫っているため、改めて全学集会を開くことは不可能で、この公開予備折衝が事実上の全学集会となる。学生側は全共闘系、自治会系ともこの公開予備折衝には強い不満を示しているため、成立するかどうか危ぶまれ、成立したとしても混乱は避けられそうもない。学生側は、大学が概算要求書を提出したあと″で全学的合意を得ようとしていることにまず反発している。しかも予備折衝の開催時期が、文部省に対する概算要求説明が切迫した段階のため十分な討論がなされないうえ、夏休みのため学生が帰省していることから、討論への参加がかなり困難であるとして「大学は単に形式″を重んじて予備折衝を開くに過ぎない」と指摘している。また「公開予備折衝を開いても、全学的合意に達したかどうかの最終的判断は、結局、大学側が勝手″にする」と批判する声もある。さらに、統合移転計画白紙撤回後の再検討を終えない段階で、統合移転関係予算や新規事業分を要求する大学側の論理そのものにも不満を示す声もある。一方、これらのスジ論とは別に「文部省路線を推し進めるような集会は粉砕以外にない」とする意見もある。
S44.7.20(1969)火に油の大学立法/文部省調べ紛争、71校にのぼる大学立法の成否をかけた攻防戦はいよいよ大詰めの段階ー。国会の緊張とともに大学の抵抗闘争も日増しに高まり、険しい雲行きをみせている。文部省が7月19日まとめたところでは、紛争大学は71校(国立41、公立7、私立23校)。国立は全体(75校)の53%に及んでいる。このうち「大学立法粉砕」だけをスローガンに新たに紛争校に加わったのが国立6、私立7、計13校を数え、鎮静剤が逆に火をあおった形。紛争校71大学のうち、ストライキをして学内施設の占拠・封鎖中のところは国立19、公立2、私立17の計38校。ストだけの大学は国立9、公、私立それぞれ3校づつで15校。合わせて53大学がストライキ体制のまま夏休みに入っている勘定。このほか、授業は曲りなりにもやれるが、占拠・封鎖が続いているところが国立13、公立2、私立3の計18校となっている。今春以来の紛争で授業放棄による単位不足を取り戻すため、夏休みをそっくり返上したところが6大学。このほか東大、東京教育、新潟、長崎、大分、熊本、横浜国立など12大学では夏休みを短縮して単位不足を取り戻す作戦。
S44.7.20(1969)新大公開予備折衝を中止/歯学部予算″要求せず新潟大学は7月19日から20日にかけて徹夜で評議会を開き、20日午後1時から理学部グランドで開く予定だった公開予備折衝を中止することを決めた。この公開予備折衝は、45年度予算概算要求に対する全学的合意を得るために開かれるものだったが、4カ月ぶりの学長代行、評議会と学生との対話″もまた不発に終わった。評議会は、来年度予算に歯学部関係と放射線共同利用センター(新規)は要求しないことにした。この公開予備折衝開催に対しては人文、教育、理学部の3自治会系学生が「概算要求を文部省に説明する23日を目前にしてでは形式″に過ぎない」などと反対を表明し、全共闘系学生は粉砕の態度をとっていた。また、医学部の脳研集会、助講会など同学部教授を除いた各層、理学部院生など多数の教職員も次々と反対を明らかにした。この結果、大学側は公開予備折衝を全学集会に切り替え全学的合意を得ようという当初の目的達成は不可能と判断、土壇場で中止を決定した。この結果、来年度概算要求書に盛り込んだ新規分の歯学部関係、放射能共同利用センターについては「学内の討論が不十分」として取り下げることにした。また44年度予算保留分の統合移転関係の本部、中央図書館、学生寮を要求するかどうかについては21日の再建会議の報告を待って長崎学長代行が判断する。大学執行部内には「保留分を要求することによって文部省から内示を受けた権利を継続し、再検討の時間をかせぎたい」との意向が強く「保留分の要求については新規分ほどには積極的反対がない」との解釈をしており、長崎代行はこれについては要求するものとみられる。
S44.7.24(1969)大学立法教官の反対運動、ヤマ場へ/請願署名12万越す/全国96学長きょう声明衆院文教委員会で審議されている「大学の運営に関する臨時措置法案」は7月24日に強行採決″される可能性が強まっているが、これに反対する大学教官の動きが活発になってきた。法案が提出された5月24日以来衆参両院への同法案反対の請願者は2カ月で12万人を越え、ヤマ場の24日には全国96大学の学長が連署した反対声明が出されるのを始め、集会やデモが各地で展開される。96大学の学長の声明を発表するのは名古屋大芦田学長、東京経済大井汲学長、大阪市大渡瀬学長ら。6月30日、芦田学長らが呼びかけ、23日までに国立28、公立21、私立47の96大学の学長が賛成署名している。24日午後、東京、学士会館で声明を発表し、各党に声明文を渡す。声明の内容は「法案は大学が本来あるべき姿に到達する道をはばむものであり、強く反対する」という簡単なものだが、呼びかけ人の芦田名大学長は「全国の国公私立大学の四分の一を越える大学の学長が反対している事実を国会は重視してもらいたい」と強調する。日本学術会議が5月26日出した「大学問題について」の声明いらい、国立大学協会、加藤東大・奥田京大両総長、全国各大学の教授会や教官会議の反対声明が相次ぎ、23日までに学術会議事務局、日本科学者会議に連絡があったものだけで二百団体を越えている。声明だけでなく請願、街頭デモなどの運動に広げるため6月17日「東海地方大学教員連合」が結成されたのを皮切りに、近畿、東北、関東、九州、北海道の各ブロック別連合組織が7月中旬までに勢ぞろいし、地域で反対運動が盛り上がっている。なかでも積極行動派は九州地区大学教員連合。12日に福岡で22大学1500人が参加して結成以来、資金カンパ、署名集めに教授から助手までが街頭に立ち、市民に呼びかけた。約2000人の署名を集め、堀内忠郎九大教授、下平尾勲佐賀大助教授ら7人が代表として19日上京。各党議員約30人に会い、法案を廃案にするよう訴えて回った。14日の公聴会いらい10日ぶりに開かれた23日の衆院文教委の審議を傍聴していた下平尾助教授は「1週間ぶっ続けで歩き回り疲れました。大学問題は治安対策的発想では解決しないとはっきりしている。文教政策の根源を見つめ直すことが政府の急務ではないか。委員会審議も本質論より技術的な問題が優先されているようだ」と厳しく批判していた。23日には「連絡会議」が26大学500人を集め、法政大学から国会ー文部省へ雨の中デモ。東北では仙台で東北大が全学集会を開き、1200人が参加して抗議の代表団を24日、国会へ派遣することを決めた。24日には名古屋、東山公園で2000人の教官集会、福岡でも国会報告と抗議集会が開かれる。東京では教官や労組、平和団体約10000人を集め「大学法案反対集会」を日比谷で開き、大学立法強行採決のヤマ場に国会に向けてデモ行進する。
S44.8.1(1969)新大医学部青医連無期限ストへ第一、第三内科研究室でバリケード封鎖が続いている新大医学部の青医連(青年医師連合・研修医約60人で組織)は@大学立法粉砕A医局講座制解体B現執行部打倒ーをスローガンに、あす8月2日から無期限ストライキにはいる方針を決定した。8月1日の総会で具体的な行動計画を決めるが、ハンガーストライキなども考えられている。しかし診療業務への影響は少ないもよう。同学部では、先月1日青医連所属の一部研修医が医局講座制解体などを主張して第一、第三内科研究室を封鎖し、医学部の紛争は新しい段階を迎えていた。その後、青医連、医学部学生などと教授会との団交や討論集会が数回にわたって開かれたが、双方の考え方に大きなくい違いがあり、深刻な対立が続いている。一方、青医連内部では、封鎖行動をめぐって論争もあったが、無期限ストについてはほぼ一致している。研修医たちはそれぞれ診療業務に携わっているが、人数が少ないことなどから、支障はほとんどないとみられている。しかし同学部執行部に対する研修医たちの道はさらに激しくなることが予想され、医局講座制問題がクローズアップされるものとみられる。
S44.8.2(1969)自民「大学」の強行突破図る/参院文教委で可決/混乱のうち、わずか2分自民党は8月2日朝の参院本会議で健保法改正案を強行可決、成立させたのに引き続き夜に入って参院文教委で大学運営臨時措置法案を強行可決した。3日午前10時から本会議を開いて大学法案を上程、会期内成立を図る考えだが、野党側は文教委の採決を無効として本会議上程に反対しているので、開会は遅れそうである。野党側は、本会議が開かれた場合、正副議長、事務総長各不信任決議案、文教、議院運営委員長各解任決議案などを連発して大学法案の上程を出来るだけ引き延ばし、会期内不成立に持ち込む方針を固めている。このため参院は3日以降会期末の5日まで異常国会最後の攻防が展開されることになろう。参院文教委は、8月2日昼前から断続して理事会折衝を行なった。しかし大学法案の取り扱いについて「2日中の議了」を主張する自民党と「2、3両日の審議」を要求する野党側が折り合わず、話し合いは平行線をたどった。このため自民党は、午後6時過ぎからの三度目の理事会を決裂に終わらせ、強行採決に踏み切った。委員会室には坂田文相ら政府委員があらかじめ待機していた。入室をしようとした久保文教委員長と自民党議員は、野党議員ともみ合い、大混乱となる中で久保委員長が委員長席につけないまま、午後6時23分開会ー文相の提案理由説明ー自民党委員の質問ー自民党による質疑打ち切り、討論、採決ー散会の順で、わずか2分間で大学法案を強行可決した。【注】速記録は所要時間5分間。参院が3日以降、どのような推移をたどるかは全く予断を許さず、重宗議長の決断にかかっている。
S44.8.2(1969)強行採決を憂える/加藤・奥田両学長が抗議加藤一郎東大学長は8月2日午後10時過ぎから東大・山上会議所で記者会見し、大学法案の参議院文教委の強行採決に抗議し、奥田東・京大学長と連名で次のような抗議声明を発表した。今夕参議院文教委員会で「大学の運営に関する臨時措置法案」の強行採決が行われたことに対し、改めて強く抗議したい。この法案のような教育政策の基本にかかわる問題については党派を越えてとくに慎重な審議がなされることが望ましい。しかるに、参議院文教委ではこの法案の問題点について全く審議しないまま採決が強行された。このような常軌を逸した強行採決が繰り返されることはわが国大学の将来を危うくするばかりでなく、議会政治の基盤を揺るがすもので憂慮にたえない。
S44.8.3(1969)抜き打ち採決、大学法成立/参院本会議、強行で大混乱/突然、日程を変更/「副議長不信任」審議中に大学運営臨時措置法案は、8月3日午後8時過ぎ参院本会議で、議長職権による議事日程変更によって上程、わずか1分間で可決、成立した。この日程変更は参院規則88条によるものだが、副議長不信任決議案という院の構成に直接関係する議案を審議中に、飛び越えて他の議案を上程、可決したのは衆参両院を通じて初めての措置である。野党側は自民党による中央突破″に一斉に態度を硬化させており、4日は両院とも空白状態に陥るものとみられる。自民党は会期末の5日に国民生活関連法案をいくらかでも成立させようとしているが、異常国会が最悪の状態のまま幕を閉じるのは、避けられない情勢となった。重宗参院議長は3日朝から野党各派に対し、大学法案を継続審議とすることで当面の混乱を回避するよう呼びかけた。しかし参院自民党が昼過ぎの議員総会で「議長から呼びかけがあっても継続審議方式を拒否する」ことを決めたため、議長の収拾工作は事実上カベに突き当った。野党側の大勢は議長提案受諾に傾いたが、社会党の態度決定が遅れたため、重宗議長も収拾工作続行を断念、午後5時前各党に通告した。これに先立ち佐藤首相、川島副総裁、田中幹事長ら政府・自民党首脳は同日二度にわたって会合、対策を協議した結果、野党側の抵抗が強く、大学法案の会期内成立が困難とみられる場合には、議長職権によって同法案の先議手続きをとり、一挙に成立を図るとの方針を固め、重宗議長に強く働きかけた。参院本会議は午後7時18分、緊迫した空気のうちに開かれ、まず野党提出の「安井副議長不信任決議案」を上程、自民党提出の「発言時間制限動議」の記名投票に入ったが、重宗議長が投票時間を10分間に制限したため野党議員が抗議、議場混乱のうちに同42分休憩した。重宗議長は続いて同8時7分本会議を再開「休憩前の状態ではこれ以上議事を進めることが出来ない」として議事を中止(国会法19条による「議長の議事整理」)したうえ、7番目の議題の大学法案を日程を変更して上程(参院規則88条による)直ちに同法案を採決、起立多数でこれを可決、成立した。この間野党議員は一斉に議長席に詰め寄って抗議、議場が大混乱に陥ったまま本会議は休憩した。
S44.8.3(1969)重宗議長が辞意/議運委員長も辞表重宗参院議長は3日夜の参院本会議で大学法案を強行可決したあと、参院自民党議運関係者に対し、混乱の責任をとって辞任する意向をもらした。同議長は6日天皇陛下に国会終了のあいさつを済ませてから正式に辞表を提出する考えのようである。安井副議長も重宗議長とともに辞表を提出するものとみられる。また、徳永議運委員長は同夜、重宗議長あての辞表を鍋島議運委理事(自民)に託した。
S44.8.4(1969)ショックの紛争校″新大/大学法成立/「許されぬ権力の介入」/長崎執行部話し合い路線″苦境に「大学立法」が成立した。紛争を収拾するため″の法案ということだが、いったいこれからの大学はどうなるのか。地元新潟大学も学内で大学本部など5カ所が封鎖され、今年にはいって紛争がエスカレートしてきた。一応学生の講義は予定通り進み、夏休みに入った同大学だが、立法成立で紛争が新しい段階を迎えるのは必至。立法に対しては教官、職員、学生自治会が一致して反対してきただけにショックも大きい。学内には解決しない問題が山積みされたまま。それに追い打ちをかけるような立法の成立で新大関係者の表情は暗い。紛争の認定″がいったいどうなるのか明確でないが「封鎖」ということをあげれば紛争校″。法案の対象になることは十分考えられる。夏休みに入ったとはいえ、新学期はあと1カ月後。紛争の中心である教養部の場合、五十嵐浜の新校舎移転をどうするか大きな問題を抱えている。さらに教養部の工学部進学学生は新しい講義を受けていない。また医学部では、医局講座制解体など主張する青医連の一部研修医、学生が研究室を封鎖、医学部紛争″が起きている。農学部でも立法反対、現大学執行部打倒で学部本部の封鎖が続いてきた。立法成立のニュースを聞いた渋谷武教養部長はしばし絶句。「あまりにもいいかげんだ。日本の将来をいったいどう考えているんだろう・・・。実際に法案がどう運用されていくのかが今後の大きな問題。大学としてはそれを警戒しなければならない」と指摘する。さらに「立法がどれだけ効力があるか疑問。しかしこの法律で何が解決出来るのか」と怒りをぶっつけている。現在新大では、いま改革のための再検討路線″が進んでいる。再建会議の臼井晋助教授は次のように語る。改革が進む中で、私たち教官が一番心配なのは、改革に対する権力の介入ということだ。立法でもし介入があった場合、戦わざるを得ないだろう。機動隊の導入も心配される。封鎖がエスカレートする中で、長崎執行部は「紛争収拾のため機動隊は導入しない」と、話し合い路線を貫いてきた。しかし立法により、機動隊が学内にはいることは十分予想される。そうなれば改革路線も大きくゆらぐ。学生たちは「12月には休校、来春には廃校だ」と叫んでいる。今後、この法律がどう運用されるかが焦点になるが、いずれにしても大学執行部はこれまで以上に苦境に立つことが予想される。一方、新大本部を封鎖している水谷同大全共闘議長は「大学法案成立によって、われわれの戦いは苦しくなるだろう。政府、自民党は、この法案の成立によって我々の戦いを非合法化し、物理的な力で圧迫してくるだろうし、大学当局、民青は、新国大協路線ともいえる自主解除″の方式を前面に押し出してくるだろう。闘争によって法案を骨抜きにしていくのが、今後のわれわれの課題」といっている。
S44.8.6(1969)新大再建会議が中間報告/教授会の民主化を勧告/身分の差別を解消/医学部協議会制度の確立を新潟大学の改革を考える同大再建会議はこのほど作業の中間報告を行なった。その報告の中で同会議は各学部教授会に対し「教授会の民主化を促進せよ」との勧告を行なった。この「教授会民主化勧告」は新大改革の第一歩とみられるもので、再建会議が改革の方針を打ち出し、具体的に動き出したことが注目される。全国的に大学の改革案ラッシュ″だが、改革のために勧告を出したのは同大が初めて。この勧告は再建会議の下部組織である管理運営分科会で検討されてきたもの。再建会議では、8月6日に行われた中間総括でその勧告に関する答申を承認したわけだ。勧告の対象は同大8学部の教授会。民主化の内容は@教官、研究者間の身分差別を実質的に解消し、平等の権利義務関係にある制度を確立するA特に管理運営の核心である人事権と予算権の教授層独占を廃止するーなど。この民主化によって教官、研究者層の意志を集約し、管理体系の改革をを進めるための基盤を確立するという。「研究教育に従事するものはすべて平等」という認識に立って教授会の民主化を進めようというわけだが、多数が参加することによって審議機能″が低下するという心配は、例えば委員会制度などを活用すれば防げる、としている。勧告内容は学部によってそれぞれ違う。これは現在の各教授会体制の足並みがそろっていないことが大きな理由で、学部の実情に合わせたものになった。例えば医学部教授会に対しては「医局講座制の実質的改革を伴わない教授会民主化は有名無実に終わる」とし「人事・予算権を含めた拡大教授会実現を目的として、現時点では各層を代表する協議会制度を早く確立せよ」と勧告している。またすでに教授会が一本化し、民主化の進んでいる人文、理学、教養部教授会に対しては、教授層の「隠居者意識」、助教授以下の若手層の「若年寄り意識」があることを指摘し、教官の意識変革″を要望している。全体に、かなりきびしい口調の勧告で、一部では難色を示す学部も出ている。しかし、各教授会はこの勧告に沿って民主化を進めることになると思われる。これによって新制開校以来20年になる教授会にとうとう改革のメスが入れられることになり、大学立法成立ともからんで今後の成り行きが注目される。
S44.8.8(1969)文相と懇談会/国大協 大学法に非協力″/「紛争解決には有害」/協力要請に強く反発坂田文相は8月7日、東京・虎ノ門の国立教育会館に奥田東会長(京大学長)ら国立大学協会幹部7人を招き、同日公布された大学措置法について大学側の協力を要請した。しかし、国大協は同法に強く反発、話し合いは平行線をたどり、結局、物別れに終わった。国大協側は@この法律は紛争解決に有害であるA参院で審議もせず、強行採決したことは納得出来ないB議会制民主主義に対する批判が強まり、9月の新学期から紛争が拡大、紛争解決を一層困難にするーなどの点を指摘、事実上非協力″と同様な態度を明らかにした。このため文部省と大学側との対立は深刻化し、文部省が20日前後にも予定していた国立大学長会議の開会も危ぶまれる情勢となっってきた。
S44.8.12(1969)新大改革ー新しい段階へ/民主化迫られる教授会/紛争解決へ足掛り/教官の意識に実現のカギ「大学改革のためにはまず教授会の民主化が必要」−新潟大学で再建会議が各教授会に勧告を行なった。同大のあり方を考える再建会議が打ち出した改革第一弾。紛争収拾のメドの立たない同大にとって、解決の望みをかけた最後の道かもしれない。大学は先月18日1週間遅れで夏休みにはいった。封鎖した城″を守ろうとする全共闘系学生と大学法成立に反対する自治会系学生がわずかに残っているだけ。紛争のにおいはいまはない。しかし大学法で、現在の「大学問題」は新しい段階を迎えようとしている。大学法と時を同じくして出た新大改革の動き。このからみ合いは新大紛争の大きな目となって夏休み明けの9月になだれ込む気配だ。「教授会の民主化」−すなわち教授、助教授、講師助手、などの身分差別″をいっさいやめようということ。紛争を通じて、教授会の古い体質″に批判が向けられ、その結果として生まれた結論といえる。いったい大学の教授会とはどんなものなのだろう。どこの学部でも共通しているが学部はいくつかの専門学科別、または講座で構成されている。たとえば理学部の場合、数学、物理、化学、生物、地質の5教室が構成の最小単位。各教室には教授、助教授、講師、助手がそれぞれ数人ずつおり、一つの教室を構成している。学部教授会はこの各教室の教授がメンバー。学部の管理運営機関として存在してきた。これは学校教育法で定められているように、教授会の自治″と呼ばれている。ここでは人事、予算など学部の運営の重要事項が討議され、結論が出されてきた。それが学部の方針として各教室に報告され、実施される仕組み。大学の3月、4月には学内に微妙な空気が流れるという。人事異動というやつ。一般の事務問題には一向に関心を示さない教官たちだが、この時ばかりは急に関心を示すようになるという。なにしろ教授、助教授のポストは各教室、講座にごく限られた数しかない。大学での人事に関する関心は一般社会の比ではなく、異常″とも思えるほどだといわれている。そしてこれは各教室、講座の問題でもあり、さらに教授会の問題にもつながって行く。1教室数人の教授、助教授、または1講座1教授、1助教授の社会では、1人の教授が退官したり、講座が増えたりしない限り、助教授が教授に、助手が助教授にはなれない。「まるでスモウ部屋みたいなもの」といわれるぐらい、閉鎖的な社会の一面を見せてきた。そして「だれでも教授になりたいし、大学にいる以上教授になることが大きな目的」−こういった意識は教官の心のすみにいつも宿っているといわれてきた。「教授と日ごろ意見が対立し、性格的に肌が合わない」とか「研究が相手の分野を犯した」などすると人事問題にも影響してくる。あえて仲の悪い助教授を教授に昇格させることはしたくないし「好みに合った″人事をしがちになる」という。人事をめぐるうちゲバ″こういったケースはうわさとなりたびたび学内に流れた。「〇〇教室で助教授が教授にケンカを売った」「A教授がB助教授をさけて助教授を他大学から引き抜いた」など、開校以来20年余の間に多くの悲喜劇″が生まれてきたのだ。少なくとも最少の構成単位である教室、講座でこれだけの問題があるわけで、こうしたことが教授会批判の大きな原因にもなっている。そして教室の民主化は、教授会の民主化につながっていく。
S44.8.12(1969)同上また予算面でも研究費の配分をめぐり、しばしば対立がある。少ない予算をどう使うかは、研究者にとっては大きな問題である。「予算、人事権を含めた拡大教授会を確立せよ」-これはいままでの古い体質の教授会を事実上解体″することを意味している。新大紛争がエスカレートし始めた昨年11月末、全学の若手教官を中心にして「全学教官集会」が結成された。この集会は紛争を何らかの方法で解決しようという教官有志の呼びかけでつくられたものだが、紛争の中では第三勢力となっていた。そして会議では封建的な教授会批判も始まり、日ごろの不満?が爆発して、当時の大学執行部を激しく突き上げる格好となった。そして出てきたのが「統合計画の白紙撤回、再検討」の要求決議。自信を失った執行部は「計画の白紙撤回」という決断を出さざるを得なくなった。これは新大の歴史の中でも大きな転換点だった。白紙撤回″を境に学内の空気は大きく一転、「民主化」が全面に浮かび上がってきた。その後教官集会そのものは目立った動きを示すことはなかったが「民主化」は学内の声となってきた。そして「再建会議」の登場。改革を検討し、推進する同会議のスローガンは、学内の声を受け、「教授会の民主化」であった。民主化と再検討との関係は1つの論理的な裏づけがある。たとえば最近では、どこの大学でも「改革案」が出ている。しかし改革の具体化について疑問が持たれていることは事実。「改革を進める場合、その主体となる教官層、教授会が旧態依然とした古い体質″では何もできない」という。「新しい酒は新しい皮袋に」というわけだ。そして今回の勧告はその第一歩といえる。教授会の民主化とはどういうことかー学部の運営に全教官が何らかの形で参加し、少なくとも教官層の意見が集約されやすくなる。「統合計画」が中絶したのは、計画の成立過程に教官の意志が反映されず、民主的な決定方法がなされなかったためといわれている。教授会の民主化は「教授会自治」の否定につながり学部間の壁を取り除く期待もある。しかし教授会民主化にはいくつかの問題も指摘されている。特に大きなポイントになっているのは意識″の問題。勧告の中でも述べられているが教授たちの「隠居者意識」と若手層の「若年寄り意識」ということ。長年住み慣れた環境での経験を否定して意識変革″することはかなりむずかしいといえる。「一種の革命が起きた」「私たちの時代は終わった」と語り、研究室にこもる教授たちもいるし、変化に驚くだけの助教授たちも多い。「組織だけをいじっても、教官個人、個人が対応できないのではどうにもならない」との指摘は民主化の一面を鋭く突いているといえる。さらに大学法成立も微妙な影響を与えそうだ。「教授会の民主化」そのものは法的に制約は受けないが、大学法に対する学内の反応そのものがどう響くか注目されるところ。解決を急ぐあまり、封鎖の自主解除″−機動隊の学内導入となれば、学内の混乱とともに、改革路線が叩き潰されることにもなりかねない。ともかく再建会議はかなりのスピードで改革に動き出した。学内の大きな集団である学生層がどういった反応を示すかが重要なポイントでもあり、前途は決して明るいとはいえない。しかし現在の情勢は教官層の改革の先取り″といった格好で進みそうな気配だ。
S44.8.12(1969)教授会民主化に関する勧告(全文)/教官はすべて平等(1)現存する欠陥:統合問題を契機に本学の管理体系が今日見られるような破産状態に陥った根本原因は、学生、職員を含む全学的意思の形成に基づく大学の総意としての統合計画を立案実施できなかった点に求められる。と同時に、これまで大学の管理機関の構成員たる教授層が教官・研究者層という限定的なワク内においてすら、その意向を反映できずに管理運営に当たってきたことの意味も大きい。統合問題は、このような現存の管理体系がもつ体質的な欠陥の象徴的なあらわれにすぎず、より日常的な問題としては、教授層による人事権、予算権の独占、あるいは教授による研究の私物化などが、大学における自由な研究活動を阻害してきた。他方、教授層以外の教官・研究者は、このような身分的支配に対して黙従を続け、大学の管理問題から身を引くことによって、かろうじて自らの研究を守ろうとしてきた。このような状況の中で、教官・研究者相互の意志は疎通せず、学部利害の対立は必要以上に強調され、また定員の絶対的不足や施設の貧困など、本学がかかえる諸問題の解決に向かって、大学が強力かつ統一的な自己主張を行なうことがさまたげられてきた。教官・研究者が身分的差異によって大学の運営に対する権利を差別されるという従来の(そして本学のかなりの部分において現存する)あり方は、全体として教官・研究者層の管理運営に関する無責任体制を惹起(じゃっき)し、大学を破産状態に追い込んできた。大学の自治を確立するためには、新しい構想のもとで教官・研究者層、学生層、職員層が管理運営に対して、それぞれ固有の権利を行使する姿が求められなくてはならないが、そのためにも早急に教官・研究者がこの無責任体制から脱却する必要がある。(2)教授会の民主化:教授会民主化とは、大学をこのような破産状況から救出するために、教官・研究者がまず果たすべき責任の1つである。それは、@教官・研究者間の身分差別を実質的に解消し、全てが平等の権利義務関係に立つ制度を確立すること。Aとくに、管理運営の核心である人事権と予算権の教授層による独占を廃止することBこれにより、大学構成員の1つの柱である教官・研究者層の意志を集約し、新潟大学における管理体系の改革をさらに積極的に進めていくための基盤を確立すること、を意味する。これらの条件が満たされない限り本学の未来像を描いても空論に終わる危険性がある。
S44.8.12(1969)同上(3)教授会民主化の問題点:教授会民主化は、単なる制度いじりに終わってはならない。そのためには、次の諸点に留意する必要がある。@教授会民主化は、当該部局の講座、学科あるいは専攻などを含む研究教育単位の民主化と並行して進められなくてはならない。このことがもっとも尖鋭(せんえい)に示されているのが医学部の場合である。医局講座制の実質的改革を伴わない教授会民主化は、有名無実に終わる可能性が強い。A現在、人事権、予算権を除外した形での教授会拡大の動きが一部に見られるが、これまで教授会の外にあり、その支配下にあった助教授、講師、助手層が、予算、人事に関して何らかの決定権を持つことなしに教授会に参加することは、彼らがこれまで培われてきた教授会の支配力に事実上屈していく可能性を持つことになる。したがって教授会民主化を実現するためには、人事、予算に関する決定権を同時に拡大しなければならない。たとえば、人事についての承認を全構成員の投票によるとか、予算を全構成員に均等に配分するなどの原則が確立される必要がある。この意味において、人事権、予算権を教授層に保留する、いわゆる二本建て教授会制度は、民主化の目的に沿うものではなく、逆に若手教官層に管理運営上の重責のみを負わせ、権利を与えない形において、彼らを一層不当な立場に置くことになる。この弊害は、いまだにいかなる意味における教授会の拡大をも行っていない部局(たとえば工学部)においても、既に顕著である。Bたとえ人事、予算を含めて教授会の拡大が実現されたとしても、これまで人事、予算権を掌握していた教授層の投げやり的な「隠居者意識」また、従来の制度に格別の疑問を抱かずに現在に至っている助教授以下の層の「若年寄り意識」などを克服することが肝要である。C教授会民主化は、研究教育、管理運営両面における新潟大学の改革のための第一歩であって、その到達点ではない。民主化された教授会は、もしそれが日常的な管理業務に終始するとすれば、その本来の目的から逸脱することになる。民主化された教授会は、改革への運動の1つとならなくてはならない。(4)教授会民主化の具体策:研究教育に従事するものはすべて平等である、という認識に立つ教授会の民主化については、現行法上何ら決定的制約はない。「多人数」問題、代議制問題(必ずしも教授会全員が代議員とならない場合)などは、実際面で解決することが出来る。たとえば、人文、理、教養で試みられているように、委員会制度の採用などにより、教授会拡大がもたらすと懸念されている審議機能の低下には十分対応することが出来る。(5)勧告:現在、新潟大学の各教授会体制は足並みがそろっていない。それぞれの母体は民主化のために努力しているが、再建会議はその発足に当たって確認した共通認識に立って、教授会体制を早急に改革するよう勧告することが出来る。再建会議は(1)から(4)までの観点に立って、次のことを勧告する。@医学部(含脳研)は助手以上を構成員とする(人事、予算権を含めた)教授会の確立を目標とすべきであるが、現時点でただちにその実現を急ぐことは、(3)-@の点から問題が多い。したがって、各層を代表する協議会制度を早急に確立し、教授会が協議会の決定を尊重(各層に拒否権を与えることなどにより保証)することを確認することから始めるべきである。A歯学部は、教官組織改革委員会において全教官による人事、予算権を含めた決定参加の方向で早急に結論を出すべきである。B教育学部については、教授会拡大準備委員会の成果を期待するとともに、とくに人事について早急に民主的改革を実現すべきである。この場合、三地区分離という地理的条件による困難と、民主化の原則を実現するうえでの問題を分離して考慮することが必要であろう。C農学部は、講師以上の人事を除く大教授会制度が設けられたが、その人事を含めた教授会一本化の方向に早急に進むべきである。D工学部は教授会と教官会議が並存しているが、早急に人事、予算権を含めた教授会一本化に進むべきである。E人文、理、教養の各部局では、すでに教授会一本化が実現されているが、(3)-Bに指摘した弊害を克服するよう努力すべきである。Fいくつかの部局においては、教授全員が管理職に位置付けられているが、これは教授会民主化の方向と矛盾するものであり、早急に解消されなくてはならない。
S44.8.12(1969)新大評議会学長選の検討始める/長崎代行が強い辞意新潟大学長崎明学長代行は8月12日開かれた大学評議会で代行辞任を強く要望、このため評議会は会議を学長問題協議会に切り替え、代行辞任を認める方向で、新学長選考の検討を始めた。長崎明学長代行はかねてから辞意をかためており、今月中には正式辞任が認められることも予想される。しかし学長選考方法をめぐり各種の議論がある。長崎代行の辞意の理由は@大学法成立で、今後「代行制度」で対処出来るかどうか疑問があるA長崎代行選出の母体である学部に帰ってほしい″という要求が強いことーなど。長崎代行自身も代行を半年以上続けることに限界を感じており、以前から機会があればやめたい″との辞意を漏らしていた。しかし現在の学内情勢では、辞任を直ちに認め、後任を選出出来る状態とはいえない。このため今後は@代行を続けるにしても各学部の信任を得るA現行制度で学長を選出するB現行制度をとる場合は、新学長は新しい選挙制度をつくるまでとするーなど選考をめぐり議論が行われることが予想される。そして同代行の辞任が正式に認められるのは、これらの議論の結論が出た時点になるものとみられるが、これまでのように代行のタライ回しは極力避けたいとの空気が強い。また長崎代行が辞任することにより、夏休み明けの大学は、学長選出を中心に大きく動くことになりそうだ。実質的な辞任:長崎明学長代行の話:実質的な辞任と考えている。しかし手続きの上では辞任はさらに遅れることになり、その間に各学部で学長選出について議論してもらうつもりだ。その時点で辞任を正式に認めてもらうつもりだ。
S44.8.14(1969)新潟港に再び米軍艦/17日革新団体は抗議運動へ"5月末の米海軍給油艦ケネベック号に続いて8月17日午前8時、新潟港山の下フ頭に米海軍第七艦隊所属の施設艦キャプスキル号(9,000トン)など3隻の軍艦が佐世保港から入港することがこのほど関係当局に通知があった。このため安保破棄諸要求貫徹県実行委=伊藤正三代表委員=は「これは平和な日本海を乱すためのアメリカ帝国主義の軍事的挑発とみなすべきである」とし、港を管理する責任者として知事は拒否すべきであるーと13日、亘知事に申し入れた。また代表らは新潟アメリカ文化センターのドゥイン・キング館長に「米国の朝鮮半島での新たな戦争挑発行為と一体のものである」と抗議文を提出した。この入港に対して反安保県実行委員会(社会党系)では8月18日午後5時半から同フ頭で抗議集会を開くほか、安保破棄実行委員会(共産党系)でも入港時の17日午前8時と19日午後6時の2回、大衆的抗議集会を開く予定。同艦船の入港目的は明らかにされていないが、乗務員の休養と補給らしい。8月20日午後3時に出港の予定。"
