「知られざる学園闘争」への寄稿(新潟大学)2
令和3年3月23日

新潟大学統合移転闘争1969年1月〜4月

佐藤 純一

 1969年をまとめて1つで取り上げる予定でしたが、69年1月から3月は、統合移転問題について、大学側と学生側と全学集会(大衆団交)を開催して本格的な交渉が行われた重要な時期だったこと、その影響で例年2月に実施する学期末試験が4月に延期された問題が大きくのしかかった時期でした。コロナ禍で国会図書館の調査(新潟日報の記事検索)に時間がかかったので、69年1月から4月までをひとまとめにして報告したいと思います。
 新潟大学は教養部の五十嵐浜への4月移転を討議するために、昭和43年11月7日(1968)に、日報ホールで「教養部第1回全体集会」を開催し、その後2回の集会開催を経て、69年1月18日には、全学集会公開予備折衝を実施。これまで全学の教職員・学生が一堂に会して集会を開催した事はなかったと思います。大学の体育館は、西大畑キャンパス内にありましたが、バスケットコートが片面しか取れないほどの大きさしかありませんでしたし、人文学部や教育学部の大教室も200〜300人程度の収容人数だったのではないか。必然として、学外の新潟市公会堂、新潟県民会館、新潟市体育館などで全学集会(大衆団交)を開催せざるを得なかった情況でした。
 昭和43年(1968年)12月末までの学内の情況を整理しておくと、
1)S43.10.24
 鈴木教養部長は、工学部教養自治会に、人文・教育・工・医・歯の5学部が統合移転問題にどのような態度を表明したかを回答。
2)S43.11.7教養部第1回全体集会開催(日報ホール)/学生・教員約700人
 教養部は、同大統合移転計画の第1号として、来年4月に新潟市五十嵐浜への移転が予定されており、移転問題で学生と意見交換。
@11月9日、第2回教養部全体集会を開催
A教養部移転に対する最終態度を決定する20日までに、学長、評議会統合整備計画委員会、各学部教授会を対象とした全学集会の実現を要求する ことなどを決定。
3)S43.11.9教養部第2回全体集会を開催 討論を通じて対立点が浮き彫りに。
4)S43.11.12教養部第3回全体集会を開催(人文学部40番教室)/約330人
 学生側:学長、評議会、統合整備計画委員会との大衆団交を開いて教養部の移転問題を確認せよ。
 教官側:一部の教官から「教養部の移転決定問題は、もはや教養部だけで決