S44.8.17(1969)大学法きょう施行/大学側非協力紛争いっそう激化か/文相に入試決定権/文部省紛争″定義にも新見解/画一的運用避ける文相談話長期化する大学紛争を収拾するため「大学運営臨時措置法」は8月17日施行された。坂田文相は施行に当たって「大学措置法の運用には慎重を期し、1日も早く学園を正常化して国民の期待にこたえたい」との談話を発表、大学紛争収拾への決意を表明した。しかし全国の多くの大学は、大学措置法に非協力的な態度を示し、紛争の自主解決を目ざしている。また紛争の中核となっている全学共闘など学生グループは、国会での大学措置法の強行採決に強く反発、夏休み明けから闘争を盛り上げ、佐藤首相の訪米阻止、70年安保闘争につなぐ構えを示し、なお紛争激化が予想される。このため文部省は、大学措置法の画一的な運用を避け、紛争実態に応じ慎重、適切な措置によって大学の収拾努力を助け、さらに根本的な紛争解決には中教審の大学改革に関する答申を待って対処する方針である。しかし文部省と大学当局との不信・対立関係は深刻で、早くも大学措置法の効果が危ぶまれ、来年の大学入試中止の多発も予想されている。「長期紛争大学一覧(文部省調べ、8月16日現在)」継続期間1年以上:東京教育大、9カ月以上:東京外国語大、6カ月以上:神戸大、和歌山大、中央大、京都大、岡山大、東京工業大、横浜国立大、大阪大、熊本大、お茶の水女子大、大阪市立大、東京水産大、関東学院大、富山大、広島大、長崎大、5カ月以上:新潟大、京都府立医科大、帯広畜産大、東京医科歯科大、名古屋工業大
S44.8.18(1969)国立大学協会が臨時総会/大学法へ総意反映国立大学協会(会長奥田東・京大学長)は大学運営臨時措置法施行に伴う今後の対応策を緊急に協議するため、8月18日午前10時から東京・神田の学士会館で臨時総会を開いた。国大協は、同法施行前の12日に理事会を開き、同法に対する基本態度を検討したが、理事会で意思統一をはかることは不適当であるとの判断から結論を持ち越し、改めて学長の総意を反映させるためこの日の総会となったものである。会議には加藤一郎東大学長はじめ全国の国立大学長(代理を含む)が出席。冒頭奥田会長が理事会の討議経過を報告、臨時総会開催の趣旨説明を行ったあと意見交換に移った。大学措置法については東大をはじめ個々の大学からかねて強い反対の意向が表明され、成立後も非協力″の態度を含むかなり根強い抵抗の姿勢が示されてきた。しかし文部省の調べによると、同法施行の段階で、全国立大の半数を越す38校が紛争中であり、同法施行による学生の反発も加わって紛争は一層激化する様相を見せている。このため紛争校では法律に対する賛否とは別に、紛争の具体的処理に迫られる立場に追い込まれている。このような情勢を背景に個々の大学の意志がどのような形で国大協の総意として打ち出されるか、9月新学期以降の大学問題の行方にかかわるだけに結論が注目される。学長の中にはあくまでも大学の自治を守る立場から同法の適用に反対し「法律の形がい化をはかるべきだ」とする意見の一方に、「施行された以上、これを無視することはできない」との意見もあり、国大協として一本化した態度表明は困難とみる向きもある。このため臨時総会では紛争の自主的解決の決意と今後の大学改革に取り組むための基本的立場を確認する形にとどまるのではないかとみられている。
S44.8.18(1969)国大協が会長談話/大学法にはとらわれぬ/あくまで自主解決/廃止へ強く働きかけ全国75の国立大学で組織している国立大学協会(会長、奥田東・京大学長)は8月18日、東京・神田の学士会館で第44回臨時総会を開き、17日に施行された大学運営臨時措置法に対する基本的態度を協議した。その結果「同法は審議過程からみて法律としての権威を疑わしめる。しかも同法は大学による紛争の自主的解決を妨げ、大学運営を困難にする恐れさえある。今後大学は法律にとらわれることなく大学の自治を堅持し、各大学の信ずるところに従い自主解決を推進する」との会長談話を全会一致で了承した。
S44.8.18(1969)政府の介入にあくまで抵抗/関東地区大学教員が集会関東地区の大学有志教官で組織している「大学立法反対関東地区大学教員連絡会議」(世話人代表、山内一男法大教授)は8月18日午後、東京・中央区の都社会福祉会館で約200人の教員が参加して第5回抗議集会を開き、17日施行された大学運営臨時措置法に今後も反対し、政府権力の介入に抵抗する方針を確認した。同会議は集会に先立ち、吉田秀雄芝工大教授(同会議世話人)ら代表が東京・神田の学士会館で開かれていた国立大学協会臨時総会に行き、各国立大学長あてに@文部省から紛争校とされている各大学は、大学臨時措置法による文部大臣への報告義務を拒否せよA文部省召集の国立大学長会議への出席を拒否せよB同法に基づき設置される臨時大学問題審議会への委員選出に協力するなC中央教育審議会が実施している全国大学教官へのアンケートには大学として応じないでほしいーの4点にわたる要望を申し入れた。集会は千葉泰則事務局長(法大教授)から国大協への申し入れの経過について報告した後、今後も以上の4点に沿って大学立法反対の運動を進めていくことを確認した。集会はこのあと「大学臨時措置法の施行の阻止と今後予想される大学への政府権力のいっさいの介入にあくまで抵抗する」という宣言を採択。午後5時過ぎから首相官邸、文部省へ抗議デモした。
S44.8.19(1969)新大医学部「講座制」は全廃する/診療・研究を柱に改革案新大医学部の講座改革委員会(委員長・北村四郎教授)は医学部改革のたたき台″として講座制を全廃し、かわりに「臓器別診療制」「グループ研究体制」を柱とした案をまとめ、8月19日、教授会に提示した。教授中心の現在の講座制では現代医学の発展に即応できず、若手研究者の研究意欲を妨げるものであるとの観点からこの改革案が出た。改革案によると、診療部門では現代医学の細分化に呼応し、循環器内科、呼吸器内科、腎高血圧科など臓器別に診療科を25設定する。また研究部門では、セクショナリズムを廃し、関連の診療科を総合的に組み合わせる。たとえば消化器内科と腹部外科、循環器内科と循環器外科というように。講座制は明治26年に発足。講座制には教授1人、助教授1人、助手3人で構成され、講座内での研究や人事は教授が牛耳り徒弟制度″だとして全国の医学部紛争の原因になっていた。同改革案はこの講座制のカベを打破し「研究、教育、診療は人中心ではなく学問中心であるべきだ」との考えに立った。もっとも、改革委員会内部でも同改革案に対し「時期尚早」との意見があり、同改革案は同委員会の結論″とはなっていない。しかし講座制の廃止が具体的な代案を伴って登場したことは全国的にも注目され、新学期早々から医学部紛争に新たな局面を与えることになる。改革、これしかない:北村四郎教授の話:人間さえ民主的になれば現在の講座制でもよいとする意見がある。しかし個人的見解だが、日本が医学を輸入していた明治、大正時代なら講座制は生きたが、日本で医学が著しく発展している現在、教授だけが学問のリーダーになるという講座制の矛盾は厳しく指摘されるべきで、この改革案でいかなければならない。文部省からの講座費を医学部内で新しい診療科に配分するという措置をとれば、実現は案外早いかもしれない。また文部省も新しい意欲的な案を積極的に採用するという前向きな姿勢をとってほしい。
S44.8.25(1969)新大医学部1年生講義/封鎖騒ぎで中止/波乱含みの休み明け新潟大学医学部の1年生の後期講義が8月25日から始まったが、医学部共闘会議準備会の学生によって妨害され中止となった。この日の講義は新学期の遅れを取り戻すため夏休みを繰り上げて始まったもの。午前8時半の1時限から「生化学」の講義を同学部の第二講義室で行うことになっていた。そこへ医共闘の学生約15人が「授業再開粉砕」を叫んで押しかけ、講義室を封鎖、授業を受けないよう呼びかけた。このため学部側は講義室を切り替えたが、ここでも封鎖騒ぎがあり、この日の講義は中止となった。現在同学部では、医局講座制問題を中心に医学部紛争が続いており、来月1日から全学の夏休み明けを前に、波乱含みの状態となっている。
S44.8.28(1969)長崎新大学長代行が辞任/学長選挙18日に郵便投票新潟大学は8月28日夜遅くまで協議会を開き、長崎明学長代行の辞表を正式に受理し、学長選挙を来月18日に郵便投票によって実施することを決めた。これにより、各学部長・教養部長、付属研究所長、また、各学部・教養部の代表教授1人など、計42人で学長候補適任者選定委員会が設置され、この選定委員会は選挙日の10日前の来月8日に候補者適任者5人を選ぶ。学長候補者は、同大学学長選考規程第二条により「人格が高潔で学識が優れ、教育行政に関し識見を有する者で、大学教授の経験があり、学内の衆望を得たもの」であれば、学外の人でもよいことになっている。郵便投票は同大始まって以来のこと。同大が紛争中であり、学生の中で選挙阻止の動きも出ていることから「確実な方法」として考え出された。この方法では、投票用紙と封筒をあらかじめ有権者に渡しておき、有権者は投票日に書留郵便として新潟西郵便局止め置きで投函する。開票は22日(場所未定)。有効投票数の過半数を得たものが当選となる。有権者には、さる22、23両日の同大評議会で「大学民主化の第一歩としてこれまでの教授、助教授、講師のほかに助手も加えることにした。これにより有権者数は従来の500人から770人に増える。また28日の同大評議会では選出された学長は「大学改革にもとづく新しい学長選挙法が決まるまでの暫定学長″である」ことを申し合わせた。
S444.8.31(1969)新大医共闘、阻止を計画/ガン治療学会開会を控え緊張来月4日から6日まで新潟市で第7回日本ガン治療学会総会が開催されるが、この学会開催に対して新潟大学医学部の学生組織である医共闘(医学部共闘会議準備会)は「体制的な大学医学部の参加するセレモニーにすぎない」として学会粉砕を叫び、実力阻止を計画。このため学会事務局を引き受けている同医学部では、学生の妨害に備えて緊張。学内の一部では、場合によっては機動隊の要請もいたしかたないという空気が強くなっている。同学会は、全国からガン治療の専門家など約1000人があつまる年1回の総会。「ガン宣言」の賛否をめぐる討論、ガン治療の新薬ブレオマイシンの成果報告など注目される問題が多い。医共闘の学生たちは「学会に協力するな」「製薬資本と手を切れ」などと教授会に迫り、実力で学会を粉砕すると主張、妨害を計画している。またこの中で、総会のシンポジウム「肝ガンの診断と治療」の司会者に予定されていた第三内科、市田文弘教授が司会を辞退するなど影響も出てきた。これに対して総会会長の堺哲郎教授(第一外科)を中心に事務局側は万全の体制で学会を成功させるとして学部内外に協力を呼びかけた。しかし医共闘は戦術をエスカレートさせ「第一外科封鎖」のスローガンを出し、対立が深まり、29日午後には第一外科医局員を中心にしたグループと医共闘の学生がぶつかり内ゲバ寸前の一幕もあった。このため大学側は、封鎖行動を警戒、緊急学部長会議が同夜おそく開かれるなど緊張が続いた。医学部では学生の行動に対して自主防衛″の動きが活発で、特に第一外科では準備に並行して泊まり込みの警戒体制。さらに学内には「混乱が起きたら機動隊導入もありうるといった動きもある。
S44.9.1(1969)新学期/新大、封鎖で幕開け/人文本館にバリケード/全共闘トラブルはなし新学期が始まった9月1日未明、新潟大学人文学部本館が全共闘系学生によって封鎖された。同日午前零時50分頃、ヘルメットに角材、鉄のパイプなどを持った全共闘系学生約60人が人文学部本館に押しかけ、入り口や窓を机、いす、スチロール・ロッカーなどで封鎖した。学生たちは本館の二階から、中核・フロント、SFL(新潟学生解放戦線)の旗を掲げた。封鎖中、かけつけた教官たちが「何をするのだ」と学生たちに問いかけたところ、学生たちは消火液をぶっかける一幕もあったが、学生たちはほとんど抵抗を受けずに封鎖した。本館の一階には学部長室、教官控室、事務室、宿直室、二階には、図書室、会議室、独文、仏文、英文の研究室がある。大学側は事前に重要書類を持ち出していたといっている。また、学生たちは本館を封鎖するため、教室から机やいすを持ち出したため、教室も事実上使用できない状態になっている。この封鎖で、同学部教官たちは緊急呼び出しを受けたが「やっぱりやられた」とぼう然。理学部、教育学部でも封鎖されることを警戒、教官たちが待機していた。この結果、新大で封鎖されているのは、本部、教養部、医学部の第一内科、第三内科、農学部、人文学部の6カ所に拡大した。なお、封鎖された人文学部は、この日の講義と、同学部教官が担当する1日の教養部講義を休講とすることを決めた。休講措置の取られた同学部には、午前8時過ぎから新学期授業を受ける学生たちが続々と登校したが、本館前広場に張り出された「休講」の知らせを見て、そのまま引き返して、封鎖ろう城の学生とのトラブルはなかった。教養部も人文学部の封鎖の影響で教室が使用できないため、1日は休講。
S44.9.4(1969)ガン学会警官に守られ開会/学生、会場突入はかる/早朝から衝突、騒然1人を逮捕/総会、まずは予定通り新潟市で3日間の日程で開かれた第7回日本ガン治療学会総会初日の9月4日、全共闘系学生が実力阻止行動に出、騒然とした中で学会は始まり、1人の逮捕者を出した。「ガン学会粉砕」を叫びヘルメットをかぶった全共闘系学生約50人は同日午前9時、大学本部を出発、デモ行進をしながら学会主会場の県民会館に向かった。すでに、県民会館の管理者である君副知事と学会の堺哲郎会長から3日と4日の2回にわたり「会館敷地内から学生を排除してほしい」と新潟中央署に要請があったため、県警第一機動隊二個小隊など200人が警備に当たった。学生たちはまず午前9時10分頃、会館左側の階段から会館二階正面入り口に突入をはかり、入り口ドアのガラス1枚をこわした。しかし機動隊に排除された。さらに学生たちは会館正面入り口の会談下(会館敷地内)や会館前広場で、デモ、これを排除しようとする機動隊と数度にわたって衝突した。9時25分頃、学生たちが敷地内に座り込んだところを、1人が「器物破損」の現行犯で逮捕された。学生たちはその後も会館前広場からデモをしながら敷地内に突入をはかろうとしており、機動隊と小競り合いを繰り返したが、9時40ごろから会館前の緑地帯で集会を始めた。一方、学会はほぼ予定通りに開会、冒頭、堺会長が「現在、医学部のあり方が問われており、会議自らの手で改革するが、よその手で強制されることは心外である」とあいさつ、続いてシンポジウムに移る寸前、福島医大の外科教室員が「機動隊が騒然としている中で安閑としていられるか、医局制度、研修体制について全体集会に切り替え、討論せよ」と提案した。しかし堺会長自ら壇上にのぼり「予定されていない発言だ」として打ち切り「学問の場にする」ことを多数の拍手で確認、内部からはおおきな混乱もなく学会は始まった。学会に参加した人たちの中には大分県の病院医師のように「学生が学会会場にまできた例はない。運営にはいろいろ問題はあるが、私は勉強に来たのだ」という声や「学生の実力阻止とはとんでもない、若僧なんか」との声も出ていた。しかしほとんどの人たちは無関心を装っていた。逮捕学生を告訴/県民会館:ガン治療学会総会の新大全共闘阻止行動で県民会館正面横手のガラス1枚(4万7千円)が割られた件について、会館側は「警備当局からの要請もあって」(長谷川会館次長)直ちに公有財産器物破壊で、逮捕された氏名不詳の学生を告訴した。
S44.9.4(1969)新大教育学部教官らが逆封鎖新潟大学教育学部の教官、職員および自治会系学生は全共闘系の校舎封鎖を警戒、9月3日夜から4日未明にかけ全校舎を逆封鎖した。3日午後4時から開かれた同学部教官会議で「授業の場を守ろう」と自主防衛体制を敷くことを決定、同日午後10時ころから4日午前1時ころにかけて学生230人、教官、職員80人で同学部の校舎一帯に机、イス、ロッカーなどでバリケードを築いた。同学部では4日午前中、校舎内を整備し、同日午後から平常通り授業を行うことにしている。
S44.9.4(1969)新大教育学部学生のセクト強まる/両派が武装衝突新潟大学教育学部の教官、職員および自治会系学生は全共闘系の校舎封鎖を警戒、9月3日夜から4日未明にかけて全校舎を逆封鎖″した。これに強く反発した全共闘系学生は「ガン学会粉砕!」と同時に4日午後、学内でデモンストレーション。また自治会系学生も武装″し、両派学生は衝突を繰り返した。新学期早々から学生セクトの対立は激化している。午前中、学外で「ガン学会粉砕」を叫び、妨害行動をとった全共闘系学生約120人は午後1時すぎから、学内の教育学部前広場に押し寄せ、これに備えてスクラムを組む教育、人文、理学部の各自治会系学生約150人とニラミ合った。午後2時過ぎ、一般学生、教職員など約500人が見守る中でヘルメット、ゲバ棒の全共闘系学生は「日共・民青粉砕!」を叫び、デモ行進で、黄色ヘルメット、覆面姿でスクラムを組む自治会系学生の列に突っ込んだ。自治会系学生は「暴力集団の全共闘は許さない」と激しく抵抗、つかみ合い、殴り合いの衝突が数回続いた。しかし午後3時過ぎには、全共闘系学生は解散し、それ以上の混乱にはならなかった。この間、教育学部前広場は騒然とした空気になり、一般学生はなすすべもない″といった表情。ただ両派の衝突を無言で見守るだけだった。大きな混乱は避けられたとはいえ、両派学生が武装″して衝突したのは今回が初めて。思想上の対立から生まれた憎しみ″のぶつかり合いだった。なお教育学部では逆封鎖″で午前中の授業は中止、午後から再開する予定だったが混乱のためこの日の授業は全面中止となった。
S44.9.5(1969)山本義隆議長(東大)を逮捕警視庁は9月5日午前11時23分、東京・日比谷公園交差点近くの有楽門の検問で、東大全学共闘会議議長、山本義隆(29)=東大理科系大学院3年=らしい男を見つけ、警視庁に連行、調べた結果、山本とわかり逮捕した。1月20日の逮捕状請求以来7カ月、228日ぶりの令状執行である。警視庁は同日の全国大学全共闘連合結成大会で山本が議長に就任して、全国の全共闘シンパの学生を全共闘の隊列に加える役目を果たすとみて、この日は機動隊員が日比谷公園入り口で厳しい検問を行うなど山本逮捕に全力をあげていた。午前11時過ぎ日大全共闘や学生解放戦線、中核派の学生約500人が隊列を組んで有楽門から日比谷公園に入ろうとしたさい、デモ隊の隊列の横に山本らしい男がいるのを警戒中の公安刑事がみつけ、ひきずり出した。山本の容疑は@昨年12月22日、全学封鎖を目ざして数千の反日共系学生を東大本郷キャンパスに結集させ、安田講堂など占拠中の建て物に、角材、石、火炎ビンなどを持ち込ませたAことし1月10日秩父宮ラグビー場で実施された7学部集会に反対して、前日の9日、民青系、一般学生などに東大全共闘などの学生をなぐり込ませたB同15日から全国の反日共系学生、反戦青年委の労働者約3000人を東大構内に集め、18、19日の安田講堂攻防戦など警視庁の封鎖解除作戦に対し、ろう城した約700人に火炎ビン、石などで徹底抗戦するよう指示したーなどである。警視庁では全共闘シンパの知識人、学生を中心に地下援助組織をつくり、影武者を使ったり、車を使ってアジトからアジトへ移動させたりしていたとみて、今後、山本の逃走を助けたグループを犯人隠匿の容疑で追及する方針。
S44.9.5(1969)全国全共闘、デモで気勢/日比谷で結成大会警官五千人が警戒70年安保決戦に向けて全国大学の全共闘、中核派など反日共系8派の学生が統一組織をつくろうとする「全国全共闘連合結成大会」は、9月5日、東京、日比谷公園の野外音楽堂に全国約100大学、約6000人(警視庁推定)が参加して開かれる。大会を前に警視庁は午前8時50分、東京・飯田橋の全国全共闘連合書記局を3日の早大事件に関連して家宅捜索した。この大会には今年1月の東大闘争を指導し、警視庁の全国指名手配の網をのがれ潜伏行を続けていた山本義隆東大全共闘議長が全国全共闘連合議長として姿をみせ、警視庁ではこの日、学生各派間の衝突の警戒、山本議長ら潜伏を続ける学生指導層の逮捕のため、午前8時半警視庁に「総合警備本部」を設置、機動隊5000人を動員して厳戒体制をしいた。学生側は、前夜から上京組の学生を含め都内の各拠点校十数校に約3000人が泊まり込んだ。この日、東京・杉並の明大和泉校舎に泊まっていた学生解放戦線の学生約500人は、早朝から構内デモ行進、決起集会を開いた後、日比谷野外音楽堂に向かった。その他各派の学生もそれぞれ拠点校で集会を開いて気勢をあげた後会場に向かったが、各派とも警視庁の書記局家宅捜索に緊張を高めている。会場の日比谷野外音楽堂周辺には午前9時ころから赤や青ヘルメットの学生が集まりはじめ、グループごとに公園内でデモをしたり、集会を始めた。これに対して警視庁は午前8時半、庁内に総合警備本部を設置、機動隊5000人を動員して会場の日比谷公園の入り口8カ所に配備し、山本議長らの逮捕に当たったほか、会場内への角材や石、火炎ビンなどの凶器の持ち込みを警戒している。特に大会後、一部が民青の拠点の東大教養学部や革マル派の立てこもる早大などに押しかけるとの情報もあるなどハプニングも予想されるため、機動隊内に機動力のある遊撃隊″を編成、厳戒体制をしいている。大会は正午過ぎから午後5時まで開かれ、闘争中の広島、神戸、九州、東京教育、東京工業、早稲田など16大学の代表が闘争の経過、決意表明をする。
S44.9.5(1969)厳戒の中で全共闘旗上げ/一万余人が一堂に/佐藤訪米阻止を宣言"「70年安保決戦への全国学生戦線の指令部」という全国全共闘連合の結成大会は、機動隊5,000人というものものしい警戒体制の中で9月5日午後1時前から東京・日比谷公園の野外音楽堂で開かれ、全国約111大学から約11,000人(警視庁調べ)が参加した。1万人を越す反日共系学生が一堂に会したのは60年安保以来9年ぶりのことである。警視庁は同日午前8時半、「総合警備本部」を設置、機動隊5000人を会場の日比谷公園、デモコースを中心に配置、厳戒体制をしいた。特に逮捕状の出ている山本東大全共闘議長が現れると予想された会場の日比谷公園の入り口8カ所にはそれぞれ機動隊の壁をつくり、会場に向かう学生1人1人をきびしく首実検、有楽門から会場に入ろうとした山本議長を逮捕した。大会は開会直前、会場近くで逮捕された山本義隆東大全共闘議長の「全大学にバリケードを構築し、ゼネスト体制を固め、今秋の佐藤訪米実力阻止闘争など街頭実力阻止闘争へ結集しよう」という基調報告を東大全共闘代表が代読報告、結成宣言、スローガンを採択した。大会中、同連合結成に反対するグループが会場に突入するなど再三議事が中断、一応、統一戦線″は組織されたものの今後、セクト間のヘゲモニー争いを予測させる集会だった。閉会後、新宿区代々木公園へ向けてデモに移った。大会は東大、京大、広島大、日大、早大、中央大の6大学学生代表を議長団に選出、東大全共闘が「全国全共闘に結集し、10・8以降の闘争を戦い抜こう」と開会宣言。沖縄学生代表、三里塚芝山連合反対同盟の戸村一作委員長、東大裁判統一被告団がそれぞれ労学の統一戦線を訴えた。全共闘連合議長に選出されていた山本義隆議長逮捕の緊急報告が行われると、会場から一斉に抗議の声が上がった。このあと山本議長が行う予定だった基調報告を東大全共闘代表が代わって報告。その中で「全国学園闘争は70年安保闘争の一環であり、全共闘連合は9、10月に全国大学でバリケードを構築し、全学生のゼネスト体制を固めよう。個別学園闘争で結実した全共闘運動を革命的左翼学生戦線の統一運動体として、今秋の佐藤訪米阻止など街頭実力闘争へ結集しよう」と呼びかけた。大会は最後に「70年安保粉砕・沖縄闘争勝利」「11月佐藤訪米実力阻止」「大学立法発動粉砕・全国大学闘争勝利」などの大会スローガンを採択「全世界の革命的労働者と連帯して安保を粉砕する。佐藤訪米阻止に決起する」と闘争宣言を確認して、午後6時40分終わった。この間、会場近くで別個に集会をしていた赤軍派学生約100人が全共闘連合結成反対を叫んで会場に突入、会場内の社学同統一派旗ざおなどで乱闘し、議事が一時中断する騒ぎもあった。"
S44.9.5(1969)51人逮捕/あっけない幕切れ/山本議長の逮捕劇全国全共闘連合結成大会後デモ行進に移った学生約7500人(警視庁調べ)は、5日午後6時40分過ぎから虎ノ門ー赤坂見附ー表参道を経て解散地の代々木公園へ向かった。途中、青山通り、表参道で激しいジグザグデモを繰り広げた。一方、早大第二学生会館奪還を叫ぶ反帝学評、一部中核派の学生ら約1000人は、4グループに分かれて地下鉄などで早大に集結した。このうち一部は、3日に第二学生会館を機動隊に封鎖解除された早大全共闘とともに大隈講堂前に待機中の機動隊約500人に投石して衝突した。この日の集会、デモと機動隊との衝突騒ぎで山本を含め学生51人が公務執行妨害、都公安条例違反などで逮捕された。全共闘のシンボル山本東大全共闘議長の逮捕劇は、タカがウサギを奪うような素早さで終わり、潜伏7カ月の山本の逃避行は信じられないほどのあっけなさで幕切れとなった。山本は有楽町駅の方から、日比谷公園有楽門に向かった日大の中核、解放戦線の学生約500人の中に紛れ込んでいた。隊列の五分の四が有楽門の両脇に並んだ機動隊員の検閲を受けながら、静かに入園した。その時機動隊員の中にいた私服刑事が「あの男を抑えてくれ!」とどなった。指さされた男は変装用のめがねもつけず、ヘルメットもかぶらず、ほとんど表情を変えない。「日比谷交番に連れて行け」−私服刑事の声で、機動隊員に両わきから抱きかかえられた男は、交番と公衆便所の間の茂みに連行された。私服刑事が写真を取り出して首実検。「山本に間違いない!」私服刑事が叫んだ。「山本だな」と取り囲んだ私服刑事が質問を浴びせたが、男はちょっと青白い顔をこわばらせただけ。かすかに「そう思えばいいでしょう」と一言ポツリ。さすがに刑事の目は鋭く山本に間違いなかった。この間、学生の隊列は山本逮捕″を知らなかったのか、この騒ぎには知らぬ顔。ひげをきれいにそり、髪もきちんとした山本は、この日の逮捕を覚悟していたかのようだった。
S44.9.5(1969)大鶴医学部長代行かん詰め/新大全共闘 ガン学会で糾弾″新潟大学で9月5日午後、大鶴正満医学部長代行が全共闘系学生につかまり、約2時間にわたってかん詰め状態になるなど、新大キャンパスは再び荒れた。同日午後2時過ぎ、医学部付属病院前で「ガン学会粉砕」の決起集会を開いていた全共闘系学生は、集会の様子を見にきた大鶴医学部長代行を集会に引きずり込み「糾弾集会」として、つるし上げとなった。大鶴医学部長代行は、機動隊と学生がにらみ合っているとの情報で、評議会から駆けつけたもの。学生たちも「糾弾集会」は予定していないものでとんだハプニングとなった。学生たちは「学会が機動隊に守られて行われたことについて、説明せよ」と迫った。これに対して大鶴代行は「学会と教授会とはまったく別個のものである。教授会が機動隊を要請した事実はない」と説明。さらに「このような状態で君たちと話し合うことはできない」と厳しい表情で学生の行動を非難した。この間、同代行を救出しようと大学教職員が周囲を取り巻き「全共闘は帰れ」とスクラムを組んでシュプレヒコール。つめ寄る全共闘とぶつかるなど附属病院前は騒然とした。しかし同4時前に大鶴代行を解放″、ハプニングは終わった。このあと全共闘系学生は教育学部前で再び集会、全共闘に加わっている高校生グループが自治会系学生にくいつくなど暗くなるまで大学キャンパスは揺れた。なお教育学部の授業は午後から再開された。
S44.9.6(1969)新大評議会封鎖排除に「結集」せよ/自主解決へ積極策示す/全共闘は態度を硬化新潟大学評議会は9月6日、全共闘の封鎖拡大を許さないとの観点から「自主防衛、自主解除」を基本方針とする「声明」を発表。学内に結集″を呼びかけた。最高決定機関の評議会が「自主排除」を確認したのは今度が初めてであり、また学内にはいままで表面化しなかった「機動隊導入」の声も強まっていることから、新大紛争は重大な局面を迎えようとしている。評議会は5日開き、人文学部封鎖を中心に情勢分析、対応策の論議を行なった。特に「ガン学会粉砕」の全共闘の阻止行動に外人部隊″が参加していること、封鎖拡大の動きがあること、学生セクトの対立が深まっていることーなど収拾にプラス要因がなく、紛争が悪化し始めたとの意見が強く出された。このため評議会はなんらかの形で、積極的な対策を迫られる形となった。またいままで否定されてきた「機動隊導入論」を無視できないという情勢も報告された。この結果、評議会は封鎖行動は学園を荒廃に導くものであるとして@学内紛争の根本的解決は全大学人自らの手による大学改革以外ないA原則的に紛争解決の手段として機動隊の導入はしないB封鎖に対しては現時点で自主防衛、自主解除によって対応せざるを得ないーなどの方針を確認。これを声明として発表した。この中で注目されるのは、いままで機動隊導入を絶対″に否定してきた評議会が「原則的に導入″しない」と表現を変えており、情勢の変化をのぞかせている。評議会決定で、各教授会は具体的に対応策を検討、来週中にも意思統一を図ることになっている。一方、学園の敵″というレッテルを押された全共闘系学生は一段と態度を硬化させ徹底抗戦″の構え。「ガン学会粉砕」の行動を6日に終わり、封鎖個所の防備を固め「自主排除は日共・民青の策動」として本格的なゲバルト行使を主張している。自治会系学生は「全共闘は暴力集団」として一貫して「自主排除」を主張、積極的に行動する方針を固めている。
S44.9.8(1969)新大学長候補に5氏長崎明学長代行の辞令(8月28日)に伴い、新潟大学は9月18日に郵便投票による学長選挙を行うが、これに先立ち、学長候補の5人が8日決定した。選挙は教授、助教授、専任講師と、今回から選挙に加わる助手も含め770人(8日現在)の有権者の郵便投票によって行われ22日に開票する。もし過半数を獲得する候補がない場合は、上位2人の決選投票を行う。学長候補者次の通り。▽青木清氏(56)理学部教授(代数学)前理学部長、▽大鶴正満氏(53)医学部教授(医動物学)医学部長代行、▽渋谷武氏(44)教養部教授(政治学)教養部長、▽長崎明氏(45)農学部教授(土地保全学)農学部長、▽喰代驥氏(65)人文学部教授(哲学史)前人文学部長代行
S44.9.8(1969)新潟大医学部がスト解く新潟大学医学部の学部3年生(100人)は6月23日から、大学立法反対、医学部執行部打倒などのスローガンでストライキに入っていたが、8日の集会でこれ以上ストを続けることが出来ないという意見が多数を占め、ストを解除した。これで現在、ストに入っているのは、農学部農業工学科の30人となったが、教養部所属の工学部2年生と人文学部3学年も授業をしていない。工学部2年生は4月中旬にストを解除、補講を受けたが、新学期からの新しい授業については、全共闘系学生が反対しているため、始めることが出来ない状態。また人文学部では1日の学部本館封鎖で各教室の机、イスが持ち出され授業が出来ず、同学部教授会は自主排除など再開のメドがつくまで授業を中止している。
S44.9.12(1969)全共闘系、卒試受験へ/1年半ぶり/東大青医連の49人全国に広がった大学紛争の火元となった東大医学部で、9月12日から昨年春に卒業予定だった「43年青医連」組の卒業試験が始まるが、この試験には、これまで受験拒否″を叫んでいた全学共闘会議系の49人が全員受験する姿勢をとっている。この受験決定で、旧4年生の卒業試験は全部終了することになり、昨年1月29日の無期限スト突入以来1年7か月余りにわたって続いた医学部紛争に大きな区切りがつけられることになった。東大医学部では昨年3月以来、同年9月、今年3月と3回に分けて卒試が行われ、これまでに卒業資格のある118人中、日共系、一般学生など67人が受験を済ませた。今回初めて受験に応じたのは、最後まで試験ボイコットを続けていた徹底抗戦組″の49人(ほかに長欠者2人が残っている)。昨年6月の第1回安田講堂占拠以来「登録医制度反対」「医局解体」などを主張、東大全共闘の先頭に立って活動していたメンバーが大部分で、この中には東大事件で警視庁に逮捕され、現在なお拘留中の今井澄東大全共闘元議長ら全共闘のリーダー3人も含まれている。ただし3人の受験については、医学部教授会有志が東京地裁に「受験のため保釈を許可してほしい」と申し入れていたが、11日現在、裁判所からの保釈決定はなく、受験実現は望み薄だ。こうした動きに対し、日共系が握る現医学部学生自治会系の学生は「彼らがいまになって受験するのはスジが通らない」と非難の声明を出している。しかし東大全共闘に近い学生たちは「運動から手を引くわけではなく、医師の資格を取ったうえで青年医師連合の中で医局内の闘争をしていくのだ」と反論している。東大では、昨年9月「42年青医連」の大半が国家試験に応じており、今度の「43年度青医連」の受験決定で、医学部紛争は表面上は一段落した形になる。しかし、今度受験する全共闘系学生は、今後もことし3月に結成された東大統一青医連を足場に「医療改革、医局解体のたたかいを進める」構えを見せている。
S44.9.18(1969)新大人文学部封鎖の学生/校舎をこわしてバリケード強化人文学部本館封鎖で、同学部教授会、職員は封鎖自主排除の方針を決め、ここ数日間小規模な排除行動を続けているが、全共闘系学生は9月17日夜、排除に備えて屋根や壁をこわし防衛体制″をつくった。このため同夜の人文学部キャンパスは異常な緊張に包まれ、全共闘系学生と教職員の間に険悪な空気が流れている。全共闘系学生は同夜8時ころから、本館左わきの3つの通路にかかっている屋根をこわし始め、カワラなどを中に運び入れた。また左側面の壁に大きな穴があけられ監視窓″投石窓″?が作られた感じ。このため自主排除しようにも、バリケードには容易に近づけない状態となった。学部側では非常時″ということで教職員を動員し警戒、さらに学生の行動を制止するため説得に出たが、完全武装″の学生たちには近づけないありさま。学生たちはさらに別むねの研究室に向かって投石、電話線を切断した。数時間の混乱の末、ようやく双方に休戦″が成立し、学生たちは引き揚げた。この事情に対して教官側は困惑した表情だが「自分たちの学生とは思えない。学外から封鎖を手伝いに来ているのでは・・・」といった声も出ている。また校舎の破壊が行われたのは今回が初めてで、学生たちはますます行動をエスカレートさせている。
S44.9.19(1969)まさに重症″新大人文学部/武装″に歯が立たず/多い無関心全学結集″道遠しぶち抜かれた厚い壁、はぎ取られ、すっぽり抜け落ちたわたり廊下の屋根ー新大人文学部本館に学府″のイメージはもはやない。その破壊の跡からは紛争の重症″ぶりが伝わってくる。大学法施行から一カ月。紛争リスト″から消える大学が多い中で、新大紛争は混迷の色を深めている。現在紛争の焦点は人文学部。学部本館の封鎖で打撃を受けている各教室から机、イスが300個近く持ち出されているため、物理的に授業は行えない。教授会は再開不能という判断から「授業中止」の方針を出した。一方、封鎖拡大に対して大学評議会は「自主排除」を決定、全学に呼びかけた。同学部教授会も「自主排除」で正常化を目ざし、13日から3回にわたって教官、職員による小規模な排除を試みてきた。しかし占拠の中心部隊になっている中核、ML系学生の抵抗は激しく、教官がけがをし、校舎がこわされる結果となった。さらにトロツキストグループとみられる過激な学生や学外からの指導者?なども登場してきたといわれ、「全国レベルの紛争状態」という声も出ている。同学部では比較的波乱がなく、教授会は各学部のの中では先進的″といわれてきた。このためか教官の間では、今回の封鎖について「全く封鎖される理由がない」といった声が圧倒的。自主解決の姿勢を示し人文学部方式″を成功させようーという主張が大勢を占めてきた。しかし完全武装″の全共闘系学生に対して無防備の状態で当たる自主排除は大きな危険が伴い、ガス、水道、電気を止め兵糧ぜめ″で孤立させるという試みは半ば成功しながらも、封鎖学生の強硬な反撃を受けている。「オレたちを大学から追い出すつもりだ」と叫び、ヘルメット覆面姿の学生たちは行動をエスカレートさせるばかりだ。これには自主排除に動き出した教職員も完全に手を焼いた感じ。学内では人文学部の動きに対し、「自主排除は実験的なもの。その結果は大学側の今後の姿勢に影響を与えることになるのでは・・・」という指摘があり、自主排除の成否を注目する人たちも多い。ただ具体策の伴わない大学執行部の「自主排除決定」には批判もあり、宙に浮いた感じ。一方、教官、学生層とも無関心が多く、全学的意思結集″はほど遠いようだ。この中で人文学部は重症学部″の道をたどり始めている。
S44.9.20(1969)新大全共闘教養部校舎も封鎖/過激行動エスカレート紛争の続く新潟大学で9月20日未明、教養部校舎が一部の全共闘系学生によって占拠、封鎖された。この封鎖で、同大学の封鎖は7カ所に拡大。特に夏休み明け以来、人文学部本館封鎖など全共闘系学生の行動はエスカレートしており、紛争は深刻な事態を迎えている。20日午前3時半ころ、ヘルメットなどをかぶった全共闘系学生約15人が新潟市西大畑の教養部プレハブ校舎に押しかけ、約1時間にわたって校舎1棟(3教室)を机、イスでバリケード封鎖した。このため隣接する別棟の校舎(3教室)も机、イス400個近くが持ち出され、使用不能の状態。教養部ではこの日同校舎で行われる予定だった11の授業を全部中止し、その他の教養部授業も休講が続出した。教養部では同キャンパス内にある事務室、教官の研究室が4月16日以来に封鎖されているが、工学部教養自治会のスト解除で、教室は開放され教養部所属の1年生の授業は平常に行われていた。同部では緊急教授会を開き、対策を検討しているが、一両日中の授業再開の見通しは暗く、今後の影響が心配されている。この封鎖を行なった学生たちは、全共闘系の中でも過激派グループとみられており、人文学部封鎖に続く行動らしい。早朝から学内にまかれているアジビラでは「一般学生への戦闘の招待状」と書かれており「主体性を失い埋没している学生は11月決戦″にすべてほう起せよ」と呼びかけ、校舎を封鎖することによって一般学生にショックを与えようとしたものらしい。また「新大解体」「正常化粉砕」などを主張。新しく全学バリスト実行委員会を結成していることから、さらに過激な行動をとることが予想されている。
S44.9.22(1969)新潟大学長選全候補、過半数とれず/長崎、喰代氏決戦へ異例の郵便投票で行われた新潟大学長選挙は9月22日開票されたが、5候補のうち有効投票の過半数を占める候補がないため、改めて24日、長崎明教授(農学部)、喰代驥教授(人文学部)の上位2候補(五十音順)によって郵便による決選投票が行われる。同日午前10時から行われた開票の結果は、有権者763人のうち投票総数709票、無効67票だった。しかし過半数の322票を獲得した候補がなく、決選投票に持ち込まれることになった。投票は、24日前回と同様に書留郵便で行われ、開票は28日。大方の予想通り、長崎、喰代両教授による決選投票となった。ズバ抜けて支持を得る候補者がいない半面、5候補とも学内にそれぞれの評価があり、支持層は分散したようだ。これはまた全学的な意思統一が難しいという複雑な学内情勢を反映しているともいえる。ともかくも学長代行としての手腕を評価されたと思われる長崎教授と、人文学部の強い支持を得た喰代教授が浮かび上がった。2教授とも再建会議を重視しており、改革路線の推進役としての色彩が強く、いずれが選出されても今後の同大学の方向が大きく変わることはないとみられる。
S44.9.27(1969)反戦高校生が単独デモ/新潟さる8月結成された新潟反戦高校生共闘会議は9月27日午後3時半から新潟市の県庁前で、文部省指導手引き書粉砕、三里塚空港粉砕勝利、各校不当処分撤回をスローガンに県高校生総決起集会を開いたあと市内をデモした。県下で高校生が独自で集会、デモったのは初めて。この日の決起集会に新潟高校、明訓高、新潟南高などのほか三条高からも参加、赤、白のヘルメットに手ぬぐいの覆面という大学紛争を思わせる服装。30人余が県庁前広場にすわり込み、スローガンのほか安保粉砕、佐藤訪米阻止などを訴えた。集会の周囲には、通りがかりの一般市民、一般高校生ら5、60人が傍聴。また高校教師たちもこの集会を複雑、深刻な表情で見つめていた。集会のあとヘルメットの学生と新潟ベ平連の一行は市中デモに移り、東中通りー西堀ー古町ー東堀ー県民会館のコースを行進した。このデモに県機動隊1個小隊が出動、一部で小ぜりあいもあったが、大きな混乱もなく県民会館前で総括集会を行なって6時過ぎ解散した。
S44.9.29(1969)新大学長選長崎代行が当選/決選投票319票を獲得決戦になった新潟大学学長選挙の開票は9月28日午前10時から行われ、長崎明学長代行が予想通り過半数を獲得、第6代学長(予定者)に選ばれた。このあと引き続いて大学協議会が開かれ、長崎代行は「農学部教授会の承認を得たい」と受諾を保留した。しかし「過半数の支持」を得たということから、きょう29日にも同代行が学長就任に同意することはほぼ確実であり、新大は新長崎体制″のもとで、紛争解決、大学改革を進めることになりそうだ。この日の開票は、大学側が全共闘系学生の妨害もありうるとして会場を市外に移し、極秘のうちに行われた。24日、選挙権のある教授、助教授、講師、助手763人のうち657人が書留郵便によって単記無記名投票した結果、長崎代行が有効投票584票のうち319票を獲得、次点の喰代驥教授は265票だった(投票率は86.1%)。退陣を表明していた長崎代行が一応過半数を得たということは、代行としての手腕、改革路線が評価されたとみられる。しかし決して批判票もないわけでなく、今後にも難問が山積みされていることから、前途は決して明るいものではない。長崎代行が就任受諾を保留したのは、出身学部である農学部内に「学部長不在では学部運営に支障がある」「研究室の大勢にアナがあく」などの声があり、それが代行辞任の大きな理由でもあったことから、この点を学部側と話し合うためとみられている。だが長崎代行が就任を断った場合、後任をめぐって大学側が混乱することが予想され、最終的には就任を受諾するものとみられる。ただし長崎代行の退陣表明にあるように、新学長は現在再建会議で検討を進めている新しい学長選挙制度が決まるまでの暫定学長とし、新制度が出来た時に改めて選挙をすべきであると指摘されていることから、大学改革を任務とした臨時学長″の性格が強い。しかし「学長選挙制度の改革は、大学改革のゴール″である」と長崎代行自身が語っていることから、当分、長崎体制″によって紛争解決、改革が行われることになりそうで、積極的な改革のメスがどう振るわれ、新大の体質がどう変わるかが注目される。
S44.9.29(1969)やる気十分長崎新学長″/「教官自ら大学改革を」/長期的見通し立てたい新大の学長選は、決戦投票にもつれ込み、ようやく長崎明学長代行(農学部長)の当選″を決定した。しかし新大キャンパスの反応はほとんどゼロ。日曜日のせいもあるが、大学側が「全共闘系学生が新潟市内で集会を開いている。集会が終わらないうちに公表すると学生たちがなだれ込んでくるかも・・・」と、公表を遅らせたためもあった。郵便投票といい、学外での開票、タイミングを考えての公表といい、全く異例ずくめ″の選挙だった。長崎代行が記者団の前に姿を見せたのもようやく午後4時半になってから。しかし長崎学長代行は、学長を引き受けるかどうか一応保留″したもののやる気十分″の姿勢を見せた。−学長を引き受ける態度を保留したのか。「代行辞任のいきさつ(農学部が学部に帰ってきてほしいと望んでいることなど)もあり、私一存で引き受けるかどうかは決められない。農学部教授会の承認を得なければならない。あす(29日)中には態度を決める」−代行自身は引き受ける気持ちがあるのか。「過半数を得た(有効投票584票中319票の得票)ことでもあり、ぼく自身としては引き受けざるを得ないと思う」−1回目の選挙では票が5人の候補に割れ、当選が決まらなかったことなどをどう評価しているか。「選挙の所信表明のさい、自分の能力、あるいは農学部長としての立場を考え、許されるなら学長になりたくない″としておいた。にもかかわらず最終的には過半数を得たということは、楽観論かもしれないがかなりの支持があったことだと思う。1回目の選挙で票が散ったことはそう気にしていない」−代行から正式学長になったことで政策の変更はありうるか。「今までも、代行だから正式学長より軽い″とは考えずやってきた。同じ人間がやることであり、代行の字が取れただけで政策が大きく変わるとは思わない。しかし代行はあくまでも暫定的なもので遠い将来を考えた方針を出すことは難しかった。しかしこれからは正式学長である以上、もう少し長期的な見通しをもった方針を出したい」−長崎路線とは何か。「これが自分の特徴だとはっきり打ち出すことは、ぼくの性格としてできない。ごらんの通りです″といわざるを得ない。しかし、再建会議を中心に教官自らの手で大学改革をするという方針ではある」−9・5評議会声明(自主解決、自主排除、原則として機動隊を導入しない、など今月5日の評議会で決められた)のときもそうであったように、一般に学内の反応は鈍いようだが・・・。「反応はそう早く出るものではない。9・5評議会声明は、転機を迎えるための長期間展望を示したもので、反応はこれからの問題だ」−新大紛争をどう見ているのか封鎖個所も増えているが・・・。「確かに封鎖行動を見ていると表面的には紛争はエスカレートしている。しかし一般学生には授業を受けたい、研究をしたいという空気は強く、しかも着実に授業は行われており、学内はぼくが代行になった時(ことし3月)よりは落ち着いている。しかし一方では、非正常の状態で主張を訴えようという空気もあり、学生間の断層が出ていると思う」会見は約20分。「まだ正式に学長を受けたわけではないから」と慎重な発言だったが、ことばの端々にやる気十分″の気組みがうかがえる。「いろんな人から、おそらく当選するだろう、といわれ、ぼくもそんな気で過ごしてきた・・・」と自信のほども語っていた。
S44.9.29(1969)新潟大長崎新学長が所信/全学統合固執せず新潟大学の長崎明新学長は9月29日午前記者会見し、学長を正式に受諾したことを明らかにし、所信を表明した。その内容は、大学紛争問題、統合移転問題、大学臨時措置法問題など広範にわたったが、全般的に話し合い路線が貫かれ「大学改革は大学人自らの手で行われるのが原則であり、紛争解決の道は大学人1人1人が大学問題の重要性を認識し、自らの意識を変革するという基礎に立って粘り強く続けなければならない」ことを重ねて強調、「機動隊の導入は軽々しく行うべきではない」ことを明らかにした。また統合移転問題については「全学統合に固執しない」と述べ注目された。【大学改革】現在の管理運営・研究・教育体制は戦前のものを受け継いだものであり、評議会、協議会、教授会も審議機関か執行機関か性格がはっきりせず、責任の所在もわからない。これが大学紛争の原因でもあり、解決を遅らせている理由でもある。そこで第一線の教官、職員、学生の意志が反映される組織作りが必要である。大学改革は大学人自らによって行われるのが原則で、政府、文部省はそれを誠実に見守る態度であってほしい。具体的には文教予算を増加し、研究・科学技術のレベル・アップをはかることが必要だ。【紛争解決】全大学人の1人1人が問題の重要性を認識し、自らねばり強く続けたい。一部学生のように、ことさら古い体質、行政機構をこわすために大学解体を叫ぶのは慎んでほしい。それは大学人による改革を阻止し、学外からの介入の口実を与え、大学の崩壊を招くものだ。【学生の政治闘争】学園を拠点に学外に出ていく以上、いわゆる学園紛争ではなくなる。社会秩序を乱し、世論が市民社会行動として認めることが出来なければ大学としても何らかの対策を考えなければならない。【機動隊の導入】大学の歴史を踏まえ、将来に禍根を残さないようくれぐれも注意するため、軽々しく機動隊を導入すべきでない。【大学臨時措置法】本学が法でいう紛争校であるかどうかを見きわめるためにも紛争とは何かという本質論が必要になる。したがって文部省が紛争報告を求めてきたら、まず法であるが、紛争校かどうかの議論をし、また紛争校の命題に照らして全学の意志を聞く。【統合移転】2・7統合計画白紙撤回は「全学統合ということにしばられないで再検討しよう」ということだと解釈している。全学統合出来ないから移転しないというのはおかしい。また各学部が勝手に移転すべき問題でもない。各学部の性格を見きわめ、性格のあったものをまとめ、年次計画で進むべきだ。そのために学部のセクト主義を生まないようにしなければならない。
S44.10.4(1969)新大医学部共闘会議を結成/医局講座の解体へ新潟大学で10月4日、学生、青医連一部研修医、一部教職員などが参加して「医学部共闘会議」が正式に結成され、その結成大会が同日午後1時過ぎから同学部第四講義室に約80人が集まり開かれた。同会議は今年6月「医局講座制解体」などをスローガンに、学生を中心にして結成準備会がつくられていたものだが、今回同学部の各層が参加し、同会議が正式に発足したことで、医学部紛争は新局面を迎えるものと思われる。結成大会では昭和38年以来同学部で起きた医学部闘争″のまとめが行われ、今後の闘争方針が出された。この中で同会議は、現在の医療を根本的に改革する必要があり、そのためにも大学医学部を否定する医局講座制解体を主張し、無意味な暴力は避け、政治ストを当面の目標にすることにしている。
S44.10.7(1969)新大工学部2年生/大詰め迎えた長岡移行″/全員留年の可能性/教授会が近く結論出す/全共闘、強く反発新潟大学教養部の一般教養課程にいる工学部2年生(392人)の長岡移行問題(専門移行)が大詰めを迎えている。単位を取り残したまま長岡での専門課程に移るか、それともこのまま全員留年かーもし留年ともなれば来年の入試にも影響する。教養部、工学部両教授会とも検討を重ねて近く結論を出す見通しだが、全共闘系学生の強い反発もあり、新大紛争の大きな焦点になっている。従来工学部に入学した学生は、教養部(新潟市)で1年半授業を受け、前期試験の終わる10月中旬から長岡市の工学部専門課程に移行することになっていた。ところが学生たちの参加する工学部教養自治会(工教自)は昨年11月25日からストに突入した。今年4月にストを解除、スト中の補講を受けるなどして1年生の単位を一応習得し、2年生に進級したが、スト解除もつかの間、全共闘系学生の反対で授業の出来ない状態がズルズル続き、残り半年間の一般教養の授業は全く行われていない。この間、教授会と全共闘との団交″は粉砕″され、全共闘系学生は工学部教養共闘会議を結成して「授業再開阻止」の構えを続けている。10月いっぱいがタイムリミットといわれている長岡移行問題はこうして大詰めを迎えた格好。現在考えられている方策は@習得単位数(57単位中18単位)が不足なので全員留年A不足分の単位は長岡へ移ってから補講などでカバーする、の2つという。教養部教授会はどちらに結論を出すにしても、いままでの全共闘との話し合い路線″をここで問答無用″の恰好で切り捨てることはできないとして、討議資料を作成して話し合いに解決の糸口を求めている。一方、工学部教授会は、ことし5月、他学部の教養課程の学生が「残りの3年間で不足単位を習得する」という方法で、それぞれ専門課程に進級したことから、工学部の学生にも適用し、全員を受け入れたいとの意思決定をしている。また同教授会が、学生にアンケート調査したところ、回収した270人中約90%が長岡移行を希望したというが、学生たちはこの希望を学生大会の決議など具体的な行動に現わさず、一般学生のノンポリぶりは教官たちを嘆かせている。
S44.10.8(1969)全国全共闘が中央集会11月の佐藤訪米阻止をめざす全国全共闘連合は、10月8日午後4時半から東京・日比谷公園野外音楽堂にヘルメット姿の学生約2000人(警視庁調べ)が参加して中央政治集会を開いた。この日の集会には11月決戦″での武闘を叫んでいる「全国全共闘軍団」の旗も初めて登場した。同軍団の組織は中核派を主力部隊に都内に4軍団、千葉、埼玉、神奈川にそれぞれ第5、6、7軍団を配置されているという。全共闘連合は10日の「佐藤訪米阻止労学大統一集会」(東京・明治公園)に約1万人の動員を予定しているが、これを最後に合法的″な集会やデモはいっさい予定せず、21日の「国際反戦デー」から1カ月間の決戦″に突入する方針。
S44.10.9(1969)ゲバルトの秋″幕あけ/あす新左翼一堂に/下旬には「反戦闘争」首相訪米阻止へ必死あす10月10日はゲバルトの秋″の幕あけ。反日共系各派、ベ平連は左翼勢力の勢ぞろいをねらい、東京・神宮外苑の明治公園に約3万5000人の学生、労働者、市民を集めて、統一集会を開き、赤坂、銀座、東京駅前と都心部を半周する大デモンストレーションで気勢を上げる。9月中に全国全共闘連合の旗上げ、反戦青年委の全国組織の再建と組織固めを終えた反日共系各派はこの日を皮切りに、21日の「国際反戦デー闘争」、11月13日の総評系反安保ストでの同時決起と首相訪米阻止闘争に向け、死に物狂いの武闘路線″を突っ走る構えだ。しかし治安当局は反日共系各派が「6・15方式」の人海戦術にゲリラ闘争を加えて警察の出方をみる作戦と警戒、制・私服警官1万人という4・28闘争に次ぐ最大規模の体制で徹底的に規制する姿勢を固めている。この日の集会は「10・10実行委」を構成するベ平連、反日共系8派のほか、最近、孤立を深めている革マル派も加えて約390団体、「ゲバなしだが、各派の行動は拘束しない」という約束で、当初、予定していた羽田闘争2周年の8日を2日ずらせて「体育の日」の休日をあてこみ、労働者、市民の最大限動員を狙う。正午ごろ、学生、高校生、反戦青年委、ベ平連など市民、文化団体が明治、日比谷、代々木、清水谷の都心周辺4公園でまず分散集会。このあと明治公園まで参加デモが始まり、さらに万を越すデモ隊が都心に向かって繰り出す趣向で、電車がなくなる深夜までデモの人波であるれる。また最過激の赤軍派はゲバなしパレード闘争を「膨大なゼロ」と非難、神田などで火炎ビン闘争を狙っている。警視庁はこの日の平和デモ″について「機関紙や政治集会で機動隊粉砕を呼びかけている反日共系各派がいまさらゲバなし″を宣伝するのは、隠れミノに過ぎない」とゲリラ戦術を強く警戒、@国会、首相官邸付近のデモは許可しないA都心部、新宿、渋谷、神田などにはゲリラ対策部隊を置くB「6・15」のようなフランスデモ、すわり込みは徹底的に規制するーという強い態度を示した。またこの日は都内全署員を待機させ、関東管区機動隊約700人も東京都内に初めて応援出動する予定である。
S44.10.9(1969)新大新校舎/学園の混乱よそに?工事は順調相変わらず混乱状態の続く新大紛争。その一方で新潟市五十嵐地区の新校舎建設は順調?に進んでいる。6カ月前、3月末日のタイムリミットをめぐって大荒れに荒れた理学部着工問題は、今紛争の争点から消えている。だが、もみくちゃの洗礼を通り抜けたあと工事は急ピッチ。A棟(とう)は5階建てのコンクリート打ちも終わり、隣のB棟もすでに基礎工事が済んで、いよいよ天に伸びようとしている。「全く予定通り進行しています」と現場事務所の話。来年2月(A棟)と3月(B棟)にそれぞれ完成することになっている。公害渦巻く都市部の人間が忘れてしまった赤とんぼがスイスイと飛び、切り残された松の緑が回りを取り巻く。新しい学舎、カンカンと作業員の打つツチの音が秋空にこだまする。前方に広々と延びる大根畑。その先の海岸側の道路から望むと教養部校舎、食堂、体育館、それに建設中の理学部校舎がかさなり合って並び、すでに新しいキャンパスの形を整えている。
S44.10.9(1969)自民合同会議 安保「長期継続」決める/原案を前回一致で/川島副総裁「70年代後半まで維持」/14日に党議決定へ自民党は10月9日午後2時から東京・永田町の党本部で愛知外相の出席を求めて、外交調査会(会長川島副総裁)安保調査会(会長船田中氏)沖縄問題対策委員会(委員長臼井壮一氏)の合同会議を開き、日米安全保障条約の「自動継続」の方針を決めた。同方針は14日の総務会で党議として正式に決定される。9日の合同会議では日米安保条約の自動継続について異論はなく、全会一致で原案を了承した。自動継続の方針は@日米安保条約は激動する国際情勢の中にあって、わが国の安全と平和を確保するため重要な役割を果たしているA現下の国際情勢、特に極東情勢はにわかに緊張緩和の見通はないB国連の平和維持機能が十分でない現状では、日米安保条約は相当長期にわたり維持することが必要であるC非武装中立論は、わが国の安全を根底からゆるがし、平和を脅かすもので断じてとらないーなどの点を明らかにし、1970年以降も相当長期にわたって、日米安保条約を継続することを明らかにしている。現行の安保条約は、来年6月23日午前零時で期限を迎えるが、佐藤首相の11月訪米を前にして、特に同条約の長期維持″を打ち出し、米国側の沖縄返還に伴う軍事的要請にこたえることになった。また、長期継続の期間については、相当″と抽象的表現を用いたが、川島副総裁は合同会議後の記者会見で「相当とは4-5年という短期間ではなく、70年代の後半まで含むという意味を持っている」と述べた。これにより日米安保条約の長期固定延長論″はじめ各種の意見があった自民党内の安保論議は「自動継続」の方針のもとに統一されたことになり、佐藤首相もこの方針を背景にして、11月訪米に臨むことになった。同日の合同会議では、日米安保条約の自動継続と並行して、沖縄返還問題、核防条約の調印についても意見を交換した。しかし、沖縄返還交渉については、先の合同会議に出席した愛知外相の訪米帰国報告を基礎に検討した結果、日米両国間で未解決のうえ微妙な点もあるので、11月の佐藤首相とニクソン米大統領との会談に、政府がフリーハンドを持つことが必要だとの判断をくだし、首相訪米前に特に党議決定はしない方針を決めた。また核拡散防止条約の調印、批准問題について愛知外相は「米、英両国およびソ連から日本が早期調印するよう要望があり、私もなるべく早い機会に調印すべきだと思う」と要請した。このため先に外交、安保両調査会から政府に提出を要望している核防条約に対する政府見解″を基礎に、11月早々にも両調査会の合同会議を開いて検討を進めることを申し合わせた。
S44.10.9(1969)自動継続許さぬ/野党4党、抗議の声明社会、民社、公明、共産の野党各党は、自民党が日米安保条約の自動継続を決定したことに対し、10月9日それぞれ声明、談話を発表、自動継続に絶対反対の態度を表明した。▽社会党声明:1、自民党の安保自動継続決定は実質的には政府の決定であり、これは日本国民が70年に自らの平和と安全について選択の自由を取り戻そうとしているときに、国民をつんぼさじきに置いたまま、再び自らの手を縛ることにほかならない。1、自民党は極東の緊張が続くことを前提に安保継続を正当化しようとしているが、安保条約という軍事同盟こそ、あらゆる緊張を生み出し、激化させる原因である。1、日本の平和と安全を維持できたのは安保のためではなく、危険な安保があったにもかかわらず、平和憲法と非武装中立を支持する強力な安保反対の世論と運動があったからにほかならない。1、政府、自民党のいう安保自動継続とは、沖縄返還交渉で暴露されたように、事前協議の弾力的運用、本土の沖縄化による改定延長、すなわち新安保の締結である。今日、国民に迫られているのは、安保条約のアジア安保、核安保への拡大強化を阻止して同条約を廃棄し、沖縄の即時無条件返還を勝ち取ることであり、国民が選択すべき現実的政策として、わが党は重ねて非武装中立を提唱する。▽民社党曽祢外交委員長談話:1、自民党の自動延長方針は断じて容認できない。今回の決定の実質は現行条約の長期固定化にほかならない。このような態度は70年代にかけわが国の今後の平和外交路線、安全保障体制の硬直化を招き情勢の変化に即応する弾力的姿勢の選択を不可能にする。1、自動延長の措置は国民の大きな問題になっている基地問題やいわゆる極東条項など現行条約の矛盾の解決を全く放置している。1、日米安保条約に対するこのような安易な態度は、結局日米間の正しい協力関係を損ね、いたずらに反米闘争を台頭させることになり、国論の分裂を助長する以外の何物でもない。1、民社党はこのさい、政府自民党に対し自動延長の再検討を強く要求する。民社党の主張する安保改定方針は国民の多くがこれを支持している。来年6月の改定期にかけ、安保改定の国民運動を精力的に展開し、政府に改定の実現を迫る決意である。▽公明党矢野書記長談話:1、自民党の決定は、実質的には安保条約の半永久的な長期固定化であり、早期解消を強く求める国民の意志を無視するもので絶対反対である。1、この決定は極東核戦略の一翼となっている安保体制の危険をますます増大させる。米軍の基地と駐留は半永久化し、沖縄返還交渉にみられるように、自由発信を認めた事前協議制度の空洞化、有事核持ち込みないし核隠しによる非核三原則の形骸化がさらに進められることになる。また防衛力増強、共同防衛義務も強化されることになり、アジアの緊張激化に拍車をかけ日本の平和と存立に危険を及ぼし、日本の将来にとって重大な誤りとなろう。1、わが党は日米安保体制反対の立場に立ち、安保の段階的解消、等距離完全中立を主張しているが、これこそアジアの平和と安定に最も寄与する道だ。▽共産党米原中央委幹部会員談話:1、自民党の党議最終案は、70年問題に関し、政府・自民党が最も侵略的、反動的選択を最終的に行ったものだ。1、この案はベトナム侵略戦争の長期化や朝鮮への軍事挑発の激化を予想して本土を沖縄化し、アジア反共問題の中枢に日本を据える狙いであり、安保条約の事実上の反動的改憲にほかならない。1、今すべての政党は安保条約の延長を認めるか、廃棄通告を行う立場に立つかの態度を明らかにすべきだ。わが党は日米軍事同盟のいかなる形の継続にも断固反対し、安保廃棄、沖縄全面返還実現のため、全民主勢力の持続的共闘と統一戦線の結成の緊急性を重ねて全国民に訴える。
S44.10.10.(1969)秋の街頭闘争″火ぶた/新左翼44カ所で統一集会反日共系各派、ベ平連など秋の安保決戦″を叫ぶ新左翼勢力はきょう10月10日午後、「ベトナム反戦、安保粉砕、沖縄闘争勝利、佐藤訪米阻止、羽田闘争2周年10・10統一集会」を開き、街頭闘争の火ぶたを切った。主催者側の予定では学生、労働者、市民約10万人、ゲバなしデモの人波で都心部を包み込む作戦だった。これに対し東京都公安委は9日、申請のデモコースのうち国会周辺、米国大使館前の通行を禁止したうえ、東京駅八重洲口までのデモを日比谷公会堂で打ち切るよう路線変更した。そのため秋の武闘開始を主張する学生各派は平和デモ″への参加に主眼を置かず、ゲリラや群衆かく乱戦術を強める可能性が高まり、警視庁では9日夜から最過激の赤軍派、中核派の動きを追うため、多数の私服捜査員を動員するとともに、火炎びん、角材などの武器を隠しやすい公園、寺社などを一斉検索、厳戒体制を取った。警視庁は、この日の最大動員を革マル派を含む反日共系学生13300人、反戦青年委4000人、ベ平連など市民文化団体20000人、高校生1000人、計38300人程度と予想。反日共系各派はこの日、ゲバ慣れした活動家を全共闘のノンセクトラジカル、大学ベ平連など秋の闘争に参加する新兵集団″の中に分散させ、10・21国際反戦デーから始まる11月決戦″のリハーサルを狙っているとみている。この日の警備方針は、制、私服警官1万人を動員して、違法なデモ、火炎びんなどによるゲリラは、1人でも多く逮捕する検挙第一主義″を徹底させ、またデモ隊が交通の妨げにならないよう、場合によってはデモ集団の時差出発″や機動隊による寸断など、臨機の措置で警備側も70年安保・秋の陣″を本格的に展開する。警察庁の調べによると、この日集会が予定されるのは、21都道府県44カ所、約45000人で、東京のほか関西では午後1時からの京都・円山公園の「10・10全関西労学市民総決起集会」(約2500人)が規模が大きい。この集会は全関西の反日共系学生が主体。四条河原町から京都市役所までデモ後、立命館大の再封鎖や同大学周辺での解放区闘争の情報もあり、警備当局は厳戒している。このほか札幌800人、名古屋500人など反日共系学生の集会デモで一波乱は免れない形勢だ。
S44.10.10(1969)新潟大紛争さらにエスカレート/全共闘の2派教育学部を封鎖/自治会系押しかけ緊迫/封鎖10カ所に反日共系各派の「ベトナム反戦、安保粉砕、沖縄闘争勝利全国統一行動」の行われた10月10日、新潟大学教育学部で、一部の全共闘系学生が自治会系学生の逆封鎖″の続く同学部に押しかけ、バリケード奪還″を叫んで突入、全館を占拠した。前日の10月8日夜にも人文学部別館の3教室が教養部闘争者連合の学生によって封鎖されており、この結果、新大の封鎖個所は10カ所に拡大、紛争は深刻な局面を迎えている。この日、教育学部前広場で行われた統一行動の総括集会のあと、午後5時半過ぎから集会に参加していた同大全共闘の中核、学生解放戦線(ML派)両派学生約20人がゲバ棒、テントの支柱などで完全武装″、同学部正面玄関から自治会系学生が築いたバリケードに突入、十数分間で机、イスを撤去した後、館内に押し入った。この間中にいた教職員、女子学生ら約50人はようやく裏口から脱出″、自治会系学生はほとんど姿を見せなかったため心配された流血騒ぎはなかった。学生たちはこの後、再び校舎をバリケードで封鎖し、占拠した。これで今年2月21日から始まった全共闘系学生による封鎖は、大学本部、教養部事務室、研究室、教室、農学部本館、人文学部本館、教室、医学部第一、第三内科研究室、教育学部全館の10カ所に拡大した。このため新大の新潟地区各学部は理学部を除き、全ての学部がなんらかの形で封鎖されたことになる。教育学部の封鎖は全館に及んでいることから授業に支障が出ることが予想される。同学部では9月3日、全共闘系学生の封鎖拡大を警戒した自治会系学生が自主防衛のため、逆封鎖″を続けていた。これに対して中核、ML派学生は同学部奪還を計画、学内にうわさとして流れていた。しかしこの日の封鎖はほとんど予定されていなかった行動といわれており、学部側でも警戒を緩めていた矢先。自治会系学生も4年生の大半が教育実習で学外に出た後で、無防備といえる状態だった。封鎖に対して同夜自治会系学生は総決起、約150人がヘルメットで武装、「封鎖排除」を叫んでバリケード内の中核、ML派と対決。バリケードの学生たちは玄関の屋根や窓から石や牛乳ビンを投げて、寄せつけまいとしている。これに対し自治会系学生たちは、立て看板をタテにして投棄物を避けるなど、深夜まで抗争を続けた。同大では、前期試験の終わった後、1週間の秋季休暇に入っており、封鎖による授業への影響は当面は心配されていない。しかし、封鎖が続けば休み明けから、相当の支障が出ることが予想され、また大学側の「自主排除、自主防衛」の方針が具体的に浮かび上がってくることも考えられる。
S44.10.11(1969)人文学部教職員集会/全学に訴えるパンフレット人文学部教職員集会は「人文封鎖とわれわれの立場」と題するパンフレットを作成した。約2千2百字で「封鎖という公然たる暴力に対して沈黙することは、みずからの権利の放棄である。現在進められようとしている大学改革の道程において、この封鎖がどのような意味を持つかを考え、封鎖糾弾の声を上げるよう訴える。この声の高まりの中で大学改革の展望は保障され、そして自主解決を可能にする条件が満たされるであろう」と全大学の教職員、学生に訴えている。同学部では来週にもこのパンフレットを討議資料にしてクラス討議を開くことにしている。
S44.10.11(1969)新大紛争自治会系が実力で封鎖解除/教育学部など3カ所/十数人重傷流血の衝突繰り返す/大学側は静観全共闘系学生の封鎖拡大で緊迫を続けていた新大で、10月10日夜から11日未明にかけ、封鎖解除に出た一般学生を含む自治会系学生と、全共闘系学生が真っ向から衝突、双方合わせて十数人の重軽傷者が出、火炎ビンの飛ぶ悲惨な内ゲバを繰り広げた。この結果、数にまさる自治会系学生は11日午前3時過ぎ、教育学部、人文学部、教養部の封鎖を次々に解除、封鎖個所は大学本部、医学部第一、第三内科研究室、農学部本館の4カ所に減った。同大学での本格的な内ゲバは今回が最初であり、新大紛争は新局面を迎えている。また大学執行部は最後まで「機動隊導入」を避け、静観″する結果となった。両派学生の内ゲバは、全共闘中核、ML(学生解放戦線)派学生の教育学部バリケード封鎖をきっかけに起きた。自治会系学生の拠点学部が封鎖されたことで、同派学生約250人は総決起。10日午後7時すぎから学内に集結、全共闘系学生に対抗するためにヘルメット、覆面、ゲバ棒で完全武装″。新潟市旭町の教育学部に押しかけ、バリケードにこもる中核、ML系学生約20人との間で投石を始めた。同11時すぎには、両派学生の衝突は次第にエスカレート。同じ全共闘系だがそれまで静観していたフロント系など各派60人も応援、参加。11日午前2時ごろ、ついに旭町の理学部前交差点の道路上で両派は激突、さながら市街戦″を思わせる内ゲバにまで発展した。学生たちは激しい投石合戦を繰り返し、ここで全共闘系学生は初めて火炎ビンを使用、炎が飛び散った。そして双方の学生に十数人の重軽傷者が出、数人が同大附属病院、市内末広橋病院にそれぞれ運び込まれた。降りしきる雨の中で学生たちの市街戦″はさらに続き、3時すぎ勢いづいた自治会系学生は、一挙に全共闘系学生を押し切り、まず教育学部の奪還″に成功、全共闘系学生は人文、教養の封鎖個所も捨てて、医学部、大学本部に逃げ込んだ。自治会系学生は集まっていた教職員と協力、人文学部本館、教養部事務室を次々に封鎖解除した。午前4時すぎ、一応学生たちの抗争は落ち着き、人文、教育、教養部でそれぞれ解除後の整理作業が午前中いっぱい続いた。また県警機動隊は同4時半ごろから教育、理学、人文など各学部周辺に出、警戒に当たった。この間、長崎学長以下大学執行部は学外に出て、緊急会議、刻々はいる情報を中心に対応策を討議した。長崎学長は学内一部にあった「機動隊導入」の要望を最後まで抑え、あくまで自主排除の線に望みをかけていたといわれる。同学長は午前3時過ぎ、封鎖解除の行われている人文学部に姿を現したが「今の段階で機動隊の導入は考えていない」と自主解決の姿勢を語っていた。
S44.10.11(1969)真夜中の新大市街戦″/乱れ飛ぶ石火炎ビンにゲバ棒/研究室もメチャメチャ/怒りの住民「ガラスの破片を拾え」火炎ビンが飛んだ、石が飛んだ、ゲバ棒で激しくなぐり合ったー10日夜から11日未明にかけて、新大キャンパスは、ついに心配されていた学生同士の大乱闘となった。時折りのドシャ降りの中の市街戦″と化した。10月10日夜7時すぎ、全共闘系学生の手に落ちた自治会系学生の本拠″教育学部。これの奪還″を叫ぶ自治会系学生がヘルメットに完全武装の姿で全共闘系と対峙したのは同9時すぎだった。これをめがけて全共闘系が牛乳ビンを投げつけ、追ったり追われたりの応酬。内ゲバは次第にエスカレートしていった。そして11日午前2時ごろ、内ゲバは完全な市街戦となった。自治会系学生側は一般学生も加わって約250人に膨れ上がった。一方の全共闘系学生は約80人。教育学部、理学部前の道路や構内が決戦場。アスファルトや歩道のコンクリートが砕かれ、激しい雨の中で投げつけられる。顔面血だらけの学生が1人、戸板に乗せられて運ばれた。全共闘系学生に捕虜″になった1人が後ろ手に縛られ、ドシャ降りの中に放り出された。顔に投石された学生がガックリとくずれる。「オーイ、もっと石を持ってこい」「このやろう」と罵声が乱れ飛ぶ。大きな立て看板をタテに、ジリジリ接近、ゲバ棒で激しいなぐり合い。ついに火炎ビンが火をふいた。全共闘系が数本投げつけたのだ。樹木に飛び散った薬液がメラメラと、無気味に燃え上がる。約1時間後、全共闘系学生たちが一斉に逃げ出し、真夜中の乱闘劇″は終わった。教職員も加わって教育学部、人文学部本館、教養部事務室の封鎖個所が次々と解除された。4月16日から封鎖された教養部、9月1日から封鎖された人文学部の内部は惨たんたるありさま。「革命とは処女のごときもの」などの落書きが壁といわず、ドアといわずマジックや赤、黒の墨汁で書きつけられている。書棚の本にはあまり手はつけられていなかったが、紙クズ、ビン類などが散らばり放題。人文には投石用のカワラがうず高く積まれ、教養部の赤じゅうたんの部屋は土足で踏みにじられている。ある一般学生は「これが学生のやることか」と憤まんをぶちまけ、久々に研究室に入った教官は「元通りになるまでには相当の日数がかかるな」と、研究室をそっと撫でまわし、ぼう然としていた。市街戦で寝つかれない付近の人達の中には、学生に向かって「道路に投げつけたガラスを拾え!車も子供も、あぶなくて通れないじゃないか」と、怒りをぶっつける人もおり、婦人たちはおびえ切った表情で市街戦を見つめていた。
S44.10.12(1969)新大再び内ゲバの危険含む/決断迫られる執行部武装ほう起″の自治会系学生、徹底抗戦を叫ぶ全共闘系学生ー本格的なゲバルトが10月11日未明、新大でも繰り広げられた。各地の大学ですでに数回となく繰り返されたものが1つ1つ再現″された。わたり合う両派学生の表情には憎悪(ぞうお)がむき出しになった。新大紛争は最も重要な時点にさしかかったといえる。紛争が学生同士のゲバルトに集約されてしまった現在、いったい大学執行部はどのような判断を持っているのだろうか。新大はいま決断″を迫られている。こんどの内ゲバ、封鎖解除は、紛争の中で最も深刻なハプニングといえる。中核、ML派の教育学部封鎖はこのハプニングの中心といえそうだ。同派学生は10・10統一行動の盛り上がりを背景に、無謀とも思える行動に突っ走った。そしてこれが自治会系の決起を誘発した。自治会系学生にしてみれば教育学部は同派の最大拠点学部。それを襲われたことで、これまでたまっていた全共闘に対する怒りを一気に爆発させたといえる。中核、ML派を批判していた全共闘各派にしても反自治会という点では一致しており、あえてゲバルトを辞さなかった。こうして両派学生は憎悪″をかりたてるようにゲバルトに走った。一部の一般学生は自治会系学生支持に動いた。そして人文、教育など自治会系学生はその組織力で全共闘を圧倒。自治会系強し″の印象を学内に与えた。学生の対立がここまでくると無防備の教職員はなすすべもなかった。自治会系学生の後ろでゲバルトを見守り、戦い″の終わった後で封鎖解除に移った。「自主排除・自主防衛」はこうして思いがけなくも実現した。残るは、大学本部、医学部第一、第三内科、農学部本館だけ。しかしこれは全共闘系の最後のトリデ″だけに再び危険な内ゲバの可能性をはらんでいる。あくまでも機動隊導入を避け、十数人の負傷学生を出した市街戦″に手も足も出なかった大学執行部はこれからどうしようとしているのだろうか。
S44.10.12(1969)新大周辺住民の怒り高まる/いつまた衝突が・・・″/不安に答えぬ大学当局/評議会声明変えず/長崎学長が記者会見学生同士の大乱闘、市街戦の末、全共闘系学生による人文学部、教育学部の封鎖が解除された10月11日、午後の新大キャンパスは、紛争の現実を至るところに見せながらも一応平静を取り戻した。しかし付近住民の恐怖、怒りは大きかった。ところが長崎明学長ら首脳部は夜遅くまで雲隠れ。「大学は、これからもまた乱闘があるのかという住民の不安に答えようともしない。大学人は何を考えているのか」という強い批判の声が出ていた。封鎖解除によって、久々に長い廊下が現れた。机が並び替えられて事務室らしくもなってきた。教育学部は逆封鎖状態に戻り、教職員は窓から出入りしているが、つい数時間前までのあの殺気だった表情は一応消えた。しかし市街戦で一夜まんじりともできなかった付近住民の怒り、恐怖は大きかった。市街戦がエスカレートしようとしていた時ある人は学生に対して「道路に投げ捨てたガラスを拾え」と何回も怒鳴った。11日の朝が明けたとき、道路にいっぱい投げ捨てられたアスファルトやコンクリートの破片を大学に投げ返す人もいた。「またこんな事態になるのではないでしょうか」と不安がる婦人たちもいた。ところが、大学の首脳部はこの日、新潟市の某所で会議を続けたものの、同じ大学人の一般教職員たちにとってさえ行方不明のまま、とうとうこの日は夜10時まで一片の表明すらも出さずじまい。「公共の道路をわが物顔で乱闘したんですよ。新食糧統計調整事務所のガラスも割れたじゃないですか。それだというのに、大学が知らん顔ですませる神経は理解できません」と激しい怒りをぶちまける人たちがいた。これに対して大学側は、学生部3人の職員が正午ころから付近の住宅を回ったというものの、長崎学長が正式に「けが人を出したことの社会的責任はある。市民社会にめいわくをかけたことをわびる」と述べたのはようやく午後10時過ぎの記者会見になってから。そして「いま具体的対策はない。出来るだけ早く、学部長会議、対策会議を開いて決めたい」と述べた。さらに機動隊導入問題に関しては「一般論としては9・5評議会声明(原則として機動隊を導入しない)の方針の変更はなく、機動隊側が介入してくることについては、進んで是認するかどうかはケースバイケース」と語った。
S44.10.13(1969)共同通信社が全国世論調査/佐藤内閣支持36%、支持しない44%/70%が政治に不満/ふえる「支持政党なし」沖縄返還を決める佐藤首相訪米のあと政局の焦点は解散ー総選挙に移ることは必至で、すでに各党の地方遊説は活発に始まっている。そこで共同通信社(本社加盟)では10月4、5の両日、全国世論調査を行ない、佐藤内閣支持率や政党支持の動向、国民の政治に対する満足感を調べてみた。その結果、次のことが明らかになった。(1)国の政治に満足している人は4人のうち1人ぐらい、10人に7人は不満を持っている。特に農村部(郡部)には5人に3人の割りで不満″の声が高い(1)このような状態を反映して内閣支持率は下降線をたどり、しかも不支持率が佐藤内閣発足以来の最高を示した(1)政党支持率でも自民党が過去5年の佐藤体制下では最低支持率を記録する一方、社会党をはじめ野党各派も振るわなかった。今回も「支持政党なし」が目立った。今の国の政治に満足している人は、「大いに満足している」1.0%、「大体満足している」23.3%を合わせて24.3%で、これに対し不満組は、「やや不満」47.2%、「大いに不満」22.6%を合わせて69.8%。ほぼ1対3の比率で不満が強い。
S44.10.13(1969)2年生、長岡で授業/新大工学部学生に郵便で通知新大工学部(長岡市)教授会は、新潟市の教養部の一般課程にいる工学部2年生(392人)の長岡移行を正式に決め、専門課程と並行して卒業時までに一般教養の不足単位を取らせるという異例の措置を講ずることになった。10月13日、この旨の連絡を該当全学生に郵送した。工学部2年生は紛争で半年近く一般教養の講義を受けておらず、専門課程移行に必要な57単位のうち18単位が不足している。このまま長岡移行が延期になると全員留年という最悪事態も予想され、タイムリミットに立たされていたが、ようやく結論を出した。計画では27日から専門課程の授業を開始、それまでに学部に登録させたい考え。単位不足の教養課程は教養部教官の出張講義の形で卒業年次までの間に専門講義の間に折り込んでいくが、専門課程の講義との関係で、春と夏の休みの期間を利用しての集中講義、または土曜日の午後の講義も考えている。しかし学生個人で単位の取り方がまちまちなので、このまま教養部に残って単位を完全に取るか、長岡に移行するか学生自身の選択の余地も残している。小林宇五郎工学部教授の話:この時期をはずせば全員留年も予想され、忍びえない。留年か救済かの二者択一に迫られ教授会で考え尽くした結果このような異例の措置を取った。【注】工学部に入学した学生でも、1年と2年の前期は新潟市の教養部で一般教養を取得、2年後期(通例10月中旬)から長岡市の工学部専門課程に移るのが建前。現在の2年生は紛争で最近半年間の一般教養の講義を受けておらず、必要な57単位が不足だった。このため@全員留年かA不足単位は長岡へ移ってから補講するかー切迫した事態に追い込まれていた。しかし、全員留年になれば来年の工学部(約400人)の入試が出来なくなる。また長岡で補講するには教養課程の教官、施設をどうするかーなどの問題が残っていた。
S44.10.14(1969)機動隊出動も辞さず/県警新大紛争に強硬態度10月10日夜から11日未明にかけて行われた新大教育学部、人文学部、教養部の封鎖解除をめぐる学生同士の乱闘事件を捜査している県警本部と中央署は、14日今後の警備方針などを検討した結果、「学生の生命身体に危険を及ぼすような乱闘や公道破壊などの暴挙を大学当局が自主管理できない」と結論、こうした乱闘に対しては大学側の要請がなくても機動隊を出動させ事前に行動を規制する一方、該当学生は検挙する方針を決めた。警備当局はいままで封鎖解除をめぐる一般学生を含む自治会系学生と全共闘系学生の一連のトラブルについては大学の自治を守る″という大学側の意志を尊重、たとえ内ゲバなどによる乱闘で学生同士にけが人がでるような事態があっても、大学側の排除要請がない限り出動しないという態度を貫いてきた。そのうえ紛争の渦中にある大学本部、教育、理学、人文、医学などの校舎は公道(市道)で分断され、各学部とも独立した形になっているが、道路1本隔ててお互いに隣接しているなど地理的条件から、公道も含めて学園″という見方をしてきた。このためいわゆる学園内の公道における多少の無届けデモやゲバ行為については、「警官の出動で、学生側の態度を硬化させては大学側の自主解除に水をさす恐れもある」として学生に対する規制も弱めてきた(県警の話)。しかし10日夜から11日未明にかけて行われた封鎖解除に伴う学生同士の乱闘にはゲバ棒によるなぐり合い、道路の敷き石の投げ合いから火炎ビンの持ち出しまでにエスカレート、教育学部、理学部、人文学部にかけ交通はマヒ状態。凶器による学生のけが人は十数人にのぼる惨事に発展した。こうした現状から同日の検討会では「自主封鎖解除の名をかり、結果的には武装した学生同士の乱闘による解除という形をとっている。この現状は無視できない」という見解が大勢を占め、今後も武装されたゲバ発生の危険性が十分考えられると判断した。
S44.10.15(1969)新潟水俣病裁判/メチル水銀を検出した/廃液説に新事実/滝沢新大助教授が証言新潟水俣病裁判の第11回口頭弁論は10月14日午前9時から新潟地裁・宮崎啓一裁判長係りで開かれ、原告側証人として新大医学部公衆衛生学教室滝沢行雄助教授に対する原告側の尋問が行われた。この中で同助教授は「昭電鹿瀬工場の水銀カスからメチル水銀を検出した」と、原告側が主張し続けている工場廃液説を裏づける重要な事実を初めて明らかにした。原告側尋問に対し、同助教授は昭電鹿瀬工場の水銀スラッジ(カス)の中から自らメチル水銀を検出したと証言、@この水銀スラッジは同工場から水銀回収工場である奈良県宇多郡大和金属工業へ送られたもので、中毒事件後の41年10月、北興化学東京本社にあったもの2個を入手したA組成分析の結果、水銀回収工程以前のものであるBメチル水銀検出の事実は一部の人に明らかにしただけで、厚生省へは公式に報告しなかったーことを明らかにした。同助教授は「アセチレンからアセトアルデヒドをつくる工程でメチル水銀は絶対出ないとの昭電側の主張は事実に反する」と述べ、直接検出の事実を近く学術専門誌に発表、学会に報告することを明らかにした。このほかこの日の主尋問では同助教授が共同あるいは独自に行った研究ですでに公表されている研究、報告で中毒患者と阿賀野川のニゴイ、ウグイから多量のメチル水銀が検出されたこと、ネコ、ウサギなどにメチル水銀を食べさせたら中毒患者と全く同じ症状になったこと、鹿瀬工場の反応塔、ボタ山からメチル水銀が検出され、また同工場排水口直下の水ゴケからメチル水銀を検出、新大、神戸大など3つの機関と2つの試験方法で追試され、いずれも同じ結果が出ていることーなど厚生省特別研究班報告よりさらに強く工場廃液説を裏づける証言を行なった。最後に「これまで発表した論文については学会の異論は一度も出ていない」と明言した。第12回口頭弁論は引き続ききょう15日午前10時半から同地裁で開かれ、この裁判の原告である被害者10人が証人として出廷。一次訴訟の新潟市一日市、桑野忠吾さん、北蒲原郡豊栄町高森新田、大野作太郎さんに対する初の原告側本人尋問が行われる。なお、滝沢助教授に対する被害者側反対尋問は12月9日に行われる。
S44.10.16(1969)新大後期授業スタート/バリケードぬって登校/機動隊が徹夜警戒/人文は月内メドに秋季休暇の明けた新潟大学では10月16日から、人文学部を除き各学部で一斉に後期授業が始まった。秋季休暇中の10月10日夜から11日未明にかけて起きた自治会系学生と全共闘系学生の内ゲバを発端に封鎖の学部で次々に封鎖が解除されて、一応、正常化″を思わせる空気の中での授業再開。しかし15日深夜から16日未明にかけて、再び全共闘系学生の封鎖行動も予想されたため学内は緊張、機動隊が厳重な警戒に当たり、まだまだ本当の正常化にはいたっていない。教養、理学、農学、教育、医学では午前8時半から授業開始、かなり休講が目立ったほかは、平穏にスタートした。しかし40日ぶりに本部の封鎖が解除された人文学部では、教授会が「まだ研究、教育の機能が完全に回復していない」との判断から、授業再開は見合わせ、さらに全共闘系学生の暴力による再封鎖もあり得るとして、ここしばらくは荒らされた学部の整理など終戦処理″と警備体制に重点を置くことにしている。一方、県警本部は15日午前9時から16日午前4時にかけパトカー2台を出動、大学本部、人文学部、教育学部の周辺パトロールに当たらせる一方、大学本部と理学部前には機動隊員約20人を配置、偶発的な学生同士の内ゲバに備え警備に当たらせた。同夜は幸い不穏な動きがなかったが、今後も学生の動きに対応しパトロールによる警備を続ける方針でいる。
S44.10.16(1969)全共闘が投石/新大の周辺、一時騒然10月16日後期授業が始まった新潟大学で、全共闘系学生、自治会系学生がそれぞれ総決起集会を開いたのち、投石騒ぎとなり、県警機動隊が出動、学内は一時騒然とした。この日午後零時半すぎ、教育学部前広場に全共闘系学生約100人があつまり「現大学執行部打倒、10・21闘争勝利」などをスローガンに集会。一方自治会系学生も約50人以上が「全共闘の学外追放、大学民主化」を呼びかけ集会、途中から教育学部本館に入り自主防衛″体制をとった。その後集会の終わった全共闘系学生の間から同学部本館めがけて投石があり、これに自治会系が放水で応じるなどトラブルが起きた。このため県警本部は、午後3時15分、機動隊約100人を動員、教育学部前、人文学部わき、大学本部前など5カ所に分散配置し、警戒に当たった。しかし学生が解散し、対立もなくなったため、同日午後4時半機動隊は全員引き揚げた。
S44.10.16(1969)工学部、平穏に長岡市の新大工学部、教育学部長岡分校は10月16日、平穏に後期授業を再開した。しかし工学部は同日新潟市で開かれた学生集会で工学部教養自治会の全員が長岡に移行し、闘争を継続するという態度を打ち出したため、にわかに緊張が高まっている。同学部は「われわれの手で封鎖という事態が起こらないよう努力しよう」(脇屋学部長の話)という基本的態度は決めているが、具体的な方法までは検討していない。
S44.10.20(1969)火ぶた切る70年闘争/あす全国で反戦集会・デモ・スト/36万人が1日共闘/学生各派街頭ゲリラの構え/警官も空前の動員明日21日は国際反戦デー。「沖縄即時無条件返還、安保廃棄、ベトナム侵略反対」などを主張する反安保陣営は、11月の日米首脳会談を控えたこの日、70年安保闘争の本格的なスタートの日に設定。社共両党、総評、中立労連などは一日共闘″の統一行動を組織し、東京を中心に全国で集会、デモ、ストなどを予定している。また反日共系学生各派は「武力決戦」を叫んで過激な街頭ゲリラを展開する構えを見せている。これに対して政府は全国で空前の69000人の警官を動員、騒乱罪、破防法などの法規を最大限に運用して規制に当たるとの強い方針を明らかにしており、中央舞台の東京はじめ各地で学生と警官隊との激突も予想されている。10・21反戦デーは、総評がベトナム反戦の国際統一行動を呼びかけたのが始まりだが、4年目のことし、反安保闘争の大きなヤマ場となったのは、反安保陣営がいずれも「1か月後に迫った佐藤・ニクソン会談で、沖縄の実質的な核つき・自由使用返還と、安保自動継続による日米軍事同盟体制強化の方向が決まる」と判断しているためである。社共両党は、この日の闘争を盛り上げるため、4・28沖縄デー以来の共闘を組み、両党系各団体と中立系団体など200余団体とともに統一実行委を結成した。共産党との共闘に難色を示していた全逓、全電通など総評さん下の一部主要単産も話し合いがついて参加する。当日は午後6時から東京・渋谷の代々木公園に10万人以上の大動員をかけ、集会、デモをする。警察庁の調べでは、全国で449カ所で36万3000人が集会、デモに参加する予定。反戦青年委員会は反日共系学生各派とともに、中央集会から排除されているが、その多くは労組青年部、社青同などの所属員として参加するもよう。国労、動労、全国金属、化学同盟など13単産は、国労、動労の米軍ジェット燃料輸送抗議の順法闘争を中心に、ストを含む実力行使を実施する。この日の1日共闘″がその後の社共両勢力の持続的共闘の足がかりとなるかどうか、注目される。
S44.10.21(1969)理学部など封鎖/新大4カ所にバリケード/大学側は静観国際反戦デーの10月21日朝、新潟大学では「全学バリケード封鎖」を叫ぶ全共闘系学生らが新潟市西大畑町の理学部、人文学部、教養部、商業短期大学部のあるキャンパス一角を全部、バリケードで封鎖した。今回の行動には、反戦教師の会ら大学生以外の新左翼″も参加しており、新大は明らかに政治闘争の拠点となった。同日午前7時ころから、全共闘系学生ら約80人が作業に取りかかった。ヘルメットにタオルのマスク。校舎から持ち出した机やいす、また前日の20日、教育学部の逆封鎖を解除したあとの資材″も使い、一般学生が登校してくる午前8時半ころまでに、同市西大畑町のキャンパスの8カ所余りの出入り口を全部バリケード封鎖した。校舎内に前日から泊まり込んでいた教職員はほとんど全部連れ出された。しかし一般学生は自由に出入りしている。このため、同キャンパスの学部では授業が出来なくなり、教育学部では「全共闘が突入してくるかもしれない」と休講措置。また医学部でも前日の20日、自治会がストを決めたため、授業は行われていない。封鎖されたキャンパスの学部の教職員は教育学部に集結し、対策を考えているが、事実上静観″の態度をとっている。また自治会学生は教育学部前で集会を開き、封鎖作業の終わった全共闘系学生も同所に集まってにらみ合いの状態が続いている。今回の封鎖には自治会系学生、教職員は手出しをせず、混乱がないまま進められた。ちょうど朝の通勤ラッシュ時にぶつかり、一般市民はあっけにとられた表情だったが、市民と学生との対話はほとんど見られなかった。また県警機動隊70人は、学生同士の衝突を警戒し、人文学部裏の松林で待機している。この事態に対して新大長崎明学長は21日午前10時過ぎから記者会見し「内ゲバ、内部の破壊がない限り一応静観する」と大学当局の態度を次のように語った。全共闘の封鎖は10・21統一行動の一環として行われたものと判断しており、ある程度予想していた。バリストがこのまま固定化するかどうか判断することはむつかしいが、きょう1日は無用な刺激は避け、物理的な排除、機動隊導入はしない。
S44.10.21(1969)反戦の波″県下をおおう/労働者ら1万人参加/学生3人逮捕/県都の交通ストップ/学生、中央署に投石/警官けが10・21国際反戦デーの10月21日、県内では反安保県実行委員会、地区労、学生など約1万人(県警調べ)が21カ所で安保廃棄″佐藤首相訪米反対″などのスローガンをかかげ集会とデモを行った。県警では約1500人の警察官を動員、交通整理や警備に当たったが、約4000人が参加した新潟市では、デモの先頭に立った一般学生多数を含む新大全共闘の学生ら600人が各所でジグザグ、フランスデモを繰り返し、学生2人が公務執行妨害で逮捕された。一方、拠点地区の長岡市でも学生1人が逮捕される一幕があった。しかし、全般的に県下の統一行動は平穏に終わった。新潟会場の県庁前は午後5時半から社会党、県評、婦人会議、反戦青年委など労組約60団体と新大全共闘、反戦教師の会、反戦高協、ベ平連など合わせて4000人が集まり安保廃棄″佐藤首相訪米反対″などのスローガンを確認、6時10分から市中デモに移った。先頭に立った学生集団約600人は、東中通りから柾谷小路など各所で激しいジグザグデモ、フランスデモを繰り返した。県警と新潟中央、同東署から機動隊や特捜班300人が警備に当たり、学生のデモをサンドイッチしたまま行進。同6時半新潟市役所近くで、学生1人が逮捕された。学生は解散地点の西郵便局わきでも警官と激しい小競り合いを演じ、二十数分にわたってにらみ合いが続いた。このあと警官の引き揚げと同時に「逮捕した学生を返せ」と叫びながら中央署に押しかけ、再び警官ともみ合い、投石した学生1人がつかまった。県評などの労組団体は、一部ジグザグデモなどを繰り返したが、全般的に平穏、予定のコースをデモ行進したあと散会した。夕暮れとともに県庁前広場に集まった参加者。紺色の鉄道服姿の動労、スカートに運動靴の事務員、赤旗を手にした労組員、主婦らしい顔も見える。新大全共闘学生はヘルメットを脱ぎ、会場中央付近で別個の集会を開いてアジ演説。すっかり暗くなった空にシュプレヒコールを繰り返して午後6時10分、デモに移った。動労、電通共闘、全逓、国労とデモの波が続く。新大全共闘の隊列は、激しいジグザグデモを繰り返し、先導車の前に出て独立行動。出動した機動隊は、全員この全共闘のデモ規制に当たり、東中通りでは機動隊の規制もないまま後続の動労員を先頭にして道路いっぱいに広がっての激しいジグザグを展開、交通は全くストップした。西堀通り、古町十字路の広い道路でも激しいデモのうずが巻き、歩道も人、人、人でうずまった。500人が「逮捕された学友を返せ」と新潟中央署に押しかけて、激しいジグザグデモを繰り返した。一方、中央署では正面玄関と裏口を機動隊が固めていたが、デモ隊は増える一方。その上道路にまでジグザグの波を広げたため、中央署は正面玄関の屋根から3回にわたって放水した。しかし7時45分にあらたに機動隊が出動すると、デモ隊は道路上にすわり込んでシュプレヒコールの連続。このため車は新潟駅からギッシリつながり、バスの乗客が下車してしまう一幕もあった。このあと実力排除すると警察側が警告して、機動隊がすわり込んだデモ隊を歩道に押し上げた。デモ隊の中から投石する者が出て、中央署のガラスが数枚こわされた。学生たちは午後9時過ぎ引き揚げた。同日午後6時40分ごろ、新潟市新堀通りでデモの規制取り締まりに当たっていた新潟中央署の小島秋男巡査(22)は左目のメガネが割れ、ガラスの破片が角膜に刺さり、同市長瀬眼科で手術を受けた。
S44.10.21(1969)長岡でも抗議のすわり込み/高田市ではちょうちんデモ長岡市では地区評など労組員約2000人(主催者側発表)が参加、一部の労組員の激しいジグザグデモがあった。別行動の学生デモでは全共闘系の学生1人が公務執行妨害で機動隊に逮捕された。柏崎、小千谷、十日町、魚沼六日町など中越各市町でも統一集会が開かれたが、平穏に終わった。長岡市の反戦統一集会は午後5時半から厚生会館広場で開き、反安保、首相訪米阻止などを決議したあと大手通りー表町ー国道17号線のコースをデモ。先頭集団の動労、反戦青年委が最初から激しいうず巻きデモを行い、警備の警官が渦に巻き込まれる場面もみられた。一方、全共闘系の新大工学部学生を中心とするデモは、長岡高専、新大教育学部の学生の参加で約100人に膨れ上がり、午後6時40分ごろ、大手通1の厚生会館前でジグザグデモを行ないながら、コースをそれて厚生会館に行こうとして右折したため、長岡署員と衝突、学生1人公務執行妨害で逮捕された。このため学生40人が大手通1の路上にすわり込み抗議をしたが、すぐに機動隊に排除された。このあと学生は動労、反戦青年委、地区評青年部らと厚生会館前で集会を開き、約100人が長岡署前で抗議のすわり込みを行なった。高田市では地区労翼下の30単組、約1000人(主催者側発表)が参加、午後5時40分から大手町小校庭で集会を開き、このあと大手通りー本町ー大町のコース約2キロをちょうちんをかざしてデモ行進した。デモの終わり近く、駅前通りで反戦青年委の集団約40人が、同市では珍しくジグザグデモを行ったが、警官に規制され、駅前広場で平穏に流れ解散した。なお、新大高田分校自治会も午後4時半からの市中デモを高田署に届け出ていたが、学内集会を行なっただけで中止した。一方、直江津市では地区労主催で「年末一時金闘争勝利総決起大会」と銘うって約2000人が参加、午後5時半から古城公園で集会を開いた。石田地区労議長のあいさつに続いて各職場代表が決意表明、最後に「安保粉砕」「佐藤市長退陣」「火力発電所設置反対」などの大会アピールを決議した。
S44.10.22(1969)新大教職員全共闘系と対立/バリケード撤去へ10月21日早朝、新大理学部、教養部、人文学部のある新潟市西大畑のキャンパスは全共闘系学生によって各出入口9カ所がバリケード封鎖されていたが、22日午前10時過ぎ、3学部教職員がバリケード撤去の行動に出た。このため各入口では全共闘系学生と教職員との押し問答が続き緊張。その中で教養、人文の各入口3カ所のバリケードが撤去された。しかし全共闘系学生の抵抗も強く、いったん撤去されたバリケードが再び築かれるなど、流動状態が続いている。この全共闘のバリケードは10・21反戦統一行動に向けて政治ストライキ″の拠点化を図ったものとみられる。なお県警は約100人の機動隊員らを中央署に待機させ、いつでも出動できる体制を整えた。
S44.10.22(1969)新潟中央署前のデモ/また1人逮捕国際反戦デーの10月21日夜、学生逮捕に抗議して新潟中央署前でデモと集会が行われ、そのさい更に学生1人が逮捕されたが、22日未明釈放された。同夜、新潟市の目抜き通りで行われたデモの途中、学生1人が逮捕され、これに抗議するため同夜7時半ごろ学生、労働者など数100人が同署前に集結、抗議集会とデモを行った。これを規制しようとする警察官に学生1人が抵抗、公務執行妨害で逮捕された。この学生は新大農学部のA君(21)で身元や逮捕時の状況などを明らかにし、また試験が近いこともあって、調べが終わった22日午前零時釈放された。
S44.10.22(1969)新大封鎖大学側ただ静観″/バリケード撤去失敗全共闘系学生によって入構門が封鎖され解放区″となった新潟市西大畑の新大キャンパスを中心に、同大では再び紛争の緊張状態が続いている。10月22日午前の人文、理、教養教職員によるバリケード撤去は、全共闘学生の抵抗で事実上失敗に終わり、封鎖が長期化する心配も出てきた。一方、大学当局は対策に苦慮しており、この日も静観″の格好となった。これまで平常に行ってきた理学部、教養部の授業が中止となったため、事態は一段と深刻になっている。21日の西大畑キャンパス封鎖に対して大学当局は「封鎖は予想されていたことであり、刺激は避けたい」と黙認の態度を示していた。この判断には、10・21反戦統一行動がすめば、全共闘は封鎖を解除するだろうーとの見通しがあったといえる。教職員がバリケード撤去に踏み切ったのも、それを前提としていたといえそう。しかし全共闘系学生の中には「バリケードを11月決戦″まで持続する」との闘争方針を打ち出したところもあって、封鎖が長期化するのではないかといった声も出ている。このため教官、職員の「10・21が終わったのだから封鎖を解きなさい」といった説得も、全く通用しない状態。物理的にも排除は不可能で、教養部は今週いっぱい授業を中止、理学部も授業再開の結論を出せないままでいる。9月1日以来、授業を中止している人文学部も再開の見通しは立たないと判断している。また統一行動で東京に出かけた中核、MLなど戦闘部隊″が帰港すると、さらに封鎖の解除は難しくなることが予想される。大学当局は22日評議会を開き対策を検討したが、結論には達せず、教職員層のいら立ちも目立っている。同大は、11日自治会系学生の総決起で成功した封鎖解除もつかの間、再びバリケードが拡大、学内は流動的な状態にある。なお、この中で同日の教育学部の授業は平静に行われた。
S44.10.24(1969)道路工事に機動隊出動/ゲバの武器″絶つ/新大前の歩道敷き石はがし、舗装よく見かける道路工事。だが新潟市旭町の新大教育学部わきの歩道の敷き石がアスファルトにかわる事情は少々複雑。10月24日朝から始まったこの道路工事には県警機動隊も出動。敷き石が次々にはがされて、その際にアスファルトが流し込まれた。生まれ変わった歩道″は新大紛争の1つの象徴といえる。午前9時3分、市建築課の車や請け負い業者のダンプなど数台が到着。車を降りた人たちはのんびりたばこをふかしたり、作業前の一休み。その前を大学職員、教官、学生たちが登校してくる。作業員たちがふえ、そろそろ作業に取りかかる空気。全共闘のヘルメットに代わって作業員の白や黄色のヘルメットが歩道を行きかう。バリケードの陰から全共闘の1人がヌーと顔を出した。ある教官は説明を聞いて「ああそうですか。大変ですね」。同26分、指導車を先頭に機動隊が到着。バラバラと乱闘服姿の隊員が道路に飛び降り、あたりは急に騒がしくなった。ジュラルミンの盾がまぶしく光る。道路まで出てきて様子をうかがっていた全共闘があわててバリケードに駆け込んだ。同時にヘルメット姿の学生が次々に顔を出す。同30分、作業開始。歩道の敷き石はパカパカはがされ積み上げられる。機動隊員約80人も作業に参加、人海作戦でみるみるうちに地面の砂が顔を出した。「片側200メートルずつ全部アスファルトにする。予算は40万円ぐらいでしょう」と市職員。「楽な仕事ですよ。機動隊員さんも手伝ってくれるし。しかしこんな仕事は初めてですな。アッハハハハ」と業者。全共闘のマイク。「学友諸君ー。理学部前に集まっている青い乱闘服をみよ。機動隊はまさにワレワレをー、弾圧しー、この西大畑キャンパスから放逐せんとするウー」その中で黙々と作業が進み、同50分にはほとんど全部の敷き石がはがされ、ダンプがその石を海岸まで運んだ。素早い作業に全共闘の学生もビックリ。マイクの演説も日頃よりは迫力がない。この日の作業は警察から市当局に要望したもので、事前に暴力をチェックしようとするもの。前日全共闘が敷き石をはがしバリケードに運び込んでおり、ゲバルト防止の一環だった。夕方までに歩道は黒光りするアスファルトにすっかり姿を変えた。
S44.11.1(1969)新大工学部/長岡に来たのは勉強のためではない/さっそく全共闘旗あげ荒れ狂う新大紛争のなかで、地理的条件から比較的平穏だった長岡市の工学部に、全共闘系の動きが活発化。緊張が高まってきた。新大工学部共闘会議(反日共系)の結成大会″が11月1日午後零時半から、長岡市学校町2の同学部構内に約50人の学生が集まって開かれた。工学部は先月27日から新潟市の教養部にいた2年生388人を長岡の専門課程に移行させ、授業を始めていたが、新潟で活動していた全共闘系の工学部教養自治会の学生約30人の出方が注目されていた。同日の大会は、長岡に移った教養自治会の学生が「長岡でも闘争を継続させる」という方針で教養自治会を発展的″に解消、新たな組織づくりをしたものとみられる。いわば脱皮″のデモンストレーションとなったわけだ。大会には、新大医学、人文学部の全共闘系の学生数人も参加、「佐藤訪米実力阻止」「安保粉砕」「長崎学長体制打倒」などのスローガンを掲げ、「おとなしく授業を受けるため長岡に来たのではない」(学生の発言)ことを確認した。午後2時半ごろから30人がデモに移り、工学部構内、周辺の通りをヘルメット、角棒のおなじみのゲバスタイルで30分にわたりジグザグデモを繰り返し散会した。学生は6日に教官を交えた全学討論集会を開きたいと工学部当局に申し入れたが、学部側は拒否した。27日、平穏に授業が開始され安心ムードが流れていた工学部もこれでにわかに緊張が高まっている。
S44.11.5(1969)新大あす学長主催の「全学教職員集会」開催新大長崎明学長は11月5日午後記者会見し「封鎖解除、大学の自主的改革をめざし全学の意思を結集するためその先頭に立つ」と、学長声明を発表、具体的には学長の呼びかけで、7日に「全学教職員集会」を開催する方針を明らかにした。7日午後3時過ぎから教育学部前広場で開かれる予定。この教職員集会は、従来職組などが主催した集会とは性格が異なり、学長主催のもの。また今年3月下旬開催された全学集会以来、7カ月ぶりに長崎学長が全学的な集会に出席することになる。このため全共闘系学生の集会妨害も当然予想され、さらに大学側の「自主防衛、自主解除」の方針が具体的に動き出したものとみられることから、今度の集会は、混迷深い新大紛争の大きな焦点になっている。現在、同大学では、全共闘系学生によって大学本部、医学部第一、第三内科研究室、西大畑キャンパス(人文、教養、理学部)がそれぞれ封鎖されている。長崎学長はこれらの封鎖に対して、先月23日告示を出していたが、5日には再び「不法な封鎖が続いているが、全共闘諸君の良識に期待し、重ねて封鎖を解除することを要求する」という告示を出した。記者会見内容は次の通り。1.最近の封鎖を考えると、その行動が無差別な破壊につながっており、劇薬など危険物が持ち出されているとの情報もあり、放置しておくことは出来ない。1.学内には、機動隊導入の声が高まっているが、評議会では万一の場合を想定して導入する条件を考えた。しかし自らの力で解決をめざしたい。1.全学教職員集会はあくまで自主解決の意思結集を目的としており、即時封鎖解除などは考えておらず静かに″終わらせたい。
S44.11.6(1969)全国全共闘が決起集会/参加者大幅ダウン全国全共闘連合は、11月6日午後3時過ぎから東京・日比谷野外音楽堂で、佐藤首相訪米阻止闘争に向けた総決起集会を開き、学生約3000人(警視庁調べ)が参加した。11月決戦″を目ざす同連合の最後の政治集会で、10・21闘争で打撃を受けた統一戦線の建て直しを狙ったが、参加した学生数は、9月5日結成当時の1万1千人を大幅に下回った。集会では反日共系8派、全国反戦の代表がそれぞれ首相訪米阻止の決意を表明し、「16日夕、国電蒲田駅周辺に反戦派労働者、学生が総結集し、17日朝まで徹夜で羽田空港現地実力闘争を展開しよう」と意思統一した。機動隊の厳戒の中で大きな混乱もなく、午後8時すぎ解散した。
S44.11.7(1969)教職員が決起集会/新大全共闘、車で妨害騒ぎ大学の自主的改革、封鎖解除のため全学の意思結集を目ざす新大教職員決起集会は、11月7日午後3時過ぎから、会場を当初予定の教育学部から医学部グランドに変更、約700人が集まり開かれた。集会冒頭、長崎明学長は学長就任のあいさつと「今後、教官、職員、学生を3本の柱に、紛争解決を図りたい」と決意を表明。その途中から全共闘系学生約30人が会場に自家用車などで突入してきたため、長崎学長は発言を打ち切り、会場から立ち去った。しかし教職員の集会は全共闘の妨害を受けながらも一応、各学部代表から決意が述べられ、同4時過ぎ解散した。
S44.11.7(1969)新大医学部教授会団交の予備折衝開く/「再建会議」で平行線新大医学部でかねてから新大再建会議の改革方針などについて教授会団交を要求していた医学部学生自治会(全共闘系執行部)は11月7日、医学部教授会に団交の早期開催を迫った。教授会は一応話し合いに応ずることにし、同日午後6時過ぎから医学部第一講義室で予備折衝″にはいった。しかし、学生側は「再建会議から医学部出身の再建委員は脱退せよ」「機動隊導入には断固反対せよ」などを要求した。一方、教授会は「現在、大学は再建会議の改革を中心に前進しなければならない」と説明、双方の意見は同日深夜まで平行線のまま終始した。
S44.11.7(1969)首相訪米阻止を叫びデモ/新潟・長岡で反戦青年委新潟地区反戦青年委員会は11月7日午後5時40分から県庁前で「佐藤首相訪米阻止」の集会を開き、そのあと市内をデモ行進した。この集会には全電通、動労、全共闘などから350人が参加、各団体代表らが決意表明を行った後、午後6時からデモに入った。スタートと同時にフランスデモに入ったが、機動隊に押し返され「安保反対、沖縄無条件即時返還」とシュプレヒコールを繰り返して、東中通ー柾谷小路ー西堀ー古町をデモして、鍛冶小路の新生公園で午後7時15分解散。一方、長岡市でも長岡反戦青年委員会(250人)と新大工学部の全共闘系学生(40人)が「佐藤訪米阻止」「安保粉砕」などのスローガンを掲げ、学生は午後5時半工学部から、反戦青年委は同6時20分に長岡厚生会館を出発、学生は最初から激しいジグザグデモを繰り返し、途中で反戦青年委員会のデモに合流。渦巻きデモ、ジグザグデモなどで警備の270人の警官と数十回にわたって小競り合いを繰り返して同7時半過ぎ長岡厚生会館前で解散した。
S44.11.8(1969)新潟高で封鎖騒ぎ/けさ機動隊出動すぐ解除11月8日未明、反戦共闘系の高校生らが新潟市関屋下川原町の県立新潟高校(渡辺芳雄校長、生徒数1500人)を封鎖した。しかし学校側の要請で県警機動隊が出動、3時間後に封鎖を解除すると共に逃げ遅れた高校生ら6人を新潟中央署に任意出頭を求め、住居侵入、暴力行為等処理に関する法律違反の疑いで事情を聞いている。県下の高校が封鎖され、機動隊が校内に立ち入ったのは、これが最初で、教育関係者に大きなショックを与えている。同日午前零時15分ころ、高校生らを中心とした約80人が、ゲバ棒、ヘルメット姿で新潟高校正門玄関、生徒会室付近の入り口からなだれ込み、宿直の古沢三郎教頭、渡辺銀次郎教諭や夜警員の3人を追い出して、三階建ての本館18教室などの机、イス、ロッカーを運び出して正面玄関、各校舎に通ずる階段4カ所を封鎖した。古沢教頭からの連絡で学校側は教職員の動員をかけ、同校わきの渡辺校長宅で対策を協議した。その結果「不法侵入したうえ物品をこわしていること、人数も多いこと」を理由に同零時半、県警に機動隊の出動を要請した。県警は機動隊200人を午前3時半に出動させ、マイクで「出てこないときは不退去罪で逮捕する」と呼びかけた。しかし大半はすでに逃げたあとで、出て来た6人を補導した。校舎は廊下に机、イスが山と積まれ、内部は荒れ放題だった。県警調べによると中央署に補導された6人は、新潟高生1、三条高生4人、三条工高生1人、このほか学内には角材十数本のほか、三条高、南高、明訓高、新潟高生など識別できるヘルメットが30個発見されたことから、これら4校を中心とする反戦高校共闘会議の生徒が押し入ったらしい。また高校生の中には紛争中の新大理学部に出入りしている者が多いとし、新大全共闘が指導したのではないかとの見方を強めている。
S44.11.10(1969)新大工学部を封鎖/けさ、授業は行う長岡市の新大工学部(脇屋正一学部長、学生1000人)は休日明けの11月10日早朝、全共闘系の学生によって本館(木造二階建て9教室と事務室など9室)をバリケードで封鎖された。同日午前4時頃、ヘルメット姿の学生約55人が同学部本館に入り込み、玄関窓などに机、イスなどでバリケード封鎖を始め、同6時頃占拠した。宿直員3人は学生が入る物音で目が覚め危険を感じて逃げたため、けがはなかった。学生たちは先月27日、新潟市の教養部から長岡に移ってきた2年生(388人)の工学部共闘会議(11月1日結成)の40人と、新潟市から応援に来た医学部共闘会議の学生を中心とする外人部隊″約15人。学生は「佐藤訪米阻止」「沖縄闘争勝利」「大学治安法粉砕」「長崎体制打倒」「脇屋執行部打倒」をスローガンに「封鎖に踏み切った」といっている。同学部はさる7月2日、3、4年生を中心とする工学部闘争委員会(反日共系)の学生十数人に2日間にわたって封鎖されて以来二度目の騒ぎ。急を聞いてかけつけた教官たちは深刻な表情だった。工学部は、教養部の2年生を受け入れようとした10月以来封鎖のうわさが流れ、警備本部を置くなど警戒していたが、10日は宿直員3人の平常態勢だった。しかし重要書類などは事前に他の場所に移管してあり、事務上の支障はないもよう。当局は「学生、教官に多大な迷惑を与える封鎖は早く撤去せよ」と告示を出す一方、暫定本部を物理器具室に置いて対策を検討している。授業は封鎖されていない教室を使用、一限はおもに教官と一般学生が封鎖をめぐる対話をした。警察の導入については「現段階でなんともいえない」(脇屋学部長)といっており、学生の出方をひとまず見守る方針のようだ。封鎖した学生は本館二階にスピーカーを備え付け、一般学生の共闘″を呼びかけているが、大多数の学生は冷静のようだ。
S44.11.11(1969)新大工学部封鎖の中で授業全共闘の学生に本館を占拠された長岡市の新大工学部は、封鎖の一夜が明けた11月11日朝も学生が平常通り登校、実習などで整然と講義が行われた。一方、本館に立てこもった約30人の学生は、学部側の話では本館医務室の石油ストーブを囲んで暖をとり、ローソクで夜を明かした模様。
S44.11.12(1969)新潟高、全校集会を開く/もう封鎖ごめん11月8日、封鎖ー機動隊導入の騒ぎを起こした県立新潟高校(渡辺芳雄校長、生徒1500人)では11月12日、生徒の要求によって全校集会を開き、意見交換した。この意見交換で封鎖に参加した生徒の意見は出ず「封鎖は絶対やめてもらいたい。二度とこんなことが起こらないよう決意を固めてゆこう」との意見が圧倒的に多く、当初動揺していた生徒たちも落ち着きを取り戻している。集会は午後1時20分から同校体育館に全校生徒と全教職員が集まって開かれた。論題は@学校側が父兄に配布した政治活動に対する統一見解″Aバリケード封鎖をどう見るかB機動隊導入について、の3点。生徒たちは、学校側の統一見解″を将来変更する意思の有無や、合法的デモ(主任の許可を得て参加したデモ)でも逮捕された場合、処罰するかなどを質問。学校側は「統一見解は変えないが将来情勢をみて変更したい」「合法的デモに参加することは望ましくないが禁止していない。ケースバイケースで考える」と答えた。また生徒たちは「自校の問題になぜ他校生の応援を求めたのか。封鎖には絶対反対だ」「封鎖に参加した生徒はなんらかの責任をとるべきだ」「バリケードは絶対認めない態度を取るべきだ」などと発言した。この間、議長の再三の発言要求にもかかわらず、封鎖に参加した生徒の発言はなく、混乱なく終わった。
S44.11.13(1969)新大長岡分校不安がる付近住民/今度は「教育」を封鎖11月10日の新大工学部(長岡市)の封鎖に続き、隣接する新大教育学部長岡分校(押見虎三主事、学生300人)も11月13日未明、全共闘系の学生によって管理とうと、図書室を含む1むねの二つが封鎖された。学生が押し入ったのは午前2時15分頃。鉄パイプを持ったヘルメット姿の学生約20人がはいり封鎖を始めた。学生は、管理とう1階の宿直室にいた青柳三郎講師と武見弥平庶務係長と、それに用務員室にいた原用務員の3人を2階の主事室に軟禁。机、ロッカーなどでバリケード封鎖し、電話線を切って外部の連絡を遮断、同4時過ぎ占拠したあと、3人を釈放″した。連絡でかけつけた教職員たちは、ゲバスタイルの全共闘学生が深夜に金ヅチをガンガン響かせてくぎを打ちつけるのをぼう然とながめていた。3日前の工学部の騒ぎに続いて二度も封鎖が目前に起こった付近の市民は「異様な覆面スタイルの連中はよそごとと思っていたが、こうたて続けに起きては少々無気味・・・」と肩をすくませていた。長岡分校は工学部わきに7棟が東西に並んでいるが、封鎖された建て物は正門から一番目の管理とう(事務室、会議室など15室)と、二番目の第一人文とう(2教室と図書館)の2むね。女子4人を含む学生約20人のうち半数以上が外人部隊″とみられている。同分校は6月19日に大学立法に反対する全共闘系の学生によって、2日間封鎖されたことがあり、これで二度目。大学側は10日の工学部の封鎖以来、重要書類を他の場所に移管しており、授業も残っている5むねの建て物の教室を使い、平常通り行った。午前10時から、登校してきた学生を集めて事態を説明「平静な気持ちで授業を受けるように」と要請した。また封鎖学生に対しては「教育研究の場を力で阻害するものであり、承認できない。すみやかに解除せよ」と告示した。封鎖学生はマイクで「われわれは13日の全国統一ストを行なった労働者を支援するために封鎖した」と登校学生に呼びかけ、大学を批判した。登校した女子学生は「6月の封鎖は理解出来るが、きょうの封鎖は全く理解出来ない。1日も早く解除してもらいたい」といい、一般学生は封鎖学生に批判的だ。同分校は、1、2年生が主で(家庭科は3、4年の女子学生20人)、長岡で2年の課程を終了後、新潟市の教育学部に進学するシステムをとっており、全共闘系の学生は10人位とみられていた。大学側と封鎖学生の対話″は、外人部隊が多くて教官と面識がないことと、学生が顔を出さないため、もっぱら封鎖学生のマイクによる一方通行に終わっている。
S44.11.13(1969)新大生ら20人を逮捕/「学友を返せ」中央署へデモ、投石佐藤首相訪米阻止11・13統一集会・デモで新潟中央署に押しかけた新大学生ら20人が公務執行妨害などで逮捕された。学生の大量逮捕は5月30日の愛知訪米阻止行動に次ぎ2回目。デモは11月13日夕刻から新潟、長岡など県下11地区、14会場に約8300人(県警調べ)が参加。約3000人が集結した新潟会場では、200余人の一般学生を含む新大全共闘系学生が各所でジグザグデモを繰り返し、デモ終了後、中央署に押しかけた学生約130人のうち20人(1人はデモ中に逮捕)が公務執行妨害で逮捕された。新大学生は同日午後5時過ぎ、同大教育学部前広場に約200人が集まって集会を開いたあと、県庁前からスタートした県評のデモ行進の中に割って入りジグザグデモを繰り返した。6時25分、柾谷小路市役所付近で学生1人が公務執行妨害で逮捕され、デモは荒れぎみ。古町5付近で、デモはいったん打ち切り、新大全共闘系の学生約500人が逮捕された学生を返せ″と叫びながら同7時過ぎ、新潟中央署に駆けつけ、機動隊めがけて投石を繰り返したが、機動隊の出動で19人が逮捕された。中央署前に集まったヘルメット姿の学生たちはジグザグや渦巻きデモを繰り返した。中央署の「無届けデモはやめよ」の注意に、学生がシュプレヒコールで応戦、午後7時25分デモの先頭と機動隊が正面から押し合いとなると、歩道の敷き石を砕いた石が雨のように投げられた。機動隊は投石防止網やジュラルミンのタテで学生17人を逮捕した。デモはいったん静かになったが、すぐ隊列を組み直して、また激しいデモが約2000人のヤジウマの見守る中で繰り返された。しかし、機動隊が再びデモやヤジウマの中に割って入り、さらに学生2人を逮捕した。このあと学生は敷き石を砕いて再び中央署前に戻ったが、投石もなく、午後8時15分に引き揚げた。この途中、同署営所通派出所と東中通り、読売新聞社新潟支局に投石、それぞれガラス1枚がこわされた。
S44.11.13(1969)新潟 一般デモも激しく/長岡では高校生も参加11月13日午後5時半、新潟県庁前で開かれた「佐藤訪米反対、安保廃棄、沖縄奪還、秋・年末闘争勝利県中央集会」には早朝ストや全逓、電通、自治労、全水道、国労、動労などのほか、反戦青年委、日本婦人会議など約60団体3500人(県警調べ3000人)が参加、全日通、日本鋼管、新潟市職が決意表明をしたあと「日本を戦争に巻き込む安保条約を廃棄させ70年安保闘争勝利の展望を切り開く」との決議文を採択した。このあと同6時から県庁前ー東中通りー古町ー東堀通りのコースでデモに移った。先頭集団が出発したあと途中から新大全共闘系学生のデモ隊が合流、激しいジグザグデモ、フランスデモ、うず巻きデモを繰り返し、東中通りでは、全共闘のデモ隊に押された全逓デモ隊が歩道に押し上げられるという混乱もあった。道路いっぱいに広がっての激しいデモを繰り返した一般デモ隊は午後7時、西郵便局前で流れ解散した。長岡では地区労加盟の12団体3000人(主催者調べ、警察発表1500人)が長岡厚生会館で集会を開いたあと午後6時から市内をデモ行進した。激しいジグザグデモが続いたが、警官、機動隊約200人を投入した厳重な規制で大きなトラブルもなく午後7時過ぎ解散した。国立長岡高専の反戦会議学生30人が地区労とは別のコースで初めてデモに参加したが、圧倒的な警備体制でこれも平穏に終わった。また学園民主化、文部省の指導手引き通達に反対して市内高校生と三条の高校生約20人がヘルメット姿で集会を開き、長岡市初の高校生の表立ったデモ参加として注目されたが、デモ行進に出発する直前、私服警官に阻止されデモを取りやめた。このほか柏崎、小千谷、見附でそれぞれ地区労などの集会が開かれ、350人から500人の労組員がデモ行進したが、いずれも平穏に解散。
S44.11.13(1969)新大医学部の封鎖すぐ解除11月13日午後1時半ごろ、新潟市旭町の新大医学部で、全共闘系学生約30人がヘルメット、角材の完全武装″で「安保粉砕」「講座制解体」などを叫び同学部研究とう(7階建て)に突入、研究とうの1階一部と学部長室、事務室、法医学教室のある2階全部にロッカーを積み、シャッターを下ろして封鎖した。このため大学側はただちに封鎖を解除するよう退去通告を出した。しかし午後3時すぎ、全共闘系学生が集会のため姿を消したため、集まっていた教職員約200人が封鎖を解除した。
S44.11.15(1969)新大全共闘、警察へ抗議/学友返せ”佐藤首相訪米阻止11・13統一デモの大量逮捕に抗議する新大全共闘系学生約40人が11月15日午後、新潟中央、東両署へ押しかけたが、機動隊との衝突もなく平穏に終わった。同日午後3時過ぎ、中央署前に集まった新大学生は「学友を返せ」と、歩道の上でデモを始めたが、同署正面をかためた機動隊のカベと「無届けデモ」の警告にすぐデモをあきらめて万代橋詰めに集結、同署に向かってシュプレヒコールを行なった。このあと学生たちはホコ先を東署に転じ、万代橋を渡って東署に向かった。このため中央署に待機していた機動隊は輸送車で東署へ急行、いち早く東署の回りを固めた。学生たちは同署隣の万代公園で集会を開き、同署の留置場に向かって「完全黙秘で最後までガンバレ」とシュプレヒコールを繰り返し、10分ほどで引き揚げた。
S44.11.15(1969)新大理学部封鎖解除に失敗新大で11月15日午前6時すぎ、理学部の教官、職員約30人が10月21日から封鎖されていた同学部の入構門のバリケード撤去を行ない、その大部分を取り除いたが、全共闘系学生がこれに気づいて抵抗、再びバリケードを築いたため封鎖解除は失敗した。この騒ぎで、教育学部の警戒にあたっていた同学部警務員高井博さん(40)が全共闘系学生に顔をなぐられ、前歯を折るけがをした。また学生の投石で入れ替えたばかりの同学部のガラス約20枚が割れた。
S44.11.16(1969)新大紛争の壁″厚く/全共闘実力部隊″は約100人/人文学部の授業全くストップ/頭もたげる機動隊導入論初の大衆団交が決裂し、新潟大学が紛争で大きく揺れ始めてから丸1年。しかし今のところ問題は何1つ解決されていない。学内では圧倒的少数派″でありながら、行動を起こすと学内が異常に揺れる全共闘系学生、紛争解決のため苦慮する大学執行部、キャンパスにはほとんど姿を見せなくなった一般学生、肉体的、精神的に疲労の色をかくせない教官、職員ー「新潟大学はどうなるのだろう。お互いにこれだけ悩んでも、問題の壁は少しも薄くなっていない」とある若手教官は嘆くのだがー。「全共闘の実力行使はまず封鎖である。彼らはいったい何のために封鎖するのだろうかー」:封鎖は物理的″圧力となる。そればかりではない。平穏無事な状態ーいわゆる日常性の中にみんなが埋まっている状態″に封鎖行為でショックを与える。学内が揺れ動けば、彼らの動きは注目され一緒に戦う″仲間をバリケードに呼び込むことも出来るという。そして封鎖そのものは「オレたちは闘争をやっている」といった象徴的な意味もある。だから突けばくずれそうなバリケードでも封鎖は封鎖である。現在同大の全共闘系学生は実力部隊″約100人、フロント、中核、解放戦線(ML)などのセクトに分かれ、それを支持する(デモなどに参加する)学生は200人近い。しかし4000人近い学生の中ではごく少数である。「封鎖の影響は大きいという。授業はどうなっているのか。そして一般の学生は何を考えて、どうしているのかー」:授業が完全にストップしているのは西大畑キャンパス内にある理学、人文、教養の3学部。人文学部は9月1日以来、集中講義を除いてこの2カ月半全く行われていない。理学部、教養部は封鎖のあった10月21日まではほぼ平常に授業が行われていた。しかし封鎖後はストップ。この中で最も心配されているのは人文学部。このままずるずる延びれば、学年終了までに授業の消化が難しくなる心配もある。3学部の一般学生たちはその大半が姿を見せていない。さる13日に開かれた人文学部学生大会も最低の集まり。ある学生は「帰省したり、アルバイトしたりしているのが多い」と話している。全体に授業再開の声はあるのだが、具体的にはなっていない。全共闘系学生を非難しながらも、「自分たちには論理がないから、反論してもすぐにやり込められてしまう」と口をつむぐのが普通。そしてヘルメット、角材は持たないにしても心情的に全共闘を支持する学生も多い。全くのノンポリ学生、意識的無関心学生、ネトライキ、アルバイトーそうした大衆学生の心を読みとることはむずかしい。「こういった混乱の中で大学執行部はいったい何をしようとしているのだろうか。これに対する学内の表情はー」:警察力の導入は原則的に行わず全学の意思結集をして、自主防衛、自主解除をする」というのが9月5日の評議会声明。これはそれまではっきりしなかった大学側の姿勢を示したもので学内では反響を呼んだ。だが10月21日の西大畑地区封鎖で大学側は苦境に立った。そして10月下旬評議会が決定した「機動隊導入に関する8項目の条件」は新たな波紋を呼んでいる。「ついに機動隊導入を覚悟した」「導入に先立つ布石」など憶測が乱れ飛んでいる。しかし長崎学長は「万一を考えたことであり、自主防衛、自主解除の方針は変わらない」と説明。ただ大学執行部の内部では学内世論も反映して「導入論」が真剣に論議されているのは確かである。一方、職員組合は別にして、一般職員にはっきりと「警察力を導入すべきだ」と語る人たちが多い。封鎖のため、最もそのしわ寄せを受けているのは職員で不満の声が強い。「教官は調子がいい。自分たちは導入賛成だという。しかし教授会では態度をはっきりさせない」と不信感をぶちまける。こう批判される教官側にも導入やむなし″の空気がある。そして「もし今度なにかがあればー」「機動隊の導入は時間の問題」といううわさが流れている。「機動隊が導入されると完全に正常化するのかどうか。導入後の展望はー」:機動隊導入の反対派の主張は「導入で学園が荒廃するのは明確だ。導入するにしてもその後どうなるか具体的な展望がなければならない。しかし今の執行部にはそれがないではないか」ということ。更に自治会系学生、職組は「導入は権力の介入につながり、大学の自治を破壊する」と主張する。だからといって全共闘″の行動力は暴力そのものであり許せないーそういったイデオロギーの対立もあって、学内は三すくみ。紛争の直接的な原因だった統合移転問題は解決されないまま、新しい方法をさぐる再建会議の作業も封鎖の影響などで遅れがち。「機動隊が導入されれば教官の意思統一が難しくなり、改革案はつぶれる」といった声も出ている。授業再開など正常化が進むにせよ、紛争の本質的な問題の解決には長い時間がかかりそうだ。
S44.11.17(1969)佐藤首相、厳戒の中旅立つ/ヘリで羽田空港へ/「最善を尽くす」と決意/学生ら散発的ゲリラ沖縄返還をめぐる大詰めの日米交渉に臨む佐藤首相は小雨降る中を首相官邸からヘリコプターで羽田空港に着き、11月17日午前9時56分、羽田発の日航特別機で寛子夫人、愛知外相、木村官房副長官、森外務審議官ら随員23人とともに、ワシントンへ向け出発した。国際線旅客以外すべて締め出した厳戒下の空港には、川島副総裁ら自民党幹部、保利官房長官(臨時首相代理)ら各閣僚、在京外交団長のフレチア・トーレス・パラグアイ大使らが見送った。過激派学生、青年労働者集団の激しい訪米阻止行動に明けたこの朝の羽田空港は皆、国内、国際線とも発着を一時中止し、空港内には3300人の機動隊、空港沖には海上保安庁の巡視船など44隻が出動し、前例のない厳戒下での出発であった。この朝早く、雨中でもヘリコプター使用を決定。留守番役をつとめる保利官房長官は7時半過ぎに東京・永田町の首相官邸に姿をみせ、同行の愛知外相も8時過ぎ自宅から官邸に入った。9時20分、佐藤首相、寛子夫人らは官邸中庭から陸上自衛隊のヘリコプターに乗り込み、自衛隊、警視庁のヘリコプターの護衛、警戒を受けて、羽田空港へ。午前9時半少し前、同空港A滑走路に着くと、乗用車で特別機「瀬戸」が待機する18番スポットに横づけし、閣僚、外交団などの見送りを受けてタラップを踏んだ。首相訪米の警戒に当たった警視庁は16日から2万人を動員し、羽田空港と首相官邸、霞が関官庁街を中心に、全都にわたって厳しい徹夜の警戒を続けた。特に羽田空港では弁天橋を中心に羽田に至るすべての道路に警備車、放水車の厚い壁を築いて検問を設け、17日早朝から機動隊員が空港内の各航空会社の建て物や周辺の空き地、草むらまで徹底的に捜索。火炎びんなどの持ち込みに備えた。首相官邸でも300人の機動隊による徹夜の警戒が続けられた。一方、首相訪米阻止を叫ぶ反戦青年委、過激派学生約2500人は午前6時から大田区民広場で独自の抗議集会のあと、羽田方面へデモを始め、前夜の厳しい規制で散り散りになった一団も小集団に分かれ、蒲田駅周辺で行動を開始、蒲田署夫婦橋交番を襲撃するなど散発的なゲリラ活動をみせた。国電も過激派学生の動きに備えて、朝から間引き運転したため、京浜東北線秋葉原駅などは朝のラッシュで混乱した。首相一行は現地時間の17日午前10時15分(日本時間18日午前零時15分)、ワシントン・ダレス空港着、米国務省幹部、下田駐米大使らの出迎えを受け、直ちに宿舎に入り、19日からニクソン大統領と3回にわたって会談し、「日米共同声明」を発表、その後、ニューヨーク、サンフランシスコに立ち寄り、26日午後3時10分日航特別機で帰国する。首相は同日直ちに首相官邸で開かれる自民党の両院議員総会で帰国報告し、沖縄返還の成果を背景に29日から始まる臨時国会に臨む方針である。この国会で首相は出来るだけ早く、所信表明の形で沖縄返還報告をするが、政府、自民党が解散含みの政局に対処して臨時国会の早期召集に踏み切ったこと、さらには社会党など野党の出方によっては、この臨時国会中に解散が断行されるとの見方が強い。このため首相の帰国を契機に政局は解散、総選挙に向かって緊迫度を増すことになろう。
S44.11.17(1969)都内戦後最高の逮捕者佐藤首相訪米阻止闘争が実施された16日、東京都内での逮捕者は17日午前2時半現在、1690人(女性230人)となり、1日の逮捕者としては戦後最高を記録、10・21国際反戦デーの1221人を上回った。警視庁の調べによると、今年に入っての大量検挙は、4・28沖縄デーの965人、5月31日の愛知外相訪米阻止闘争の355人など。
S44.11.17(1969)新大第一内科資料運び出す/封鎖一時解く新大医学部で11月17日、7月1日以来封鎖されている第一内科研究室(松岡松三教授)の封鎖解除が同内科医局員などの手で、午後3時すぎから行われたが、全共闘系学生が押しかけて、妨害したため解除は中止された。しかし解除中に、中にあった患者のカルテ約8000枚、論文、研究データなどを持ち出すことが出来た。現在、封鎖中の学生の大部分が上京しているとみられており、そういった情勢判断に基づいた解除だったが、十数人の全共闘系学生が角材、パイプで抵抗、ガラスが割られるなどして無防備″の医局員たちは近寄ることが出来なかった。
S44.11.17(1969)新大人文学部月内に学部長選/規定改正「学生参加」認める方向新潟大学人文学部は11月17日開かれた教授会で、職員まで拡大した「学部長候補者選考規定」に関する最終討議を行い、ほぼ原案どおり承認、今月中に新規定に基づいて約100人の教職員が参加、学部長選挙を行うことを決定した。また焦点となっていた選挙に関する学生参加の問題は「学生の自発的な論議を待ち、もしそこで参加の要求が集約されれば応じたい」として、こんどの教授会規定には盛り込まないことにした。承認された新規定によると「人文学部に専任で勤務する教職員は全員が候補適任者を選挙する」(第4条候補者の適任者の選挙)となっており、まず職員を含めた投票で候補適任者3人を選出し、この3人に対して再度教官が投票(第5条候補者の選挙)することになった。この選挙方法は、理学部ですでに行われているが同学部では初めて。一方、同学部の選挙規定改定は、学生参加を認めるかどうかで注目されていたが、基本的には学生参加を認めることで意思統一された。ただし現在の情勢では、北大教育学部、名古屋大理学部で行われた学生参加による学部長選挙が、文部省で辞令発令がチェックされていることから、教授会規約には盛り込むことは避けて、自治会と学部長の間で「覚え書」「確認書」を交換し学生参加問題を制度化する方針にしている。これにより選挙規定上、学生参加は明文化されていないが、もし何らかの形で学生層の意志が表明されれば選ばれた学部長はそれに従うことになり実質的″な学生参加となる。しかし教授会では参加決定は学生自身が論議し、意思統一をすべきであるとして、学生層にゲタを預けた″恰好。具体的には学生側が学生大会などで参加問題を考えた時点で、教授会がそれに応ずることにしている。
S44.11.17(1969)新潟高生ら整然とデモ/「政治活動認めて」去る11月8日、県下の高校で初めて学校封鎖ー機動隊導入という騒ぎのあった県立新潟高校(渡辺芳雄校長、生徒数1440人)の全学闘争委員会は、11月17日午後3時半から同校校庭で集会を開き、文部省の政治活動に対する見解粉砕、機動隊導入、処分反対などを訴えたあと、市内を整然とデモ行進して気勢をあげた。この集会とデモは、生徒の要望によって学校側も認めたいわゆる合法的″なもの。集会には同校生徒のほか、ヘルメット姿の明訓、新潟南高生ら合計70人が参加、文部省の指導手引き書粉砕や逮捕、補導された4人の学友の処分反対、学校内の表現の自由などを訴えて、現在の教育体制に抗議した。この集会の中心は、過激な行動に批判的な高校ベ平連系生徒。このためヘルメット姿の他校生の参加をめぐって「ヘルメットを脱いで堂々と主張しよう」「ヘルメットは脱げない」の応酬もあった。このあとヘルメット生徒を含めた全員が午後4時半、同校ー蔵所堀ー西堀ー柾谷小路ー東中通ー同校のコースで整然とデモ行進した。デモ隊は途中、「われわれと一緒に本当の教育のあり方を考えてください」などと市民に呼びかけたり、ビラを配ったりしたが、混乱は全くなかった。
S44.11.17(1969)新潟簡裁デモ学生拘置請求/初めて認める新潟簡裁は11月17日、11・13デモで逮捕された学生1人について新潟地検が出していた拘留請求に対し10日間の拘留を認めた。室根茂子弁護人の請求があったため、19日午後3時から同簡裁で拘留理由の開示(説明)が行われる。ことしの5・30デモの逮捕学生12人の拘留請求については同簡裁はこれを認めず、さらに同地検がうち3人の拘留を認めるよう準抗告したが、同簡裁は再び棄却、全員が釈放された。一連のデモの逮捕者で裁判所が地検の拘留請求を認めたのは県下で初めて。
S44.11.18(1969)新潟簡裁高校生ら全員釈放新潟簡裁は11・13デモで逮捕され、新潟地検から身柄を送検された高校生を含む新大生ら少年8人を11月18日までに全員釈放した。8人のうち4人は送致された16日に公務執行妨害など否認のまま即日釈放、残りの4人は心身状況調査のためいったん新潟少年鑑別所にいれ、うち3人は犯行の事実を認め、1人は事実黙秘のまま18日釈放した。
S44.11.19(1969)新潟簡裁裁判官が説明/新大生拘留黙秘権含め判断/傍聴人、立ち入り禁止11・13デモで逮捕され、新潟簡裁で10日間の拘留が認められた新大生●●●●(22)に対する拘留理由開示(説明)が、弁護人の請求で19日午後4時10分から同簡裁・関根一郎裁判官係りで開かれた。理由開示は検事欠席のまま開廷、同裁判官が13日のデモで●●が県公安条例、道交法違反、公務執行妨害の行為をした疑いがあり、証拠隠滅、逃亡の恐れがあった、として拘留理由を説明。渡辺喜八、坂上富男、室根茂子各弁護士の質問に対し@東大事件で被疑者が逃亡した例もあったことなどから逃亡の恐れがあると判断A●●は学生集団の中の指導者であり、統制力もあるため反証工作が出来ると判断したーと説明、この中で「犯行事実について黙秘権を行使したことも事実として含め総合的に判断した」と述べた。これに対し弁護側は@暴行された巡査が現行犯として逮捕しているうえ、警察官の目撃者があり証拠はすでに十分。証拠を隠滅する方法はないA身元引受人が引き受けを申し出ているし、逃亡の恐れは全くないB公安条例は憲法違反であり、デモの条件付き許可も違憲であるC道交法でデモの規制は出来ないD拘留認定に裁判所の職務怠慢があるE制止の巡査に接触したのは警察がデモ隊を押したためだーと強調、直ちに釈放するよう要求した。この日の理由開示で同裁判所は中央署に警官の出動を要請、近くに制服警官が待機する一方、裁判所職員が訪れる人をチェック、詰めかけた学生のうち約20人が傍聴券がなくなったため、雨の中を中庭に立ったまま庁内の立ち入りを禁止された。これに対し弁護側は「ふだんと同じように公衆を庁内に入れ、控え室で待機させるべきだ」と関根裁判官に要求、予定より約40分開廷が遅れた。
S44.11.19(1969)新潟高、封鎖騒ぎで処分/3人に自宅謹慎さる11月8日、反戦高校共闘会議系の生徒によって封鎖騒ぎを起こした県立新潟高校(渡辺芳雄校長、生徒数1500人)は、19日夜、この封鎖騒ぎで補導された生徒1人を含める3人に対して不定期の自宅謹慎を言い渡した。3人はいずれも2年生(19)。同校では、この謹慎中に反省録を書かせたり、担任教師の家庭訪問で学校に不法侵入して封鎖したことに反省を促す方針。また、11・13統一行動のデモに加わり逮捕された生徒については、事情調査が済み次第、何らかの処分を行うことにしている。
S44.11.19(1969)新潟地検反戦自衛隊員″を逮捕/隊内(佐渡)でビラ張り/全国で初拘留延期″で明るみに/逮捕の小西不当拘留と主張自衛隊員が隊内で反戦ビラをはり出し、自衛隊法違反の疑いで逮捕された。新潟地検はこの事件を極秘裏に捜査していたが、11月19日朝、新潟簡裁で拘留理由の開示(説明)が行われたことから逮捕、拘留の事実が明るみに出た。この隊員の背後関係についてはわかっていないが、自衛隊員が反戦活動で逮捕されたのは全国で初めて。「自衛隊内にもベ平連が出来ている」との吉川勇一ベ平連事務局長の発言(11月16日付け本紙14面)を裏づけるような事実が明らかとなり、政府、自衛隊など各方面で大きな問題となりそうだ。逮捕されたのは佐渡金井町新保の航空自衛隊第46警戒群に所属する同所、三等空曹小西誠(20)=本籍●●●●●●●●=。被疑事実はさる10月18日午前8時すぎ、小西が10・21国際反戦デーに向けて佐藤訪米阻止や安保粉砕を訴えた反戦ビラ数枚を庁舎内にはり出したというもの。直ちに同部隊が属する航空自衛隊中部航空方面隊=埼玉県入間市=が捜査に乗り出す一方、新潟地検も問題を重視し、両者で対策の協議を重ねていたが、東京高検の指示で自衛隊法で定められた隊員の「政治的行為の制限」「怠業の扇動禁止」規定違反容疑で逮捕状に踏み切り、11月4日に逮捕、拘留した。一方、同方面隊では11月15日付けで小西を解任した。直ちに同地検から同簡裁へ拘留請求があり、即日10日間の拘留が認められた。さらに同簡裁は同地検の請求で10日間の拘留延期を認めた。このため、小西本人が拘留理由の開示を同簡裁へ請求。19日午前9時半から同簡裁・山田慎一裁判官係りで開かれた。法廷で同裁判官が拘留理由を説明したのに対し、小西は「逃亡も証拠隠滅出来るわけがない。拘留は不当だ」と主張した。同裁判官の話では、本人が選任しないため、弁護士はついていない。また、小西はすでに17日間拘留されているが、兄に1回20分間面接しただけ。理由開示の法廷では公開原則が守られ、法廷前の黒板に小西の氏名と被疑罪名が書き出されたが、傍聴人は1人もいなかった。開廷して10分か15分で理由説明が終了、閉廷後検察側の要求で直ちに黒板の字が消されたという。同地検公安担当官はこの事件について「なにも言えない」といっさいを明らかにせず、堅く口を閉ざしている。小西はさる39年3月、宮崎県●●市立●●中学校卒業後、すぐ自衛隊へ入り、埼玉県熊谷市にある自衛隊第4術科学校で訓練を受けた。第46警戒群へ配属されたのは43年3月からで、金井町に下宿して活動をしていた。第46警戒群は隊員300人、レーダーなどの通信施設を備えた警戒管制部隊。
S44.11.20(1969)封鎖の新大人文学部大量留年の恐れ/近づくタイムリミット新大西大畑キャンパスは全共闘系学生によって依然バリケード封鎖されているが、9月1日以来授業の行われていない人文学部では、12月以降授業を再開出来なければ大量留年、卒業延期などの心配が出ており、紛争の中でタイムリミットを迎え、深刻な状態になっている。同学部は9月1日全共闘中核、ML系学生によって本館が封鎖され後期の授業開始がストップ。そして10月11日の自主解除で一応再開のメドがついたが、10月21日再びバリケード封鎖。9月1日から約3カ月にわたって集中講義を除き、全く授業の行われていない状態が続いている。同学部の場合、1学年の間に30週の正規の講義、ゼミが予定されており、そのうち最低20週は単位修得のために必要。7月末までに11週は消化しているが、進学、卒業可能になるには残り10周分の授業を行わなければならない。このためには12月4週、1月4週、2月2週の3カ月で後れを取り戻すことが前提となっている。卒業延期、進学延期、留年などの可能性も大きくなってきた。
S44.11.20(1969)逮捕の新大生逃亡の恐れ″と「拘置取り消し」却下11/13デモで逮捕、拘置中の新大生●●●●(22)の弁護人である渡辺喜八弁護士ら3人は「拘置は不当だ」として拘置取り消し請求をしていたが、新潟簡裁・関根一郎裁判官は「公務執行妨害などの疑いがあり、証拠隠滅、逃亡の恐れがある」と、20日請求を却下した。
S44.11.22(1969)上京中に反戦思想?/孤独な若者逮捕の小西/隊員に広がるショック自衛隊員が反戦ビラを張り、自衛隊法違反の疑いで逮捕された事件は各地に波紋を呼んでいる。当の佐渡金井町航空自衛隊佐渡分とん基地では、表面は平静を取り戻しているように見えるが、隊員の中にショックの波が広がっている。小西は勤務成績も優秀で政治活動などもしなかったが、大学の通信教育を受けており、スクーリング(直接指導課程)に参加のため上京したが、その後、人が変わったように反戦″を口にするようになったといわれ、一方下宿の主人は「孤独で物事をつき詰めて考える性格」と語っている。10月18日午前8時頃、小西が隊舎食堂入り口に「佐藤訪米阻止」など3枚のビラを張り出したので、同基地浜司令が全隊員に「使命を自覚せよ」との訓示を行なった。基地関係者は異口同音に「隊内には特別な反響なし、平静だ」としているが、各隊員の受け取り方はまちまち。いずれも「ショックだ」としているが「隊員にあるまじき行為」という一方、「もっと考えさせてほしい」との声も多く、反戦ビラの投げた波紋は隊内に大きく広まっている。また隊内で張り出される10日前の8日深夜に同町内に「全自衛隊共産主義者同盟」の反戦ビラ百数十枚が張り出されていた事実も明らかになり、これには隊内で張った小西誠三等空曹(20)が関係したことが確実視されている。ビラ百数十枚はいずれも相川署などで押収した。隊内と同様、佐藤訪米阻止、安保粉砕、沖縄解放のほか、治安訓練拒否、ブルジョア政府打倒などが赤と青のマジックで書かれていた。同町新保の下宿にはマジックの跡がついた、ビラを書いたと思われる小机があり、小西が書いたのは確実とみられている。隊内での交際も少なく、下宿にくる友人もなかったというだけに、小西1人の仕事という見方が一般的だが「あれだけのことが1人でやれるか」と疑問視するむきもある。電話も隊から以外の者はなかったが、ビラ張りの前後に1回ずつ男の声がかかっており、1人説を疑問視する裏づけとなっている。「下宿からはほとんど出ず、本を読んでいるようでした。孤独で物事をつき詰めて考える性格」と下宿の主人は語っており、部屋には「マルクス主義哲学講座」「都市の論理」「都市ゲリラ」などが積まれている。法政大学法学部の通信教育を受けており、現在2年生。壁にはレポート提出予定表が張られ、憲法問題についてのレポートの下書きもあった。壁にかけた佐渡分とん基地にくる前にいた第4術科学校時代の優良賞状やスポーツカーのグラビアが若者の部屋らしいふん囲気を出している。一方、レーダー基地勤務の自衛隊員による反戦運動について、防衛庁と航空幕僚幹部は70年″を前に他の隊員への影響を考慮、極秘裏に調査を続け、ひた隠しにしていた。「背後関係はないし、単純な出来事」と表向きは平静のようだが、自衛隊始まっていらいの不祥事″とあって、同庁首脳部は今後の監督指導の方法に頭を痛めている。小西は勤務成績も優秀で、政治活動などもしなかったが、夏休みを利用して、法政大学通信教育のスクーリング(直接指導課程)に参加のため上京した。その後、人が変わったように反戦″を口にするようになったことから、同庁では「この上京中に反戦思想の影響を受けたのではないか」とみている。9月ごろからは隊員の間でアカ″呼ばわりされるほどになっていた。島田同庁官房長は「小西1人だけの問題で、グループとか共謀者はいないし、他の部隊にはこうした傾向はみられないので、とくに通達や警告といったものは出さない」という。だが、他の隊員への影響や世論を懸念していたことは事実で「非常に難しい問題だが、政治問題についての監督指導のやり方を検討する必要はある」といっている。
S44.11.22(1969)平和運動は自由だ/信念を持ってビラ張り/弁護士を通じ語る反戦ビラを張り、自衛隊法違反容疑で逮捕された小西誠元三曹と接見した今井敬也弁護士=新潟市寄居町=は「本人は元気だった。選任弁護士の承諾を得たので今後起訴された場合、裁判を通じて自衛隊、自衛隊法の違憲性を追求したい。同じ考えの弁護士とともに行動する」と次のように語った。小西元隊員はまじめな態度で、信念を持ってビラ張りをしたのであり、法廷でも断固戦うといっていた。ただ、今まで接見も差し入れも禁止されるという扱いを受けてきたため、本が読みたいといっていた。ビラは9月末から自分でガリ版を切り、数回にわたって隊内のカベや佐渡金井町の電柱に数百枚張った。その内容は「反安保」ということだけで、短い接見時間だったので、自衛隊を否定する字句があったかどうかは聞いてこなかった。本人が隊内外でビラを張ったこと、隊員にビラを配布した事実を認めているので、起訴された場合、自衛隊、自衛隊法そのものが憲法違反として、無罪に持ってゆく。すでに仲間の弁護士2人の同意も得ており、さらに多くの仲間に呼びかけてゆくつもりだ。本人はビラ張りなどの事実は認めていても、自衛隊員が平和運動、反安保の行動をとってもよいという信念を持っている。違憲問題はともかく、検察側がとった今回の態度は異常だ。
S44.11.22(1969)地検を告発へ/社党県本部が方針日本社会党県本部(杉山善太郎委員長)は、反戦、自衛隊員が逮捕、極秘裏に捜査を進めていたことを重視、自衛隊法の違憲問題、小西隊員の基本的人権が侵害されている可能性もあるとして調査に乗り出し、侵害の事実が確認された場合は逮捕した新潟地検を告発する。社会党は、自衛隊法で政治活動が禁止されている以上、隊員の資格を失うのはやむを得ないとしても、逮捕した上拘置を続けていること、本人も不当拘置を主張していることなどに加えて、戦争をいやだという自衛隊員がいても不思議ではないという見解。このため11月21日、今井敬弥弁護士、斉藤勲党県本部書記次長が新潟地検におもむき事情を聞く一方、小西隊員とも接見した。同党本部では、さらに今日22日には東京から松井誠弁護士(社会党参院議員)を招いて、この逮捕事件をめぐる法律的な問題を協議する。その上で23日に予定している党執行委員会で新潟地検を人権侵害で告発する方針。
S44.11.22(1969)教育学部長岡分校全共闘が戦術転換/封鎖を自ら解除11月13日から新大教育学部長岡分校(押見虎三主事)の校舎2むねを占拠していた全共闘系の長岡反戦共闘会議(学生約10人)は22日、闘争方針を転換し、バリケード封鎖を自主的に解除すると学校側に申し入れた。13日以来、事務、授業など封鎖のために変則的に行っていた同分校も24日の月曜から正常に戻ることになった。同分校は封鎖以来、学生、教官を交えた全学討論集会(18日)、クラス討議などを重ねてきたが、教官、一般学生の間にも「封鎖という手段は悪い」という声が高まっていた。封鎖学生はこれらの声を背景に討論を重ねた結果、同日「闘争は継続していくが、戦術転換をする」と解除の方針を決めた。教官と封鎖学生は同日早朝から話し合いを続け「今後、誠意をもって話し合っていく」ことで了解した。占拠された校舎は全く荒らされておらず、良心的?態度に押見主事もホッとした表情だった。
S44.11.22(1969)新潟地検怠業せん動″で小西元三曹を起訴/治安訓練などから疑問新潟地検は最高検の指示で、自衛隊法違反容疑で逮捕した佐渡金井町、航空自衛隊第46警戒群佐渡分とん基地所属、小西誠元三等空曹(20)を22日午後8時すぎ、同法64条(怠業のせん動禁止)違反で新潟地裁へ身柄付きで起訴した。小西元三等空曹の容疑は10月5日から同20日にかけ、5回にわたって佐藤訪米阻止、自衛隊はブルジョア階級打倒のため立て、治安訓練拒否″などのガリ版刷りビラ約100枚を同分とん基地の庁舎、隊員送迎用バス、金井町の電柱、民家の板壁などに張り出した。このビラの中に、警備訓練に参加しないよう隊内の自衛隊員に呼びかけるビラが含まれていたというもの。最高検は、新潟地検が指示をあおいだため小西元三曹の処分について協議したが、政治行為制限(同法61条)は犯罪の立証が難しいとみて「ビラに怠業をせん動した文章がある」という理由で22日、64条のみを適用して起訴することにした。検察当局が起訴処分を決めたことで、自衛隊と自衛隊法をめぐる憲法裁判が開かれることが確実となった。弁護団としては真っ向から憲法違反として争う構えを見せており、この事件が憲法判断を避けられない性質のものとみられているだけに、裁判の行方が注目される。一方、小西元三曹が懲戒免職になっているため、この処分を不当として民事訴訟でも裁判所が憲法判断を迫られることになる。弁護団は当面、身柄付き起訴をやめ、身柄を釈放するよう最小限の要求を検察側に強く行う方針。また、接見(面接)禁止のまま長い期間拘置していたなどの事実を不当として検察側の責任を追及することになろうという。
S44.11.23(1969)けさ新大に機動隊/本部・4学部の封鎖解除へ全共闘系学生による学園封鎖が続いている新潟大学では、11月22日夜、長崎明学長が緊急に評議会を招集し協議した結果、23日午前零時過ぎ、県警本部長に対し「機動隊の出動」を要請した。これに基づき同本部は、県警機動隊など約1000人の警官を動員、同5時半、新大の封鎖解除に入った。同大では全共闘系学生により2月21日から本部が封鎖されたのを初め、7月1日から医学部第一・第三内科の研究室、10月21日から人文、理学、教養の3学部と商業短期大学部のある西大畑キャンパスが封鎖されていた。同大評議会は、10月11日の学生同士のゲバルトによる市街戦″、同21日の西大畑キャンパスのバリケード封鎖など紛争流動化を背景に、同28日の評議会で機動隊導入問題を検討し▽人命に危険が及ぶ恐れのあるとき▽建て物破壊、器物損壊が急速に進むとき▽長期にわたり教育、研究、事務の機能が障害を受けたときーなど導入に関する条件8項目を決定していた。しかし現実面では「自主防衛、自主排除」の基本方針の姿勢を変えず11月7日には教職員総決起集会を開催し自主解決″への意思統一を図っていた。だがすでにこの段階では学内世論として「導入やむなし」の空気が強くなっており、具体的政策のない大学執行部に不満の声が集まりつつあった。さらに@12月早々のタイムリミットをひかえた人文学部の授業再開問題A教養部の授業再開と来年度の入試問題B年度内に消化すべき大学予算の執行問題ーなど管理運営上現実的なタイムリミットが重くのしかかり、長崎執行部は決断″を迫られた恰好となっていた。機動隊導入の要請は、人文、理、教養、医学の各学部と大学本部の封鎖個所である。
S44.11.23(1969)【注】10・28評議会が決めた機動隊導入のさいの8項目の条件。@人命に危険が及ぶ恐れのあるときA人権に重大な侵害があるときB建て物破壊、器物損壊が急速に進むときC大量の武器、凶器、危険物の搬入が明らかなときD危険物のある建て物に侵入する恐れがあるときE変電室、電信、電波施設に侵入した場合F付属病院および付属義務教育施設に侵入したときG長期にわたり教育、研究、事務の機能が障害を受けたとき。
S44.11.23(1969)新大機動隊導入封鎖を解除/助教授ら3人逮捕/全共闘系学生は姿消す/火炎ビン押収県警本部は11月23日朝、新潟大学長崎明学長の要請に基づいて機動隊など警官約800人を動員、全共闘系学生に封鎖されている同大本部と4学部の封鎖を解除した。同大学に機動隊が入ったのは開学以来初めて。警官が出動した時には全共闘系学生の姿はなく静かな封鎖解除作業に終始した。しかし、拠点の1つだった理学部では、最後まで正門前に陣取った野村助教授(教養部)ら3人が不退去罪で逮捕された。また、学内から火炎ビン35本、パイプ、投石用の石など凶器が発見された。県警は、大学当局の要請で、24日から数日間学内に機動隊100人を駐留させる。この機動隊導入による封鎖解除で、新大側は、数日間、学生の構内立ち入り禁止措置をとりながら、当面の課題として授業早期再開に全力をあげる方針。同大は、これを契機に曲がりなりにも授業再開″学内正常化″の方向に向かうものとみられるが、根本的な解決までには、なお多くの課題が残されている。県警は同日午前零時5分、長崎学長の要請で、県警機動隊、各署の警官約800人を動員、警視庁の放水車2台も加えて封鎖解除に当たった。午前6時過ぎ、長崎学長の退去呼びかけを合図に600人の警官が医学部第一・第三内科研究室、理学部、教養部、人文学部に入り、続いて大学本部と商業短大の解除に当たった。各学部、本部とも警官出動時には全共闘系学生は姿を消しており、作業はなんの抵抗もなく進んだ。不退去罪で逮捕された3人は、同大教養部助教授野村彰(37)=新潟市小金町、同講師佐藤信行(29)=同西大畑町、同大学生活協同組合職員蓮沼勝男(27)=同市内=とわかった。一方、封鎖解除と同時に行った学内捜査で、教養部702号教室から、火炎ビン35本が発見されたのをはじめ、本部内などでパイプ、角材、400個余りの投石用石が見つかった。警官の解除作業は午前7時過ぎ一応完了したが、封鎖期間が9カ月と最も長かった大学本部は、床板をはがしたり、机、イスなどが破損するなど手のつけようがなかった。県警は、大学側の要請で学外に逃走したとみられる全共闘系学生らの再封鎖などに備え、24日から数日間、機動隊約100人を人文学部キャンパス、本部、医学部周辺に駐留させる。
S44.11.23(1969)長崎学長記者会見/当分は機動隊を駐留/自主的努力に限界長崎明新潟大学長は、学内封鎖が解除された11月23日午前10時から、教育学部長室の臨時大学本部で記者会見し、機動隊導入についての同大評議会声明を読み上げたのち、導入後の対策、授業再開、学内正常化″の見通しなどについて、次のように述べた。話し合いと自主解決を目ざしてきたが、封鎖個所は5カ所にのぼり、封鎖期間も長いものは9カ月に及びようになった。最近は施設の荒廃、研究用薬品、燃料、砕石収集など、危険な行動も目立ってきた。このままでは、さらに学内は荒廃することが予想されたが、すでに大学の自主的努力ではどうにもならないところまできたと判断したので、機動隊導入を決定した。当面の目標は授業の早期再開だが、施設の荒廃がはなはだしく、授業を行なえる状態ではないので、まず、その復旧、整備を行う。これに数日かかる見込みである。また学内が落ち着きを取り戻すまで、医学部と西大畑キャンパスにそれぞれ30人前後の機動隊に駐留してもらうつもりである。機動隊導入により、大学内での人心荒廃が深まるだろうとの声もあるが、大学として学内民主化、大学改革を積極的に推し進めることで、この心の傷跡はいやせるだろうと考え、これに精力的に取り組んでいく方針だ。新潟市民、特に大学周辺の人々に、長期間、多大な迷惑をおかけしたことをお詫びする。
S44.11.23(1969)長崎学長マイク手にゆがむ顔/力なく「退去して・・・」長崎学長の封鎖学生に対する学外退去命令をきっかけに、機動隊の実力行使が行われる予定だった。が定刻″になっても学長は現れない。3分・・・5分・・・10分・・・。腕時計は刻々、時を刻んでゆく。学長が、予定された人文学部前の路上に姿を現したのは、定刻″より約25分おそい午前6時5分だった。その周囲には、安河内正新大本部庶務部長のほか、機動隊の指令車と県警幹部、庶務部長が、無言でハンディ・スピーカーを差し出す。学長も無言で受け取る。ゆっくり口元へ持っていった。が、すぐには声が流れない。「どうした?」回りの顔が学長をのぞき込む。1秒が1分にも感じられる緊張の一瞬。筋肉が硬直したような顔がゆがみ、口が動いた。「私は・・・新潟・・・大学長です。私は、新潟大学長です。学生は直ちに学外に退去してください」声は沈んで力がない。およそ5分後、場所を理学部正門に移し、3回、4回、同じ呼びかけを繰り返すと、平井学生部長らを伴って、直ちに臨時大学本部が設けられた教育部長室へ。しかし全共闘系学生2、3人が「機動隊導入の責任を問う」と、学長のあとを追いかけると、足早にどこかへ、2時間近く、その姿を隠していた。2時間後の午前10時、記者会見に現れた時は、ふだんの顔、胸のつかえたものがおりたのか、あるいはまた大決断を下したのちに訪れる一種の安らぎだったのか・・・。
S44.11.23(1969)早朝の新大/長かった封鎖/解除あっさり/助教授ら無言の抗議/荒れた事務室研究室は安泰/30人が激しくデモまだ暗い11月23日早朝、警官隊が、新潟市西大畑と旭町にまたがる広大な新大キャンパスを完全に包囲した。大学へのすべての道路は封鎖された。「直ちに学外へ退去を・・・」こわばった表情の長崎学長が封鎖占拠された建て物へ同け、マイクで呼びかけた。あかあかと電灯をつけた人文、理、教養部正門バリケ−ド内に3人の教職員。バリケードに突っ立つ男が「何とかして戦い抜くぞお、機動隊帰れ」と叫ぶだけ。ジュラルミンタテが風に飛びガシャガシャン。緊張した空気がビーンと張る。やがて完全武装の機動隊が、各所でどっとバリケード排除にかかった。しかし、どこにも学生の姿はなく、封鎖解除は2、30分で終わった。冷え冷えした校舎を1人見回る白髪の小山誠太郎理学部教授。「これから、フェアな話し合いによる長い戦い″が始まります」と静かに話していた。新潟大学キャンパス、午前5時封鎖された建て物の窓々は明るい。2人、3人と私服警察官のパトロール姿が見えるだけだ。町々はヒッソリ寝静まっていた。5時25分、川岸町の警察学校グランドを出発した800余人の機動隊員らがサッと配置につき、封鎖されたキャンパス・建て物をビッシリと包囲した。巨大な戦車を思わせる放水車は医学部と人文学部の2カ所へ配置。東京から応援に駆けつけて、この日に備えたものだ。まだ暗いキャンパス周辺は、機動隊と報道陣の動きでにわかにあわただしくなった。理・教養部正門バリケードに赤白の小旗がサッと上がった。続いて黒い影が1つ。ジュラルミンたてを構えて待機する機動隊は無表情。報道陣が駆け寄ってライト、フラッシュを浴びせる。バリケード内には消火器が6本置かれている。3つに増えた人影の1つが「われわれは戦うぞお」と叫ぶ。私服刑事が「声に張りがないな」といって余裕を見せ、低く笑う。大学へ通ずるすべての道は封鎖されたので、一般市民の姿や車は全くない。6時を過ぎて、長崎学長(人文・理・教養)、大鶴医学部長代行(医学部)や河津新潟中央署長らの「退去」呼びかけ、「建造物侵入検挙」の警告、マイクの声が繰り返し住宅街に響き渡るが、外へ出てくる人はほとんどない。一方、医学部第一、第三内科研究室に近い付属病院は、小児科の患者ら200人の避難で騒然。しかし、全員が事故なく外来病棟へ。6時20分、医学部の封鎖解除を手始めに、封鎖5カ所へどっと機動隊がはいった。だが、どこもも抜けのから。第三内科研究室のフロはまだ暖かく、理学部宿直室では半分めくったふとん、開け放しの窓ーと、ついさっきまで学生がいたかのよう。本部学長室の壁には「機動隊ごくろうさまです。みなさんの手をわずらわせないため、ぼくらはあらかじめ消えておきます」の落書き、床は踏み場のない荒れよう。長い封鎖″解除後の建て物内部はどこでも研究室や教室はほとんど荒らされていないが、事務室は惨たんたるもの。理学部では電話やタイプをこわしたうえ、消火液を一面にぶっかけるというやり方。応接室にはインスタントラーメンの袋もあって、彼らの生活ぶりを示していた。学生不在″の中で、バリケード内に最後まで残ったのは、理・教養部前の野村彰教養部助教授ら3人の教職員。かつて、ハンストで全学に訴えた野村助教授、コート姿で静かに機動隊出動に対した。腕を組んで終始黙っていた野村助教授に一瞬機動隊がひるむ。5、6人で押し包むようにする機動隊員に腕を取られて消えた。一方、封鎖解除が行われていた午前6時半ごろ、突然、教育学部前から大学本部前にかけて全共闘系学生約30人が激しいデモ。機動隊が無届け″を理由に規制に乗り出すと、デモ隊は付属小の校内に逃げ込んだ。この騒ぎで付属小中は3年生の高校進学模擬試験の会場を変更する一幕もあった。封鎖解除が終わり、非常招集で駆けつけた教職員は、それぞれの職場の跡片づけを始めたが、理学部では「これはひどい」「これが大学生と称するヤカラ″のやることか」ともっていき場のない怒りで顔を曇らせる。どれから手を付けていいのかわからず、べったりすわり込む職員。薄日の漏れるころからニュースを聞いた学生や市民が集まってきた。ある主婦は「ほんとに終わったんですか。もう学生はいないんですね」と何度もいっていた。
S44.11.23(1969)【要請から解除まで】【22日】午後8時 新潟大、緊急評議会招集、封鎖解除のための機動隊出動要請について最終協議。 【23日】午前0時 評議会、出動要請を決定。 午前0時05分 県警、出動要請を受ける。 5時30分、放水車2台を含む機動隊800人、新大周辺に配置完了。同時に新大周辺の一般交通を禁止。 6時05分 長崎学長の「退去命令」第1号が人文学部正門前で。 6時20分 医学部第一、第三内科研究室を皮切りに、人文、教養、理学部、大学本部と次々に機動隊の解除作業が始まる。 6時30分 新大全共闘系学生ら数十人が「封鎖解除反対」「警官導入反対」を叫んで、教養部ー新大本部の間を1時間にわたってデモ。 6時45分 理学部正門バリケードから動かない教養部・野村彰助教授ら3人を「不退去罪」で逮捕。 7時14分 大学本部封鎖解除で全学の解除完了。いずれも全共闘系学生はモヌケのカラだった。 
S44.11.23(1969)新潟中央署前で抗議新大全共闘系学生約40人は11月23日午後、機動隊の学内導入、封鎖解除に抗議して新潟中央署へ押しかけた。同日午後2時40分ごろ、封鎖解除で学園を追われた全共闘系学生が同署前に集結し、「官憲の弾圧粉砕」「学園闘争勝利」などを叫んでデモを行ったほか、11・13デモで逮捕、拘留されている学友に向けて、「連帯して最後まで戦おう」とシュプレヒコールを繰り返した。同署の「無届けデモ、無届け集会」の警告に、約20分ほどで引き揚げ、引き続き教育学部前の路上で、学園内の機動隊と対面しながら抗議集会を開いた。
S44.11.24(1969)反戦自衛隊員の小西を保釈/記者会見 平和の名で戦争の用意/違憲確信/内部に仲間いる佐渡自衛隊事件で自衛隊法違反に問われ、新潟地検から起訴された小西元三等空曹(20)に対し、新潟地裁(佐藤誠二裁判官係り)は弁護団の請求を認め、11月24日午後2時保釈を決定した。時おり激しい雨の降る午後4時過ぎ、小西元三等空曹は、渡辺喜八、坂上富男両弁護士に伴われ新潟刑務所を出所した。長身で色白。正門前で待ち受ける報道陣のカメラフラッシュを浴びて一瞬緊張した表情。20日間余も拘置された疲れは見られない。白のトレンチコート姿で、立ち止まってポーズをとる余裕も見せるほど、自信に満ちた笑いさえ浮かべ、しっかりした足とりで乗用車に乗り込み、県弁護士会館へ向かった。釈放後の午後4時20分から小西元三等空曹は松井誠、渡辺喜八、坂上富男の各弁護人に付き添われ、県弁護士会館で刑事被告人としては異例の記者会見を行い、記者団に「いろいろお世話になりました。今後もよろしく」と頭を下げ、終始しっかりした口調で次のように語った。−逮捕前のもようは:1日午後1時ちょっと前に自衛隊警務官に逮捕され、佐渡空港からヘリで新潟へ着き、午後4時ごろ拘置所に留置された。−地検の取り調べ状況は:リラックスした取り調べだったが、私自身より私の背後関係に重点を置いていた。被疑事実についてはすべて自白した。−自衛隊が違憲と思ったのはどういうことか:自衛隊については3年前から疑問を持ち、平和の名のもとに戦争をしかけていると感じて法律を勉強しているうちに違憲の確信を持った。−現在の心境は:釈放されてうれしいだけ。私の行為は正しいと信じている。−通信教育のスクーリングで一般学生との接触は:親しい友人と大学立法について話し合っただけ。学生の反戦運動には加わってはいない。警備訓練とはどのような訓練か:武器を持たずに制止、排除をする治安訓練だ。70年以降に向けて明らかに革新団体、デモを押さえることを目的にしている。70年安保には自衛隊の出動が行われ、内乱になると感じた。こうなると、日本にとって悲しいことになる。自分がやらなければと思った。−背後関係はどうか:個人でやったことだ。−自衛隊入隊の動機は:からだと精神を鍛えたいという単純な動機から、懲戒免職は間違いないと思っていた。後悔はしていない。−なぜ自衛隊の中で反戦運動をやらなければならなかったのか:自衛隊はもしあるとすれば、国民生活の安全のためにあるべきものだ。権力のためにある現在の自衛隊の中で隊員自身がやらなければならないと思った。−同じ考え方の隊員はいるのか:いる。会ったこともある。−これからの身の振り方は:よく考えてみたい。法廷闘争もあるので、法律をもっと勉強したい。「取り調べ記録の閲覧を要求」:会見後、渡辺、坂上両弁護人は「公判は1月以降になるだろう。検察庁に取り調べ記録を閲覧させるよう当面は要求し続けてゆく」と語った。また松井弁護人は社会党国会議員として「自衛隊内で治安訓練が行われている事実が初めて内部から明らかになった。これは政府・自民党にとって大きな打撃となろう。今後の国会、選挙戦でこの問題を追及してゆく」と語った。なお小西元三等空曹はさしあたり加茂市加茂の渡辺弁護人宅に落ち着く。
S44.11.25(1969)野村助教授を釈放新潟地検は11月25日、新潟市小金町、新大教養部助教授野村彰(37)を釈放した。野村助教授はさる23日朝、新大封鎖解除のさい、不退去罪で新潟中央署に逮捕され、24日同容疑で身柄付き送検されていたが、同地検では同助教授が身元を明らかにし、当日の行動についても明確にしていることから、拘置する必要がないと判断、釈放した。
S44.11.25(1969)新大人文学部長代行に山田教授新大人文学部教授会は11月25日、健康上の理由から辞意を申し出た中村一彦学部長代行の辞任を認め、後任の学部長代行に山田英雄教授(49)=現評議員・史学=を選んだ。ただし同学部は職員まで拡大した新規定による学部長選挙を近日中に予定している。
S44.11.26(1969)きょうから医学部授業再開機動隊導入で封鎖解除し終戦処理″のため7学部をロックアウト中の新潟大学では、11月25日医学部がきょう26日から、歯学部が27日からの授業再開を決定。全学的には25日の対策会議で再開問題を検討しており、同日の教育学部教官会議では数日中に再開したいとの意向がまとまっている。
S44.11.26(1969)佐藤首相きょう帰国/焦点、解散の決断に/あす党首会談 民社、公明は受諾佐藤首相は日米首脳会議を終えて11月26日午後3時10分、羽田着の日航特別機で帰国する。首相は27日に野党党首との会談を開き、訪米成果について報告するとともに、帰国当日または27日に保利官房長官、川島副総裁、田中幹事長ら政府、与党首脳と当面の政治情勢をめぐって会談する。これにより国内政局は局面を変えて、現在最大の焦点となった解散ー総選挙″について佐藤首相がいつ、どのように決断を下すかに絞られる形となった。佐藤首相は、空港でステートメントを発表、直ちにヘリコプターで首相官邸入りする。首相官邸では午後4時半から日米首脳会談の結果、今後の国内政局について記者会見で所信を明らかにしたあと、同5時半から自民党両院議員総会に出席して帰国報告をする。11月27日の党首会談には民社、公明両党はすでに参加の意思を明らかにしているが、社会党は「共同声明の内容を報告して、国会冒頭に解散する含みでの党首会談には応じられない。しかし衆参両院での代表質問のほか、予算委などの委員会を開き、共同声明の内容を明らかにするとともに、補正予算、生活関連法案の審議をする用意が政府にあるなら会談に応じる」(成田委員長記者会見)とし、共同声明や補正予算の審議などが党首会談開催の前提条件だとしている。社会党はすでにこの条件を自民党に提示しているが、自民党が条件をのみ、社会党の党首会談参加が実現することはかなり難しいものとみられている。
S44.11.26(1969)椿教授が骨折/きのうの全共闘つるし上げ授業再開した新大医学部で11月26日、「機動隊導入きゅう弾」を叫ぶ全共闘系学生が脳研究所椿忠雄教授を取り囲み、導入問題などで詰問、もみ合いが続いたが、この騒ぎで同教授が左ロッ骨1本を骨折していることがわかった。この騒ぎは同日午後1時過ぎ、医学部研究とうのロビーで、たまたま通りかかった椿教授が全共闘系学生につかまり、つるし上げの状態になったもの。医局員、職員が再三同教授を救出しようと試みたが、学生たちが抵抗、午後2時半過ぎになって機動隊がかけつけ騒ぎはようやく収まった。しかしその後、同教授はからだの痛みを訴え、同付属病院整形、放射線の各科で精密検査を受けたところ、ロッ骨骨折が判明、治療後自宅で静養することになったが、全快には数週間かかる見込み。同教授は現在脳研究所長で同大評議員。水俣病、スモン病などの権威。
S44.11.28(1969)投石や違法デモ続く/県警「椿教授傷害」で捜査県警本部と新潟中央署は、新大脳研究所椿忠雄教授が全共闘系学生に乱暴された事件を重視、11月28日から傷害事件として捜査を始めた。また封鎖解除後も無届けデモや投石などが出ているため、こうした違法行為を強く規制する方針を決め、大学側に対しても「違法行為を目撃したり、被害を受けた場合には通報するよう」申し入れた。23日封鎖解除後、県警では大学当局の要請で、本部、医学部、人文キャンパスに約100人の機動隊を駐留させ、学内が正常化するまで警備に当たることにしている。しかし26日午後1時過ぎ、医学部研究とうロビーで、椿教授が「機動隊導入きゅう弾」を叫ぶ全共闘系学生に取り囲まれ、もみ合いのすえ、左ロッ骨にヒビが入るけがをした。また27日昼間には全共闘系学生ら約30人が、無届けで教育学部前市道でデモを繰り返したうえ、警備に当たっている機動隊員や学内に投石するなどゲリラ的な違法行為が続いている。警備当局はこうした学生の動きを注視していたが、これ以上違法行為が続くと人文、理、教育、教養などの授業再開が遅れる一方、たとえ再開しても授業妨害で、実質的な正常化は難しくなるーとして積極的な規制に踏み切った。
S44.11.29(1969)医学部第三内科会決議/まだまだ遠い新大正常化/研究室は使わぬ/根本解決されるまで11月23日学内に機動隊を導入した新潟大学では4学部がロックアウト中で終戦処理″の作業が進んでいるが、この中で再三「機動隊導入で問題は解決しない」と導入反対を訴えてきた医学部内科第3教室(市田文弘教授)はこのほど開かれた第三内科会で封鎖解除後も「三内科会の姿勢が決まるまで研究室における日常生活は行わない」ことを決議した。またその他の学部でも機動隊がいる限り構内に入らないともらす教官も出ており、同大の正常化の難しさを物語っている。第三内科の論議では@医共闘(医学部学生で組織されている)の主張はある程度理解できる。またその共通点をどう考え、行動するかまだ煮詰まっていないA教授の地位が内科会の一員であり、また教授会の一員でもあるように矛盾した場合もあり、総意が伝わりにくいB機動隊導入ー封鎖解除のなかでいままで進めてきた医局民主化が逆戻りする心配があるーなどが焦点となった。その結果、第三内科会の今後の姿勢ー診療、教育、研究がどうあるべきかなど各種の論議の結論が出るまで、単に機動隊導入という物理的な力で封鎖解除された研究室には入らないということで、参加した22人の構成員のほとんどが一致した(投票による)。同内科はすでに今年に入ってから製薬資本と手を切るなど積極的な姿勢を示していたが、全共闘系学生から「第三内科の民主化は手ぬるい」などの批判を受け、7月1日に研究室が封鎖されていた。今回の決議に対して同内科会では「ただ機動隊導入に反対して研究室に入らないということでなく、根本的に問題が解決されていない状態で納得するわけにはゆかない。特に研究のあり方など深刻な問題があり、その意味でも現在研究室に入ることは出来ない」としている。
S44.11.29(1969)新大授業、全面再開へ/夜間は警官、パトロールさる11月23日の機動隊導入以来、学生の構内立ち入りを禁止していた新潟大学人文、理、教育、商短の各学部と教養部は、12月1日から全面的にロックアウトを解き、授業を再開(人文学部は2日から)することになった。長崎明学長は29日午後の記者会見で「学生間に授業再開への熱意が高まっており、評議会を開いた結果、早急に再開へ踏み切ることに決定した」と語り、同時に警備に当たっている警察官の引き揚げを発表した。この結果、人文学部は3カ月ぶり、理学部、教養部は40日ぶり、教育学部、商業短期大学部は1週間ぶりに授業が再開されることになり、授業が軌道に乗れば一部で懸念された留年問題も解消することになる。大学当局はしかし、夜間の構内警備は職員だけでは不十分だとして立ち入り制限を行なうとともに、警察官のパトロールを要請、昼間も各学部周辺の警戒を続けてもらいたいとしている。今回の授業再開がそのまま学内の正常化″に結びつくとはいえないが、大学側が教授会、評議会である程度「思い切った」方針を打ち出したことが注目される。
S44.12.1(1969)新大学園よみがえる/全共闘系の妨害の中機動隊導入で封鎖解除し、11月24日からロックアウトを続けていた新潟大学は12月1日、全面的に授業を再開した。教養部、理学部は10月21日以来約1カ月ぶり、教育学部は1週間ぶりの授業となった。各学部とも午前9時から授業が始まり、学生たちが久しぶりに姿を見せた。教養部では、割れた窓ガラスにベニヤ板が張られたプレハブ校舎で、ひっそりと授業が始まり、やっと落ち着きを取り戻したよう。しかしこの朝、全共闘系学生十数人が再びヘルメット姿で学内に現われ、理学部前で、ロックアウト用のバリケードを持ち出して通行を妨害。さらにデモで学内を回り、教育学部では、31番教室で始まっていた同学部是常高保講師の専門講義「道徳教育」に押し入り妨害を続けた。このため再び県警機動隊2個小隊が出動、警戒に当たった。しかし全体に一般学生は無関心な表情で各教室に姿を消し、平穏な授業再開となった。大学当局は授業再開に際して、学内でのヘルメット、角材、鉄パイプなどの携帯、着用や、教育、研究などに支障を与える行為の禁止を告示。さらに夜間午後7時以降の学内入構を禁止するなど非常態勢をとっている。
S44.12.17(1969)人文学部新学部長に伊藤氏新大人文学部は12月17日、新規定にもとづく学部長選挙を行ない、伊藤岩教授(経済学)を新学部長に選出した。今回の学部長選挙は、投票権を職員まで拡大した「民主化選挙」で、さる11日全教職員が参加して(91人)第一次選挙を行ない、学部長候補適任者3人を選出、17日の第二次選挙は候補3人に対して教官層が最終投票した。 伊藤岩教授:東蒲三川村出身、昭和18年九大法文学部卒、同24年新大人文学部助教授、同41年教授、48歳。
S44.12.17(1969)新大人文学部学生参加″もナンセンス?/学部長選挙にソッポ/一般学生大会にも集まらず12月17日新大人文学部の学部長選挙が行われた。今回の同学部の選挙は投票を職員まで拡大したとともに、学生の不信任投票を教授会が認め、新大初の「学生参加」が行われる可能性もあり、注目されていた。ところが参加のチャンスが与えられた学生側は予想に反して全く無関心。「学生が要求すればいつでも応じる」という教授会の姿勢は無視された格好となった。先月中旬同学部教授会は民主化を目的とした学部長選挙規定の改正を行なった。これは職員まで参加を認め、さらに学生参加を検討。討議の結果、規約の中に学生参加を明文化することは、文部省の承認チェック(北大教育学部、名大理学部など)があるため、避けることにした。しかし基本的には参加を認め、学生側の要求が学生大会で決定されれば候補者選出後40日以内に学生が不信任投票を行なえることを確認していた。だが、ゲタを預けられた″学生側は無反応。教官の要望もあり、この10日に学生大会を開いたが、「予想以上に出席が少なく、あきれた」(教官側)結果となった。このため40日間以内の不信任投票という同大初の学生参加は見送りの状態。こういった熱の入らなぬ学生側の動きについて同学部学生自治会執行委員のA君は「紛争が機動隊導入という結果で終わり、一般に混とんとした空気が強く、学生の要求として意思統一することは難しくなった」と説明する。学生の決議機関としての学生大会がここ数カ月成立したことはなく、一般学生の大半が拒絶反応″を示し、執行部も手を焼いていたともいえる。講義を受けに来た一般学生の声を総合しても「学生参加といわれてもどうも。あまり積極的な関心は持たないなあ!」といった言葉が多い。また執行部は「カリキュラムや生活条件など密着した要求でなければ意思統一は無理」といい、自治会系学生は「本当の目的は決定過程への参加」として積極的な動きをしなかった面もある。一方、教官側は予想通りといった空気が強い。まず「自治会組織に問題がある。執行部も組織の弱さに悩んでいるのでは?」といった声。また「学生一般に切実感がない。極端なことをいえば、学生とってはどうでもいいことなんだ」「学生参加することは結果に責任を持たなければならない。責任回避もあるネ」といったところ。そして「すべておぜん立てしなければ、何とも出来ないというのでは困る。そういったことは極力避けたい」と学生への風当たりは強い。
S44.12.18(1969)新大再建へまず「加村」試案「人文・理・農・商短」/教養課程はタテ割り/組織民主化に総合人事も/統合移転、改革が前提新潟大学の改革を考える同大再建会議の人文・理・農・商短分科会(委員長・加村崇雄農学部助教授)は、12月17日までに管理・運営、研究・教育組織についての改革試案″をまとめ、18日開かれた再建会議本会議に「中間報告」の形で提出した。報告の中では、教授会の自治を打破した民主化を前提として@教養課程と専門課程の並行履修を行なうことA教官の審査制度の確立B職員・学生の学部運営への参加などー具体的な改革を提示している。また「統合移転問題」については改革を前提に移転することを基本姿勢として具体的条件を指摘した。この報告は同大の改革案づくりのトップを切ったもので、同大の改革が一応軌道に乗ったものとして注目される。同分科会の作業は、人文、理、農、商短の4部門から3-4人の再建委員が参加、十数回の討議のすえ、報告がまとまった。また8月の再建会議の「教授会民主化勧告」と並行して進められたこともあり、教授会の拡大など改革の一部はすでに実現されているところもある。中間報告は、「管理・運営」「研究・教育」についてそれぞれ各学部の現状分析と問題点を指摘、学部ごとの改革の方向が示され、最後に4学部を総括した改革のまとめが述べられている。その骨子は「管理・運営」面で、@教授会民主化A助手層の地位問題B学科・専攻・研究室の民主化C学生・・職員の学部運営への参加ーなどをあげ、また「研究・教育」面では@教養課程と専門課程の並行履修Aカリキュラムへの学生参加B教官の審査制度の確立C学部・学科・講座の壁を破った共同研究の確立D予算の平等化ーなどが指摘されている。民主化については「たんに構成員の拡充だけでなく身分制度そのものを検討すべきだ」と批判。具体的な問題点として▽人事権がいまだに教授に委ねられており、早急な民主化が必要(農学部)。全学的にも学部の壁を破った総合人事″をーと改革の方向を示している。また学部運営への学生、職員の参加については▽学部長選挙への参加▽学部協議会(三者協議会)の発足▽学生組織(自治会)、職員組織(職員組合)の交渉権を認めるーなどがあげられている。一方、研究・教育の方向として、教養課程と専門課程の関係を重視、「学術の高度の専門化と、境界領域の活発な開発などにより、基礎課程のあり方、人間形成の問題が急速に取り上げられ、教養課程と各学部の専門課程の関係は大学の本質的な問題でもある」としている。そして具体的には、教養と専門課程の並行履修を考え、教養部のヨコ割り制度(1年生は教養部所属という形)からタテ割り制度(4年間を通じて教養科目を履修する)への移行をあげている。また教育組織では、複合学部の現行制度を再編成すること(人文)、研究間では研究・教育の業績を中心にした教官審査(人文・5年に一回研究報告)を制度化すること、カリキュラム編成に学生を参加させることーなどが考えられるとしている。その他施設面で図書館の充実(研究室と図書館をつなげた建て物配置など)。また商短の「夜間総合学部」への移行案など具体案が示されている。大きな課題である統合問題については、中間報告で述べた再検討、改革を第一の移転条件にあげ、特に厚生施設面で学生寮、教職員宿舎、交通機関などの整備を要求している。

◆新潟大学統合移転闘争の経過 その4(1970年1月〜3月)

年月日見出し事     項
S45.1.1(1970)新潟大学長長崎明/全学あげことしこそ新年およびそれに続く70年代は、何をおいても教育を大切にする時代であってほしい。世界に例を見ない高度成長をとげたわが国にあって、教育行政はあまりにも貧弱過ぎたと思う。すなわち目覚ましい科学の発達、驚くべき技術革新の中で、教育もまたすさまじい勢いで大衆化の傾向をたどっている。この国民的要求にこたえるためには、小・中・高・大学ともに、その「いれもの」といい、「なかみ」といい、あまりにも小さく、みすぼらしすぎる。そのヒズミが、一方では教育ママや教育パパを生み、他方ではゲバ学生を生んでいる。ここ1、2年、大学という大学は激しい紛争の嵐に襲われた。それは高校、中学にまで及ぼそうとしている。新潟大学もその例外ではなかった。これらの動きの根源もまた、わが国の教育行政のあり方と無関係ではない。したがって、機動隊導入という非常手段によって、一応の平静化が得られつつあるとはいえ、これで大学問題が根本的に解決したわけではない。いや、ことしこそ真の意味での大学づくりの第一歩が始まるのである。大学らしからぬ大学の存在が是認されてきたのは、大学人自らの責任でもある。われわれ大学人、特に教育・研究に責任を持つ教官・研究者は、黙って自己のカラに閉じこもっていてはならない。今こそ1人ひとりが声を大にして「教育を大衆の手に」、そしてそのための「文教予算の増額・文教施設の充実」「定員増・待遇改善」などを訴える必要がある。新潟大学において、統合整備計画が紛争の契機となったのは、このような新しい大学づくりの一環としての統合整備の位置づけが、大学人1人ひとりに認識されてもいなかったし、かつ計画の立案・実施に際して各層の意志を民主的に反映できる機構を持ってもいなかったことに、その原因の1つがある。ことしこそ全学をあげて大学改革に取り組み、統合整備のための基礎を固めたい。ところで、大学人はだれしも、総合大学であるからには、タコ足大学や駅弁大学でありたくはない思っているはずである。思ってはいるが現実には、そのために必要とする膨大な予算を通じての政府や文部省を通じて政府や文部省との関係、、政治家との関係、地元との関係、等々を考えてたじろいでいるだけである。もし教育・研究・学習のための施設はもちろんのこと、住宅・寮・その他の福利厚生施設が完備し、かつ学部や学科・講座制などのワクを越えて自由に学問できる民主的な学園都市が建設されるとしたら、教官・研究者はいうまでもなく、職員も学生も統合整備に喜んで賛成するはずであろう。統合整備の実現は学内問題でもあると共に、学外との間にも大きな接点を持つからこそ、きわめて困難な問題だとされる。しかし新潟大学の統合整備を成功させるチャンスは、この70年代を逃したらおそらく永久に来ないであろう。民主的な人間関係と近代的な教育研究施設、福利厚生施設を持つ総合大学をつくりあげたい。それが新潟県の教育界のためにも役立つことを信じたい。新しい10年の第一年を迎えるに当たり、日ごろは放言を許されぬ学長も思い切ってこんな夢を描いてみたいのである。
S45.1.7(1970)新大再建会議分科会が提案/教養課程をタテ割り改革/「一般」「専門」並行させる/教官の全学出勤体制を新大の改革を考える同大再建会議の教養課程分科会は1月7日までに教養課程改革の基本的方向を示す改革案を「討議資料」の形で本会議に提出した。改革の骨子は@教養課程を横割りから縦割りに変えるAプロジェクト・ゼミナールの全面的実施B総合科目の新設C一般教育への全学出勤体制の確立ーなどになっている。特に縦割り制への変革は教養課程の抜本的改革で、これは全学に関係した大きな変革にも通ずる重要課題を含んでいる。討議資料は「現代社会の課題と大学の役割」と題するはしがきと「一般教育の理念」「現状と欠陥」「改革構想の基本方針」「教育課程(カリキュラム)改革」「一般教育における組織機構の改革」「統合問題と教養部移転」の各6章で構成されており、約4万8千字にのぼる労作。まずこれからの大学のあり方として新大は「専門学校、単科大学の寄り合い所帯的な性格があり、実質的機能として総合大学″といえない実情である」しかし多様化する社会的要請に答えようとするならば「異質のものが、相互補完的に成果を高める形態は総合大学」しかないとして、新大再建の長期目標は総合大学の実質化″にあるーと述べている。そして「総合大学の実質的意義を特に教育面で生かすのが一般教育″の使命である」という命題をすえて教養課程改革の口火を切っている。この改革提案は同分科会のメンバー約2000人が半年がかりで練り上げた。教養部ばかりでなく、他学部からもメンバーが参加し、ある程度全学的視野にたった改革案となった。また当面の「統合問題と教養部移転」については「教養課程のあり方から全学統合の必要性」を確認し、さらに教養部の移転は当面の物的条件を確保するため早急に進めるべきだとしている。
S45.1.7(1970)改革案の骨子▽現状と欠陥:@一般教育軽視の全般的風潮A担当教官スタッフの貧困および不適正配置B予科的性格の残存C授業形態の欠陥Dカリキュラムの構造的欠陥E教養部専任教官の研究体制上の問題F施設の貧困ーをあげ、改革のための基礎資料としている。本論の「改革構想の基本方針」では、思い切った革命的な解体再編″よりも実行可能な改良的再編成″をめざす同分科会の基本方針を前提としている。▽教育課程(カリキュラム)の改革:「科学的、総合的世界観」を育成することを目標として「専門領域およびそこに身を置く自分を客観的に見つめる目をつくる・・・カリキュラムが必要である」と指摘し、そのために「一般教育と専門教育を並行させる」縦割り方式を基調とする改革提案をしている。そして横割り形態に代わる組織として、たとえば@専門履修系統A総合科目系統B選択科目系統を考えるという。このための「教育方法」として@教官不足(教養部教官の不足)をカバーする形をつくり、一般教育の全学から教官が応援する全学出勤体制″A少人数教育をめざすプロジェクト・ゼミの実施ーをあげている。プロ・ゼミは「学生の自発的研究への計画指導をするゼミ」とし、学問への導入、問題解決能力のトレーニング、人間関係の確立を目的としている。そしてこれは改革の中でも最も早く実現できるものと指摘している。▽一般教育における組織機構の改革:「教養課程科目別委員会の設置」「教養部組織の強化」をあげている。教養課程科目別委員会は@基礎科目委員会A選択科目委員会に分かれ、それぞれ履修科目の指定、実施・運営、学生の指導・助言などをする交通整理″の役割を果たす。また教養部組織については、縦割り移行によって廃止するのではなく一般教育に対して最終責任を持つ扇のかなめ″として存在させる考えだ。
S45.1.16(1970)新大工学部分科会が中間報告/「移転統合望ましい」/カリキュラム再編は必要新大の改革を考える同大再建会議工学部分科会の「工学教育、研究のあり方」についての中間報告がまとまり、1月16日新潟市で開かれた同会議本会議に提出された。その骨子は@工学部カリキュラムの再編成A修業年限の延長B大学院制度の再検討ーなど。改革の基本姿勢を述べたもので具体的な方向は出されていないが、教養課程縦割り移行を支持し、また統合については新潟地区移転が望まれるとしており注目される。中間報告は「総合大学における工学教育、研究のあり方」「工学部の統合問題について」「工学部内の民主的意思形成について」の各3章から構成されており、それぞれ工学部の現状分析と改革の方向が示されている。「工学教育、研究」については「高度に、また急速に発達する科学・技術に対応できる学識、技術を身につける必要があり、さらにそれが人類の発展に役立つものかどうか判断する目を持たなければならない」として現行のカリキュラムの再編成を強調している。これによると、現在工学部における必要単位数は110単位以上で、自由選択、人文・社会科学系科目の組み入れは難しいという。このため改革の方向として必要最小限の専門基礎必修科目、各科共通の選択必修科目、その他の選択科目によるカリキュラムの再編成を行なう。さらに縦割り制の教養課程に基礎専門科目を移し、それでも時間不足となる場合は「修業年限を1、2年延長する」ことも考えられるという。また大学院工学研究科については、現在の修士課程が腰かけ的であることから修士課程として独立のコースを考え、大学院制度全体を再検討する必要があるとしている。また工学部にとって当面の重要課題である「統合問題」については「これからの工学教育は専門ばかりでなく社会的、経済的因子を含む問題を認識しなければならない。このためにも工学教育は真の総合大学において行われることが望ましく、工学部はすみやかに新潟地区に統合移転し、1つのキャンパスで教育を始めることが望ましい」と結論している。ただしこの問題については、教職員の生活、宿舎問題など各種の議論があり、さらに調査分析活動を通じて移転実現の道を探らなければならないとしている。
S45.1.17(1970)新大 電算機導入こっちが先だ/長岡と新潟が争奪戦/利用度、統合からみ大もめ「コンピューターをよこせ」−先端を行く電子計算機の導入をめぐって新潟大学で長岡・工学部対新潟地区の内ゲバ?ならぬ争奪戦。現在、理学部電子計算室の計算機は年々高まる学内の利用に比べて容量が小さく、46年1月ごろには限界に達する。大学本部は1台1億数千万円する大型電算機の導入を計画した。ところが、大学全体の使用時間の72%と圧倒的に多い長岡市の工学部は「本部に大型機を入れるより、現実に利用価値の高い工学部に4、5000万円の専用中型電算機を設置すべきだ」と強く主張。大学統合問題ともからんで新潟と長岡でコンピューター誘致合戦になった。39年に電算機が導入されてから、工学部の学術研究、教育内容は格段に充実した。他学部の電算機利用とは根本的に異なり、複雑なプログラムの作製、人間が1年間もかかる非線型微分方程式など高等数学計算をわずかの時間でやってのける。工学部の利用は必然的に増大した。43年度の調査では利用時間で全学7万9千時間のうち工学部だけで5万7千時間と71.8%。利用者も全学55人に対して28人、53%と非常に多い。ところが工学部の電子計算室にはパンチ機が1台ポツンと置かれているだけ。パンチャーもおらず、利用する教官、学生は自分でプログラムをパンチする。しかも出来上がったプログラムは郵送″で本部に送り、電算機にかけたうえ、回答をまた郵送してもらう。早くても1週間かかる。電子計算室運営委員の工学部電子工学科斉藤義明講師は「プログラム・エラーの訂正や、正確な計算をだすためには何回も電算機にかけなおさなければならず、相当時間がかかる、半年、1年にもなるケースがかなり多い。どうしても工学部に設置してもらわなければ教官の研究や学生の授業にも障害がある」と強調している。工学部で最も利用されているのは@電子工学A電気工学B機械工学C精密工学の順で、現在ではパンチを使用するにも10日前に予約しなければ使えない。今年から学生には一般理論としては教えるが、実際の使用法は教えない非常手段も講じ、卒論が書けず卒業できないという悲痛な声も学生の間に起きている。電算機の導入をめぐるこの問題は、新大の統合移転の行方と大学改革もからみ合って微妙な段階を迎えている。改革を考える再建会議の共通施設分科会では重要問題の1つとしてコンピューター導入をどうするか討議されているがまだ結論が出ない状態。「70%以上の利用度からいえば工学部設置はスジが通る」「工学部が移転をどうするか、態度をはっきりさせてほしい」などの論議があり、決着には時間がかかりそう。
S45.1.18(1970)新大全共闘ら 東大決戦記念でデモ/雪もなんのその!新大全共闘、ベ平連主催の東大1月決戦記念″デモは、1月18日午後3時から約150人が参加、雪の降り続く新潟市の新大教育学部前ー営所通りー柾谷小路ー西堀ー古町ー県庁前のコースで行われた。新大全共闘系ら反戦団体のデモはことし初めてだけに、参加も昨年行われたデモを上回る数。デモ隊は70年闘争を勝ち取ろう″安保破棄″東大闘争勝利″のシュプレヒコールを続けながら、交差点ではツルツルの路面もなんのその、ジグザグ行進、しかし機動隊の規制で混乱はなかった。デモでは新大学生、ベ平連のほか、高校生のヘルメット姿が目立った。
S45.1.27(1970)新大学生 教授会になだれ込む/渋谷教授ら2人を軟禁/機動隊が救出新潟大学(長崎明学長)で1月27日、教養部移転阻止を叫ぶ中核、学生解放戦線系などの学生約20人が、教養部教授会に出席していた渋谷武教養部長と春田素夫同助教授を約2時間半にわたって軟禁状態とし、このため大学当局は県警に機動隊の出動を要請して両教官を救出″した。同日午後3時過ぎから、人文学部会議室で開かれていた教養部教授会にヘルメット姿の学生がなだれ込み、渋谷、春田両教官を引きずり出して、人文40番教室にカンヅメ状態″にした。学生たちは「教養部移転決定を一方的に決めるのはなぜか」などと2人をつるし上げた。さらに学生たちは両教官を無理やり先頭にして学内、外をデモ行進。一般学生の集まっている生協学生食堂で詰問した。大学当局はこのため同日午後4時40分、警察力導入を決定、機動隊2個小隊が出動。教養部プレハブ校舎わきの学生食堂では、機動隊と学生が対決″の格好。この間渋谷教授が救出″され、春田助教授もその後解放された。ちょうど夕食時間だったため食事中の学生も多く「機動隊帰れ」のシュプレヒコールや、食器、イスなどが乱れ飛んで騒然となった。こんどの学生側の行動は「27日教養部教授会で同部の五十嵐地区移転が最終決定される」とのうわさが流れていたこと、学生の各セクトが再び闘争の立て直しのため当面の目標として「教養部移転阻止」「入試粉砕」をスローガンにして教授会粉砕″の行動にでたものとみられる。なお同大の機動隊導入は、11月23日、同26日、12月23日に続き4度目。
S45.1.27(1970)新大再建会議 教育学部改革で報告/生きた学問習得を/統合″結論出ず新大の改革を進める再建会議の教員養成分科会は1月27日までに同大における教員養成のあり方、現状の分析、教育学部分校統合問題などを骨子とした教育学部の改革の方向について中間報告をまとめ、同会議本会議に提出した。焦点の統合移転問題については、新潟地区本校と長岡、高田の分校の間に根本的な食い違いが浮き彫りにされ、高田分校の主張する「教員養成単科大学」と本校の「統合の利点」がそれぞれ述べられことだけに終わり、結論は出なかった。これで同大再建会議4分科会の改革案が出されたことになる。中間報告は「教員養成のあるべき姿」「教員養成の現状」「問題点の要約と改革の方向」「教育学部統合問題に関して検討すべき諸論点」の各章から構成されている。同報告の中心課題である教員養成のあるべき姿では、人間のあり方、教育の本質への理解のために生きた学問を学ぶこと″が必要としている。このためにも卒業年限を延長、6年にすべきでないか、という意見が出されている。教員養成の現状については、まずカリキュラムの複雑さが指摘され@整理と系統性をはっきりさせるA教育職員免許法の制約はあるが、選択履修の改善B学部規程細則と実際の開講科目が不一致であり再検討する必要があるーなど提案されている。そのほか教育学部の体質として、研究教育上、3分校のの分散によるムダが指摘され、地域エゴを反映した教授会の体質に疑問が投げかけられている。
S45.1.30(1970)長崎学長が評議会に試案″/新大統合、今おいてない/まず教養部と理学部が移転長崎明新大学長は、1月30日開かれた評議会に「大学統合の基本方針」ともいえる学長試案″を提出し、昨年2月白紙撤回″となり、再検討に付されている「統合問題」の論議の集約を図りたいとの意向を表明した。学長が統合問題に正式な見解を示すのは、執行部が全学に再検討を約して以来初めてであり、同問題が新段階を迎えたものとして注目される。同試案は、今月上旬の部局長会議、1月22日の評議会に草案が提出されていたもの。内容は、すでに学内に発表されている再建会議の改革中間報告とにらみ合わせ、大学当局の統合に対する姿勢、考え方がまとめられている。白紙撤回、紛争の経過を踏まえて「いまの機会をのがして大学の統合はあり得ない」との立場から、総合大学の充実を目指すべきだとの基本的な考え方が示されている。また統合についての各種の障害も考え、現実的な方策を考える必要があるとしている。たとえば「学部によっては大学の範囲を超え、県の教育政策にも影響することも考えられ簡単に結論は出せない」という問題もあり、まず移れるところから移っていく″といった現実面を重視しているといえる。このため同試案は、当面の重要課題である教養部、理学部移転について「移転する」ことを前提としており、それに続く各学部の移転問題を取り上げている。大学執行部としては、まとめられた評議会の結論を中心に、同試案を全学に提示する方針。同大の統合移転問題は、学園紛争のきっかけともなり、山内前学長が白紙撤回″を表明、その後再検討の形で論議の対象となっていた。しかし紛争の激化で学内の流動状態が続いたため、統合問題は一時、凍結状態″。昨年11月23日の機動隊導入で平静化した同大では、再建会議の改革作業とともに移転問題が再びクローズアップされていた。この点について同学長は「再建会議の作業が進展しており、大学執行部としてもそれに対応する時期だと考えている」と語っている。一方、教養部、理学部の移転は行政ベース″ですでに「教養・理学部移転問題小委員会」が交通機関(列車、バス)、電話施設、学生宿舎など新キャンパス整備について具体的な検討を進めており、同教授会も「移転すべきである」との意向を固め、近く正式決議するものと見られている。
S45.2.3(1970)新大教養部が移転決める/論議4時間、投票で/1年ぶり凍結″から抜け出す新校舎移転についての結論が注目されていた新潟大学教養部(渋谷武部長)は2月3日午後、教授会を開き「五十嵐地区移転」を最終決定した。紛争のため移転問題がこじれていた同部は1年ぶりに新年度から新潟市五十嵐地区の新校舎で教育・研究を行う見通しとなった。また白紙撤回″後、凍結状態″となっていた統合移転問題は全学的に新しい一歩を踏み出したことになる。同部教授会は同日午後3時過ぎから同大大学本部で「移転問題」を議題に約4時間にわたる討議を行ない、「移転」を決定した。同部では新年早々から、移転問題を中心に論議が続いていたが、新年度移転を前提とした場合、引っ越し作業″などの手続きから、2月上旬には結論を出さなければならない状態だった。同教授会では、今後この決定に基づき教養部学生に対してパンフレットなどで移転の必要性を訴える一方、自治会の移転に関する諸要求についても検討してゆくことにしている。教養部移転は、統合計画の第一次計画として昭和43年に新校舎建設を始め、44年4月には全施設が完成していた。しかし43年末から同大で起きた統合移転紛争のため大学当局は昨年2月7日統合計画を無条件で白紙撤回″。このため同年4月には移転するはずだった教養部はひとまず移転を断念、紛争もどろ沼化していった。しかし機動隊導入で紛争は一応収拾され、約1年間放置されていた新校舎への移転が大学の大きな問題となっていた。この中で、新大再建会議では1月上旬、教養課程分科会が改革の方向とともに教養部移転は必要との見解を示した。これに対して学生側は、中核、解放戦線系のセクト学生を中心に再び「移転阻止」の動きを見せ、同月27日には渋谷教授、春田助教授が数時間にわたって軟禁される事件も起きていた。3日の教授会にもセクト学生を中心に30人余りが大学本部に押しかけて、大学当局の要請で出動した機動隊に投石。小ぜり合いが続き学生1人と報道関係者1人が軽いけがをするなど大学本部周辺は一時騒然とした。なお現在五十嵐地区に建て物建設中の理学部では「教官、職員、学生間で移転にともなう研究、教育の条件について話し合いを続けており、まだ結論は出さない」(茅原学部長)としているが、移転はほぼ確実とみられている。
S45.2.5(1970)新大教養部新潟・五十嵐地区移転決定/意気込む商魂/ほっとした下宿屋/喫茶店も便乗で引っ越し/ばす列車通学に増発、延長〇・・・新潟大学の教養部の五十嵐地区移転が、長かった凍結″の氷も解けて、やっと決まった。学内はもちろん、学外からも「一体どうなってんの}と注目されていただけに、このニュース、波紋が広がっている。写真は完成したまま1年間ーしんかんとして人の気配もない新校舎。うっすらと浮かぶホコリが窓からいっぱい差し込む日の光に浮いて見える(教養部階段教室)・・・〇「1年間全くあき家」:「大学の先生が見えて、学生のために協力してくれなんていうもんだから、その気になって倉庫を改造、下宿用に12部屋作ったというのに1年間お預けで大変でしたわ、他の人に貸しても学生向きなんで評判よくないし」と内野町7区の中原三平さん。五十嵐2の町の若杉平助さんは学生さん専用にと6畳1間のかわいい住宅をいっぺんに30戸も建てて話題になった人。「1年間全くのあき家。待ってました。カゼが治ったら早速、大学に申し込みに行かないと・・・」その大学の教養部厚生係では「3月になったら下宿先の心配を始めようと思っています。毎年500人前後は、こっちで面倒を見ないといけないんですが。一昨年、五十嵐地区でアンケートを求めたところ、200位しか部屋がなかったもんで・・・。場所が変わるので早めにチラシなど配らないといけないでしょうね」「マージャン屋進出か」:500人収容の大食堂があるとはいうものの、学生につきものなのがコーヒー店。現校舎のの近くに店を出している店主は「うちは学生さんがお得意さん。当然行くことになるでしょうね」と言い、地元にも、小ぎれいな喫茶店でもともくろんでいる向きは2、3にとどまらないようである。「今の学生は、遊ぶからマージャン屋でもやろうかなんて、冗談言ってんですよ」と学生さんの心底を見透かすように言う内野町の商店主もあった。「新潟西署も近くに」:レジャーといえば、国道116号線からキャンパスに分岐する、その絶好の地にボウリング場が出来つつある。オープンは7月とか。出資者の1人、藤田哲司さんは「土地買ったときは大学のダの字もなかったんですがね。24レーンでオープンして、ゆくゆくは32レーンにまで持ってゆきたいですね。もちろん学生さんは大切なお客さんになると思ってますよ」。その先をさらに200mほど行くと、まさか学生さん相手ではあるまいが、建設中なのがモテルとか。その正面に新潟西警察署が引っ越してくる。キャンパスの脇腹といった地の利。「大学紛争に都合がいいだろうって?そうじゃないですよ。あの交差点が中心ですし、この建て物の定員は30人位、今64人でしょ。変に勘繰らないでくださいよ」と和田署長。45年度中に着工はまず間違いないところ。「西新潟の核″へ脱皮」:商店街の期待も大きい。「1700人ですか。そのうち何人がこっちに下宿してくれるかわかりませんが、日用品ほかいろんな面でお金が落ちますからね。大学移転をキッカケに、商店街の近代化をというムードがあります」と食料品店の中原さん。「関分とからめて、このチャンスを生かし、西新潟の核″にと考えてます。うちなんかも、なんでも屋から専門化へ!」と衣料品店の藤田さん、新しい商店街への脱皮の引き金として期待している。
S45.2.7(1970)新大白紙撤回″から一年/教室に帰る闘士たち/大学側に主導権 正常化ひた走り昨年2月7日、新大紛争の原点ともいうべき「統合計画白紙撤回」から1年。少数の活動家学生の孤立した闘争″以外、昨今の新大はひっそり静まり返っている。そしてくしくも1年目にして「教養部移転」が決まった。終戦処理″から新大再生へと動き出す第一歩ともいえる。また「時の流れの激しさをこれほど感じたことはなかった」とある教官、紛争はまだ大学人1人1人の心に深い軌跡を刻んでいるようだ。雪のうずもれた長岡市の新大工学部。紛争の口火を切った工学部教養自治会のかつての闘士″たちが進学している。「長岡のボロ校舎を見て現実に直面したのか、観念論は振り回さなくなりました。非常に熱心に講義に集中していますよ」とある助教授は語る。昨年11月23日の機動隊導入以来、教室に復帰した学生たちは多いという。「新潟の冬はどうも動きにくくって」とある活動家。「かつての全共闘の実体などあるはずがない」とセクト批判に終始する学生もおり、学生戦線そのものが再編成″する時期を迎えているといえそうだ。そして最後の最後まで沈黙を守り通した一般学生。「ノンポリと言われるのは頭にくるけど、実際何もできないしナ」と正直な返事もある。これに比べて主導権は大学側に移った感じ。今年に入って「白紙撤回」以来の紛争の総括″、さらには今後の展望というべき学長試案″の提案、再建会議の改革作業、そして教養部の移転決定と「正常化」をひた走りといったところ。「当時と比べて話し合う基盤が出来ていると思います。これは前進ですね」と長崎明学長は評価する。「白紙撤回」は一面学生対策とも受け取られているが、もう1つは学部の足並みが大きく乱れてた結果生まれた落とし子″。その自己批判″は紛争を通じて行われたともいえる。しかし「白紙撤回」が生み出したいくつかの障害は依然としてつきまとっている。「撤回で統合問題は実質2年遅れた」との指摘通り予算面での苦しさは消えていない。予算の保留分も今はまったく白紙の状態。予算要求は1からやり直す「よほどしっかりした統合計画をつくらないと、文部省がウンというかどうか」今後の心配もあるのだ。ある科では教授の回診大名行列のなくなった医学部、徹底した民主化を図った人文教授会、その他の学部でもいくつかの変化″はある。そして全学的合意″を目ざす統合計画の再検討と大学の体質が、今後どう変わっていくか注目される。
S45.2.7(1970)高田市議会新大移転阻止で対策懇/4月に総決起大会も高田市議会新大特別委員会では2月7日市役所で上越出身県議、市町村教委、公孫同窓会代表ら28人を招き、新大対策懇談会を開いた結果、新学期から教養部を新潟市五十嵐浜に統合移転する新大当局の姿勢にあくまで反対、阻止運動を行なうと共に、改めて高田に4年制の国立教員養成単科大学を設置する運動を展開することを決めた。このため22日ごろ上、中越出身代議士を含めた対策委員会を作り、文部省を始め関係機関に陳情する。また高田城跡観桜会期間中の4月15日に高田市で関係代議士、県議、市町村教委、PTA、公孫同窓会、地域住民代表など2千余人を集めて総決起大会を開き、その決議文を持って文部省、新大、県知事に強力な陳情を行うことにしている。同特別委員会では中教審の答申による新しい大学″の構想がまとまるまで新大の統合問題にストップをかけ、教員養成機関を総合大学から切り離すという決定が出た時にこの方針に乗り、一気に目的を達成しようという意向のようだ。
S45.2.8(1970)新大教育学部の就職/先生の城″に異変/まだ半数が未定/助教らも「正規入り」ねらう今春、新しく先生になろうとしている人たちの就職の門が極端に狭くなっている。新潟大学教育学部を卒業する学生たちで県下での就職を希望している者のうち採用が内定したのは、まだわずか45%。半分以上の学生たちは大きな不安を持ったまま卒業しようとしている。同学部学生自治会は完全就職実行委員会を作り、完就闘争″を展開しているのだが・・・。教育学部卒業予定者で、本県の教員採用試験を受けたのは209人(小学校154、中学校43、その他は高校、養護)。このうちA評定を受けて採用が内定したのは97人(小87、中8、高2)。ちなみに採用率をはじくと、小学校56%、中学校に至っては19%に過ぎない。C評定の2人は採用はほぼダメ。B評定の110人は「需給状況ににより採用することもある」(県教委)ということだが、同学部厚生係は「いったいどれだけ採用されることやら」と厳しい表情だ。県教委がさきの県会総文委で出した採用見通し数は、小学校300人、中学校100人。それなら就職希望者はそっくり就職できそうなもの。ところが県下には期限付き採用という身分不安定な講師、助教論が小中学校合わせて260人余りいる。この人たちも正規の教諭を狙っているわけで「従って新卒生には確かに狭き門ですがなア」と県教委も認める。こうした状態に対し、学生たちは@全員就職させよA講師、助教諭を生むなBABCの評定基準、採用基準を明らかにせよC教育予算増額、教員定数のの拡大ーを訴えて闘争″を続けている。「先生が余っていると県教委はいうが、現実に正規の教諭以外に講師、助教諭がいることは先生が不足していることを意味しているのではないか」「講師、助教諭を首切りのクッションにしようとしている」「同じ大学で同じ勉強した学生たちを評定でランク付けするのは大学の学問研究を否定するものだ」「しかも評定の方法は筆記試験のほかに面接、在学中の成績、人物調書などによる総合判断だというが、不明朗だ。たとえば活動家学生はAにはなれない。評定を通じて学生の思想の自由を否定している」などが学生の言い分。学生たちはこの闘争″では単に学生の就職問題に限定せず、父母負担の軽減、へき地教育の質の向上など教育″そのものの改善という幅広い問題としてとらえており、今後、教員組合、婦人団体などにも呼びかけて共同闘争″を組む構えでいる。
S45.2.9(1970)渋谷教授軟禁事件 新大、5学生に警告/暴力は破滅を招く″新大教養部教授会は、さる1月27日に起きた教授会妨害、教官軟禁″に加わっていた教養部学生5人に対して警告を与えるとともに、氏名を公表し、2月9日学内に掲示した。同部では今回の処置について「処分ではない」としているが、紛争を通じて学生暴力に関連して氏名が公表されたのは初めて。この事件は27日午後3時過ぎから、人文学部会議室で開かれた教養部教授会に、中核、ML系学生約20人が乱入し、出席していた渋谷武部長、春田素夫助教授を引き出し、隣接する人文40番教室でつるし上げて軟禁状態。さらにデモに連れ出して学内外を行進した後、再び第二学生食堂で詰問を続けた。このため大学当局は機動隊の出動を要請し、両教官を救出した。同部ではこの事件を重視し、2月3日の教授会で厳重警告することを決定「教授会としては学生の良識に訴え、率直に話し合うならば何らかの局面の転換が可能かもしれないとする信頼があった。しかし当日の学生の暴力的拒否″から、期待は裏切られた」として「もはや微温的態度は許されない、明確に対決的態度をもって責任を追及していくべきとの声もあり、悪質な暴力的行為でこのまま推移するならば自ら破滅に陥るだろう」と警告している。そして警告文とともに「参加した学生のうち現在までに事実を確認しえた者」5人の氏名を公表した。しかしこの処置について大学当局では「学則による処分とは考えられない」(本部学生部)としており、退学、停学などの具体的な処分は考えられていない。ただ今までの紛争中起きた暴力事件″についての大学側の措置よりは強いものであり、また評議会でも破壊、暴力的行為についての告訴問題が取り上げられている。これに対しセクト学生、同大反戦青年委員会は「処分」として受け取り、処分撤回要求など対決姿勢を強めている。
S45.2.10(1970)新大工教自 移転撤回へスト/強い教官不信/学生大会で決議新大教養部の工学部教養自治会(学生数315人)は2月10日午後1時過ぎから、同部704番プレハブ教室で学生大会を開き、さる3日の教養部移転強行採決撤回などをスローガンにストライキ権を確立、早期大衆団交を要求して今週中にストに突入することは必至の情勢となった。学生大会には約230人が参加。討論の過程で、ストに入る場合の確認事項として@スト中は1週間ごとに学生大会を開くAスト実行委員会の設置B学生の総意に基づかない校舎の封鎖、教官の引き回しは行わないC大衆団交の結果いかんではスト解除を考えるD政治闘争は避けるーなどを採決、スト決定の投票に移った。この結果、賛成131、反対72、保留27でストを決議した。工教自がスト態勢をみせたのは、昨年4月16日同自治会が5カ月に及ぶストを解除して以来、10カ月ぶり。しかし昨年、全共闘系学生の母体となっていた同自治会が、セクト介入を嫌い、大半の学生がセクトアレルギー″をみせるという変化が出ている。このため学生側の動きは一般学生を中心に「教授会の出方いかん」といった柔軟性″がみられる。またスト決議の背景には「教官がはっきり答えない」など学生全体の教官不信がうかがわれる。当面、教養部教授会は、移転決定の経過について学生側に説明する方針でいるが、大衆団交に応ずるかどうかが焦点となっている。
S45.2.12(1970)新大工学部教養自 再びスト突入新大教養部の工学部教養自治会(学生数315人)は、2月10日の学生大会のスト決議に基づき、教授会に早期大衆団交を要求して、12日第1限から無期限ストに突入した。学生たちはこの日第1限から各講義をボイコット、スト実行委員会を設置させ闘争″の態勢。他学部の教養部学生に統合移転問題を考えるクラス討論を開くよう呼びかけていた。
S45.2.13(1970)新大統合 長崎学長が試案/「医・歯」除き5年以内に新潟大学長崎明学長は2月13日、「統合整備計画の基本方針」と題する学長試案を全学に提示、統合計画に対する議論の集約を呼びかけた。同試案は白紙撤回された旧統合計画に代わる新大統合の青写真といえるもの。基本姿勢として「五十嵐地区への移転は当面、教養、人文、理、農、工学部までを考え、医学、歯学部については現地整備を進める」として計画の実現性を重視、全学統合に固執しない方針を明らかにした。学長試案の提示で紛争の契機となった同大の統合移転計画は新段階を迎えており、学内外の反響が注目される。同試案は「白紙撤回・再検討の問題点」「統合整備計画についての基本的態度」「各部局の統合整備についての具体的計画」「建設の順序・年次計画」の各章で構成されている。基本的態度としては、大学の再編成、細分化の動きに対して「総合大学の実質化」が大学の教育、研究の充実につながるとして可能な限り同一キャンパスへの統合が望ましいとしている。しかし各部局の統合整備については現実面を重視、医学部、歯学部の移転に巨額の予算を必要とすることなどから、統合計画から除外して現地整備を行うこと、また教育学部は「同一キャンパスへの統合が望ましいが、地域社会の教育文化と結びついているなど議論があることから、まず学部の意思統一を図ってほしい」としている。ただ工学部については「教育、研究面から考えてぜひ五十嵐地区へ移転すべきである」ことを強調している。この結果、これからの移転計画としては、教養、人文、理、農、工学の5学部と大学本部、中央図書館、学寮などの移転を推進し、移転整備、現地整備のいかんにかかわらず、早ければ5年以内、おそくとも7-8年以内に完了したいとしている。
S45.2.13(1970)学長試案:新大統合整備計画の基本方針(要旨)新大長崎明学長は2月13日、同学統合方針の学長試案を全学に掲示し、全学的な討議を呼びかけた。全文は約1万5千字にのぼる。以下はその要旨である。一.白紙撤回・再検討の問題点:白紙撤回の妥当な解釈としては、全学統合か部分統合か、あるいは移転をもやめるかを含めて、基本的問題の再検討から出発することである。換言すれば、新潟大学は、大学の改革・民主化をふまえて、五十嵐地区の土地、建て物の利用をおり込みつつ、統合計画を、改めて考えていかなければならないのである。したがって、現在の体制をそのまま維持することは、もはや許されないのである。二.統合整備計画についての基本的態度:1大学における教育と研究との関連からみた本学の統合整備計画:大学における教育と研究とは、もともと分離すべからざるものである。そして、その基調には「人間性を尊重する教育と研究」を追及しようとする理念が貫かれていなければならない。そこにこそ総合大学の存在意義がある。各種大学に再編成・細分化される方向をたどらないためにも、同一キャンパスへの統合が望ましい。2大学における一般教育と専門教育との関連からみた本学の統合整備計画:総合大学の実質化を推進するためには、一般教育を大学教育の基調として位置づけ、それと併行させつつ専門教育を構築すべきである。具体的には次の2点が強調される。@一般教育を専門教育の単なる予科的な課程として位置づけてはならないA一般教育担当の教官組織の強化・充実を図ると共に、当面、全学出動体制をとることによって、一般教育の授業内容の改善をはかる。いずれにしろ、一般教育を大学教育の基調として位置づけようとの視点を貫くべきであり、このためには本学の場合、教養部校舎がすでに五十嵐地区に完成している現状にかんがみ、五十嵐地区ないし同地区にできるだけ近接したキャンパスに、各部局を統合することが前提である。3大学における教育・研究施設の近代化・巨大化と本学の統合整備計画:大学における教育・研究施設の急速な近代化・巨大化に伴い、その効率的利用と管理のためには、共通施設を同一キャンパス内に統合整備すると共に、共通施設を中心とし、関連学部を近接させることが望ましい。五十嵐地区への統合整備を急ぐべき理由はここにもある。4大学における福利厚生施設と本学の統合整備計画:新しい統合地たる五十嵐地区に、研究・教育施設を中心とする生活圏を設定するには、教職員・学生のための福利厚生施設を整備する必要がある。5大学における管理運営機構の民主化と本学の統合整備計画:大学は、その教育・研究上の使命を達成するために、学内各層の意志を反映できる民主的な管理運営機構を持つ必要がある。本学の統合整備計画の推進に当たっても、このことが重要視されなければならない。そして、これらの改革は、段階的、かつ持続的に粘り強く進められなければならない。
S45.2.13(1970)同上三.各部局からの統合整備についての具体的計画:医・歯・脳研関係:医・歯・脳研関係各部局とも、総合大学の理想像としては、五十嵐地区に統合移転すべきであるが、@これらの部局は相互関連性が深く、同一キャンパスにあることが望ましいA全建て物、施設の移転には巨額の予算と長年月を要するB現在地と五十嵐地区とが、それほど離れていないC患者にとって、市街地の方が便利であるD統合計画以前から、改築あるいは新築が予定されていたなど考慮して、さしあたり、現統合計画から除外した方が現実的である。そして、歯・歯学部病院は医・医学部病院の改築に影響の少ない位置を選択し、できるだけ早急に建設する。新研究とう・西研究とうの改築は、医・医病各層の意志を反映しつつ、再検討を終わり次第、早急に実施する。脳研・医付属各校の改築も検討が終わり次第実施する。2教育学部関係:教育(新潟)教育(長岡)教育(高田)を五十嵐地区に統合することは、本学における総合大学の実質化にとって重要な一環であり、教育学部が五十嵐地区に存在することは、教育学部内における教育・研究・管理・運営・福利厚生上の問題としても重要である。従って、教育学部の統合問題については、次の2点を条件として、学部として十分再検討を期待する。@再検討の経過および結論が、学部内各層のみならず全学の納得がえられるものであることA再検討の結果いかんが教養課程のあり方と関連するので、教養部移転の動向をふまえながら、再検討の作業を急ぐこと。3工学部関係:工学部は、是非とも五十嵐地区に移転し、理・農・医・歯の各学部とともに、理工系学部として相互に密接した研究・教育体制を組むべきである。このため、工は五十嵐地区への移転にとっての阻害要因についての検討と、その解決についての自主的な努力を、よりいっそう強力に推進する必要がある。4理・人文・農・商短関係:理は五十嵐地区に建設中の建て物が完工しだい直ちに移転する。人文・農は理に引き続き、できるだけ早い時期に五十嵐地区に移転する。商短は夜間総合学部の方向を目ざしつつ、五十嵐地区に移転するか、現在地で整備するかを検討する。5教養部関係:教養部は、45年度の新入生から五十嵐地区において教育を開始するものとし、そのための技術的問題(移転後の暫定カリキュラムの編成・住宅・下宿・学寮・交通条件・建て物管理など)の解決を急ぐ。長期にわたる一般教育改革の課題については、その後において、全学をあげ、本腰を入れて取り組む。まして、近い将来、全ての学部の教養課程を五十嵐地区に統合する。6本部・図書館・共通施設関係:本部・中央図書館・共通施設を、できるだけ早い時期に五十嵐地区に建設する。7福利厚生施設関係:統合整備計画に伴う福利厚生施設として、従来のものに加え、今後さらに学寮・職員宿舎・屋外運動場(野球場・ラグビー場)。学生会館・保健管理センター等を建設する。
S45.2.14(1970)きょう新大医学部脳研が発表/効果はっきりスモン病特効薬″ATP・ニコチン酸大量点滴/半数がシビレ薄らぐ/軽症ほど顕著釧路では88%が回復スモン病の特効薬″として新潟大学医学部脳研究所神経内科(椿忠雄教授)が開発した「ATP(アデノシン三燐酸)・ニコチン酸大量点滴療法」は昨年九月以来、全国的に試みられていたが、その結果が同内科でまとまった。それによると、この療法を受けた患者の52.1%に明らか″な効果が認められた。これまで各種の治療法が試みられていたものの十分な成果が得られていなかっただけに、この結果は高く評価され、きょう2月14日、東京で開かれる厚生省のスモン研究協議会臨床班の研究会で発表される。
S45.2.17(1970)新大学生機動隊と小ぜり合い/本部で移転撤回デモ新潟大学で2月17日午後、教養部移転撤回、早期大衆団交開催などを要求して一般学生、全共闘系学生約100人が新潟市旭町の大学本部になだれ込み、本部内で集会。大学当局の要請で出動した県警機動隊と衝突、双方に数人のけが人が出た。同日午後1時過ぎから、人文学部教養課程学生約200人は、教養部移転決定撤回要求などでストライキを呼びかける集会を教育学部内で開き、午後3時過ぎ、中核、MLなどセクト学生と一般学生約100人がデモ行進で大学本部に押しかけた。学生たちはそのまま本部内になだれ込み、2階廊下で再び集会を始めた。このため大学当局は機動隊の出動を要請、県警本部は午後3時25分、機動隊員130人を大学本部に出動させ、学生約100人を学外に排除した。学生はその後も機動隊と小競り合いを続け、学生の投石で本部の窓ガラス十数枚がこわされた。またこの騒ぎで機動隊員4人が投石などで顔や手足に負傷、学生数人も軽いけがをした。学生たちは午後5時すぎ、集会を開いた後、まもなく解散、混乱は収まった。
S45.2.19(1970)「移転決定」撤回しない/団交は拒否 新大教養部が回答新大教養部教授会は2月19日、さる12日から無期限ストに突入した工学部教養自治会の要求に対して@大衆団交に応じられないA教養部移転決定の撤回の意志は全くないーなど5点にわたって回答、慎重に行動するよう学生に呼びかけた。一方、工教自は同日午後学生大会を開き、要求項目、ストライキ体制などについて再確認長期戦″の構えをみせている。教授会回答は、パンフレットの形で学生大会の席上、教官側から配布された。まず大衆団交要求については「これまでの紛争の経験から大衆団交は建設的意見の交流の場でなく、学生間の対立だけしかない。力と力の対立、キャッチフレーズの絶叫のみの繰り返しで、暴力的言動によって言論の自由が妨げられている」として、真に自由な討論の場が回復するまで大衆団交には応じられないことを説明。また「大衆団交で移転決定撤回を要求しているが、教授会は撤回の意志は全くなく、応じられない」としている。さらに教授会の移転決定に関連して「移転に関する学生の意見反映の方法と現実的可能性は、全学生の意見を集約する学生自治のあり方が問題である。学生自身がその問題を解決できずにいるとき、教授会としては決定せざるを得なかった」と回答している。工教自の学生大会は約200人が集まり、鈴木保正同教授ら教官も出席、教授会の態度について説明があった。撤回要求をかかげる学生側はセクト介入を嫌いながらも、教授会に反発、双方の意見は平行線に終わった。
S45.2.22(1970)新大高田分校拡充期成同盟統合反対を再確認/4月に決起大会新大高田分校拡充期成同盟(会長小山高田市長)では、2月22日午前10時から、高田市の高田館で上越選出の大竹、木島、高鳥三代議士と高田分校教授、公孫同窓会などの代表を招き、新大対策懇談会を開き、今後の運動を話し合った。小山市長から「新大統合問題は地域の事情や政治的配慮を無視し、大学内部の意思統一を待って実現しようという姿勢が強くなっている」との情勢報告があったが、懇談会では「4月15日に関係者が集まって統合反対の総決起大会を開く」ことなどを決め、高田に教員養成大学が出来ない限り、大学の統合には反対してゆくことを確認した。
S45.3.20(1970)新大、きょう分散卒業式/式は教育学部だけ新潟大学(長崎明学長)の44年度卒業式は、きょう3月20日、昨年同様各学部、分校、商短に分散して行われる。またこの中で人文学部は卒業証書授与のみとなり、従来の式典をすべて取りやめた。同大学は既に昨年、それまでの統一卒業式を、紛争悪化のため学部ごとに分散。今年も「単なる儀式としての卒業式は意味がないのではないか」(人文学部)といった意見やマンモス卒業式を行なえる会場がないことなどの情勢から、分散の形となった。各学部、分校、商短ともそれぞれ午前、午後にかけて所在地の新潟、長岡、高田で実施する。式そのものも簡素化され、一応式の形をとるのは教育学部ぐらい。証書授与、学部長祝辞で終わるところが大半。人文学部では式典そのものを止めた。また学長の祝辞もなくなった。今年の卒業生は、商短を含み1107人(男子820人、女子287人)。大学本部厚生課の調べでは、就職率は2月末までで、工学部99%、農学部85.1%、理学部72.1%、人文60.7%で(教育学部は26日の教員異動まで未定)、人文卒業生の就職率が例年より悪くなっている。しかし最終的には80%を超え、全体でも85%前後に落ち着くものと見られている。
S45.3.20(1970)新大ひっそり分散卒業式/紛争″もあったナ新潟大学(長崎明学長)の44年度卒業式は3月20日、各学部、分校、商短でそれぞれ分散して行われた。人文学部の式典取りやめや各学部とも式そのものを大幅に簡略化し、うちわ″のごくひそやかな式となった。午前10時過ぎから新潟市医師会館で行われた理学部卒業式には、卒業生、教官、職員、父兄約150人が集まった。各学科ごとに卒業証書が渡される短時間のもの。茅原学部長も祝辞に代えて「あいさつ」の形ではなむけのことばを送った。また今年は院生協議会との話し合いで記念講演を計画。東京教育大学三宅寿雄教授(地球科学)が「巨大科学に対する科学者の責任」というテーマで講演を行った。今年の卒業式は新大紛争の最も激しい時期を過ごした学生たち。「もう卒業するのだから、とりわけ感ずることはない」「過渡期、変革を肌で感じた」など様々。真新しい背広に「70年ビジネスマン入門」といった本を早速抱えていた。
S45.3.20(1970)長崎新大学長語る 1年生専門学部へ移行/医・歯・工学部は除く長崎明新大学長は3月20日午後、大学本部で記者会見し「教養部の現1年生については、進級の総合判定が物理的に不可能であるため、医、歯、工学部を除き専門学部へ移行させる」「評議会は教養部移転を正式決定し、同部は4月移転する」など当面の学内問題について次のように語った。1.現1年生(医、歯、工学部所属生は除く)を進級判定しないまま各学部に移行させ、そのための具体的な措置は学部で検討する。4月下旬までに補講、試験を行うが、それを基にした総合判定は時間的に無理であり、全員(約500人)を専門学部に移行させる。専門講義と取り残した単位修得を並行して行うことになる。この措置により新入生の自宅待機″の心配は全くなくなった。(現在教養部の大半のクラスが「移転決定反対」などでストに突入)1.教養部の4月、五十嵐地区移転を決定した。決定に当たっての確認事項は@再建会議の意向を尊重し、改革、統合整備計画の再検討を進めるA教養課程の改革(全学出動態勢、縦割り移行など)については46年度実施を目標に検討B移転に伴って発生する諸問題については全学的な協力のもとで行うーなどを確認している。
S45.3.20(1970)新大学部ごとに卒業祝う/さっぱりと明るく新大の44年度卒業式は3月20日各学部分散で、ごくひっそりと行われた。今年の卒業生は「新大紛争」の最大のヤマ場を経験した人たち。特にこの1年間は激動″の言葉があてはまるよう。しかし卒業生の表情はサッパリと明るく、心はすでに新しい社会に向いているようだった。卒業式そのものは簡素化されて卒業証書授与、学部長告辞、あいさつで終わるものものが多かった。「卒業式をどうするか話し合いをした結果、私の告辞ということではなくあいさつに変えたい。人生は音楽に似ている。休止符があり、終止符がある。方法論を学んだ諸君はこれをいかに生かすか科学の現代的な使命である」(茅原理学部長)「何よりもおめでとうございます。大学改革の議論の場となったこの41講義室で諸君を送り出すことになったのは感慨深いものがあります。学部を守ろうと泊まり込んだ皆さんを見た時、まさに戦場″にいると感じた。真の教育を考えて、子供の心に残ることを語り、行動をとってください」(是沢教育学部長代行)「卒業おめでとう。卒業までにはいろいろあったであろう。私たちも新潟大学をよりよくするために一生懸命やっていきたい。諸君も社会に出て精いっぱいの努力をしてほしい」(伊藤岩人文学部長)「近年工業の発展はめざましいが、半面いろんな問題が発生している。卒業生の皆さんに期待するところは大きいし、責任も大きい。どの方面に進まれるにせよ、出来るだけ広い、世界的な視野を持って進んでほしい」(脇屋工学部長)式の後はどの学部も祝賀会。女子学生の多い教育学部では和服姿が目立ち、和やか。バッハの音楽の流れる中で、教職員、卒業生、父兄が交流した。男子のある卒業生は「何しろ落ち着かない最終学年だったナ」。ある父兄は卒業式について「形式的な式はいらないが責任者である学長に顔を出してほしい」といささか不満顔だった。
S45.3.22(1970)大学 軒並みヘンな卒業式/「訓示なし」30校も/紛争医学部は当分お預け大学の卒業式シーズンがやってきたが、今年は紛争の余波から式を中止する大学や学部別卒業式などが続出している。紛争大学″といわれた大学は学長訓示も姿を消して、ほとんど軒並みの変則卒業式。卒業生は事務室で無表情に卒業証書を受け取り、学生のいないキャンパスから立ち去っていく光景があちこちで見られる。式に対する学内の反発が根強く、ムードが盛り上がらないーというのが卒業式中止の大きな理由だが、「全共闘」の亡霊″におびえていることも否定できない。大学当局は「われわれの春は4月中旬の入学式から」−と今から新入生に期待を寄せている。卒業式を全面的に中止した大学は東大を始め東京外大、東京工大、大阪教育大、広島大、九大、中央大など激しい紛争を経験した大学に多い。東大は「安田講堂が未修理」という理由で入学式も中止し「式自体が大学改革の課題だ」という。これらの大学は事務室で卒業証書を渡したり、卒業記念パーティーを開いたあと、1人1人にそっと手渡しして「早々に引き取っていただく」ことにしており、反日共系各派が「卒業式粉砕」には無関心にもかかわらず、大学側の異常なほどの気の使いようが目立つ。学長訓示や祝辞を取りやめた大学は、このほか北大、秋田大、宮城教育大、早大、日大、信州大、大阪外大、同志社大、岡山大、島根大、山口大など約20校に及ぶ。京大、広島大では学長から卒業生1人1人に手紙を送ることにしているほか、学長の心境はすでに新入生歓迎に移っているのか、新入生にラブレター作戦″(東京教育大)を展開中の大学もある。学部、学科別の卒業式を予定している日大、立命館大、富山大などでも「祝辞、答辞、送辞なし。30分で終了」という簡素化が目立っている。深刻なのは4月〜5月まで卒業が延期されて授業が続く大学で、東大(文)、東京外大、神戸大(文)などは5月いっぱい最後の詰込み授業。臨床実習のため詰込みが聞かない医学部を持つ大学では、事情が特に深刻で、東京医科歯科大、金沢大、大阪市大、広島大、九大などの医学部卒業生はいずれも6月〜9月ごろまで卒業がお預けになりそう。このほか留年組が倍増した大学(東外大、埼玉大、島根大)、2−3月に紛争が新たに起きた大学(室蘭工大、福島県立医大、島根大)など新学期を控えて紛争の傷跡が消えていない大学も目につく。このような事態について、東京教育大の宮島竜興学長は「卒業生には言いたいことが山ほどあるが、長い紛争で学内に不信感が根強く残っているため、語り合う機会さえないのが現状だ。」ひとこと学問とは何か″ということを将来も考えてほしいと言いたかったのだが、今となっては新入生に期待するしかない」と寂しそうだ。また日大の鈴木勝総長も「正直に言って、卒業生に美辞麗句を贈る気持ちにはなれない。卒業生の多くは大学紛争の傷跡を残したまま、複雑な気持ちで巣立っていくに違いない。社会の中でこの気持ちを生かしてくれればいいが・・・」といっている。
45.3.23(1970)新大新天地″は下宿ききん/県外組の急増響く/五十嵐浜移転でとんだ波紋/教授会開発委でも宿なしまだ六割余「学生のための下宿・貸し間を求めていますー新潟大学」。紛争のあおりを受けて新潟市五十嵐浜地区への移転が遅れていた新大も、ようやく4月の新学期から教養部の移転が本決まりとなった。しかし、この新開地、今まで学生下宿″の慣習がないだけに下宿数は少なく、おまけに今年は新入生の86%が県外や長岡以遠の出身者とあってお宿″を世話する教養部厚生係は大弱り。新聞チラシで大学周辺の人たちに協力を呼びかけたり、理学部教授会では「下宿開発委員会」を発足させ教授陣をこれに当たらせたりするなど下宿捜しに躍起になっている。年々県外の入学者が増えている同大学。昨年までは約75%の入学者が下宿・間借りを必要としていたが、今年はさらに増えて1555人の新入生のうち1351人が自宅通学は無理と見られている。これに対して大学の寮に新入生が入れるワクは男女合わせてわずか130人程度。あとは民間の下宿、アパート、間借りに頼らなければならない。それでも昨年までは、各学部が交通便利な場所にあり、また、大学周辺には長年の慣習などもあってどうにか宿舎は確保されてきました。しかし、今年は、大学紛争の発端となった五十嵐地区への移転が1年遅れで実現し、4月にはまず教養部、続いて5、6月ごろには理学部も新校舎へ移ることになっている。このため、大学側では、新潟の事情をよく知らない新入生には校舎の近くで生活するのが一番ーと新校舎周辺の五十嵐浜、内野地区の下宿開発に乗り出した。だがこの地区は、新開地だけに学生下宿″の素地がなく、その上、昨年は大学紛争のため、4月の移転決定を2月の土壇場で白紙撤回したことなどもあって地元の受け入れ態勢はぐらつき気味。「大学が来るというので学生用アパートを建て待っていたんですが、2回もはぐらかされて・・・。とても待ち切れず勤め人を入れました」というアパート主。「当初、町内会を通じて大学から下宿といわれたとき、子供の家庭教師を兼ねてくれるなら下宿代はいらないからーと思っていたんですが、ゲバ学生はどうも・・・」という主婦。大学紛争の影響は新入生の下宿先にまで及んでいる。また、在校生の中には新校舎近くに出向いて自分の宿を先約する者もおり、下宿をめぐって混乱さえ起きかねない状態。このため大学側では、従来教養部だけで行ってきた下宿開発を今年は教養部、理学部、大学本部の三者で構成、下宿対策に当たっている。理学部教授会では「下宿開発委員会」を発足させ、教養部と歩調を合わせて教授陣が下宿捜しをしている。これまでの下宿の申し出状況は、新校舎近辺で100人足らず、市街地を合わせても450人前後とやっと三分の一程度。教養部厚生係は「4月15日の新学期を支障なく迎えるためにも10日ごろまでには下宿紹介を終わっていなければ・・・。一般の理解ある協力をお願いしています」といっている。
S45.3.25(1970)新大 新入生の授業4月20日から新校舎で例年新1年生は4月15日ころに入学式を行ない、そのあとガイダンス(学科説明)をやって授業に入る。今年は統一入学式は困難な模様で、各学部ごとの入学式のあとの新1年生を受けて、ガイダンスの段階から五十嵐地区の新校舎を使用し、4月20日の日曜日から授業開始の段取り。これに合わせて教養部の各学科は移転準備にかかっている。引っ越しは運送業者の見積もりを取る関係などから4月早々となっているが、学科によっては、学内の車を使って27日頃から荷物を運び出すことになるという。尚、昨年の入学生のうち教養課程を残している医、歯、工各学部の学生については、現在の西大畑校舎で授業を続けることになっている。
S45.3.31(1970)赤軍派?日航機乗っ取る/福岡空港で給油5時間後に飛び立つ/北朝鮮直行を迫る/学生十数人日本刀つきつけ/乗客131人縛り監禁3月31日朝、羽田空港を飛び立って福岡・板付空港に向かった日本航空の国内線旅客機が反日共系赤軍派とみられる男たちに乗っ取られた。同機は福岡空港に着陸、給油したあと、老人など23人を降ろし、約5時間後の同日午後1時59分北へ飛び去った。同日午前7時10分、羽田発福岡行き日航351便ボーイング727型機「よど」号(石田信二機長=47=ら乗員7人、乗客131人)が同7時33分頃、名古屋上空にさしかかった際、突然乗客の中から日本刀を振りかざした約15人の男が操縦室に乱入、石田機長にいきなり「プンニョン(北朝鮮興南市南方の地名)へ行け」と命じた。同機長は「そこまでの燃料はない」と直行″を断り、同8時57分福岡空港に着陸した。機長の緊急通信でこの非常事態を知った防衛庁では、直ちにジェット戦闘機2機を緊急発進させ、同期の前後を挟むようにして警戒に当たり、同期の着陸後も空港上空を旋回している。また陸上自衛隊5個中隊と福岡県警8個中隊が武装して同機を遠巻きにして警戒に当たっている。赤軍派学生は機内からインターホンで、即時4万ポンドの給油と北朝鮮の地図を要求してきた。このため、日航では午前11時前から給油を開始、地図を1枚渡した。機内の乗客の様子などをインターホンで聞いてもいっさい返答を拒んでいる。こうした事態に対し、赤木警察庁警備課長は、福岡県警を通じて石田機長に対し@乗客の安全を第一にせよA給油で時間をかせげB爆発物を持っているので、スチュワーデスによって撤去するよう努力せよC人質を取られ、発進のやむなきに至った時は、北朝鮮に直行せず、韓国内に着陸するよう努力せよ、の4点を指示した。機内には、子供7人、赤ん坊2人を含む131人(うち外人2人)の乗客が閉じ込められているが、機内と交信した塚田正四郎日航福岡空港所長の話によると、乗客は手を縛られているかもしれないが、無事だという。同機の給油は同11時45分まで続けられたが、同空港は、自衛隊練習機が滑走路中央で故障、動けなくなったため同10時25分、空港は閉鎖された。同機の回りには緑色の帽子をかぶった日航整備員約20人がいるが機体には手を触れることもなく待機している。空港側は同11時25分、乗客を出迎えの親類の申し出を受け、心臓病で熊本県八代市の病院へ向かう途中のマハラ・トドムさん(70)を降ろすよう機内の赤軍派学生に申し入れた。これに対し、学生たちはマハラさんと赤ん坊など北朝鮮での抑留生活に耐えられないと認められる乗客10人を降ろすことに同意した。福岡県警は福岡空港内、博多署板付派出所に現地警備本部(本部長有吉久雄同県警本部長)を設置、機動隊5個小隊を含む警官700人、パトカー20数台を出動させ、有吉本部長が直接指揮をとり警備に当たっている。また第7管区海上保安本部(北九州)は福岡空港を飛び立ったあと、海上着水も考えられるため巡視船艇を出動させ、警戒に当たっている。飛行機乗っ取り事件は、中近東、韓国、キューバなどでは続発しており、昨年は70件も発生したが、日本では航空史上初めてのことである。なお同機の乗客131人の中には、東京・虎ノ門、国家公務員共済連虎ノ門病院の沖中重雄院長も含まれており、その他有名人もかなり載っている模様で、政府も事態を重視、同日の閣議で荒木国家公安委員長が事件の概要を報告した。なお犯人が行先に指定した「プンニョン」は北朝鮮興南市南方の「富寧」のことと見られ、同地には北朝鮮の空軍基地がある。
S45.3.31(1970)23人降ろす/計画的な国外脱出″赤軍派とみられる学生に乗っ取られた日航機は3月31日午後1時5分、エンジン始動を開始、とまっている第5スポットから第6スポットに移動、同1時39分子供、老人など23人を降ろした。共産同赤軍派は1月16日の政治集会(東京・全電通会館)いらい表向きの行動はなりを潜めてきた。同政治集会では今年の闘争の方針として@世界の革命根拠地へ乗り込むA4-6月の沖縄・安保闘争は静観し、当分組織立て直しを目ざすB11月に一斉武装ほう起するーと国外脱出″を狙っていた。しかし、公安当局のマン・ツー・マン捜査でマークされ、組織がズタズタにされて身動きできなかった。2月、キューバ政府が日本キューバ文化交流研究所(山本万喜子所長)あてに「キューバでサトウキビ刈り募集」をしたところ、赤軍派学生がキューバで軍事訓練したいから行かせてくれ、と同研究所に押しかけたが、断られた。今度の日航機乗っ取り事件は一部学生が単独で計画、革命根拠地″の北朝鮮へ脱出を図ったものとみられる。
S45.3.31(1970)沖縄復帰/基本方針決まる/72年返還へ交渉本格化政府は3月31日午前、院内で沖縄復帰対策閣僚協議会を開き、沖縄の72年返還に備えて祖国復帰を円滑に実現し、豊かな沖縄県を建設するため「沖縄復帰対策基本方針」を決め、引き続き開かれた閣議で正式決定した。この基本方針は、総理府が中心となって関係省庁と協議してまとめたもので、沖縄復帰対策の決定版″ともいえる。政府の復帰準備施策は今後、この方針に沿って本格的に推進されるが、5月には沖縄・北方対策庁発足するので、それ以後は同対策庁が復帰準備の中心機関となる。総理府は基本方針が固まった結果、今後は既に決まっている@沖縄経済振興の基本構想A一体化3か年計画B復帰事前施策ーなどの具体化を図ることになろう。基本方針によると、政府は72年中のできるだけ早い時期に復帰を実現するため@施政権返還協定A本土法律適用に伴う暫定特例措置に関する立法B沖縄経済・社会開発法案などを次期通常国会に提出、本土復帰態勢を整える。また、復帰準備施策の策定及び調整を図るため、総理府に設けられている沖縄復帰対策各省庁担当会議には行政、財政、産業経済、地位協定関係の7部会を設置する。沖縄の施政権返還協定を締結するための対米交渉は今後本格化するが、政府はこれと並行して日米琉の3政府で復帰対策を策定する考えであり、特に沖縄県民の民意を尊重するとの見解を示している。なお閣議の席上、佐藤首相は「各省とも積極的に協力して円滑な復帰が出来るよう努力してほしい」と発言した。


◆新潟大学統合移転闘争の経過 その1(1965年〜1968年)Top へ
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その2(1969年1月〜4月)Top へ
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その3(1969年5月〜12月)Top へ
◆新潟大学統合移転闘争の経過 その4(1970年1月〜3月)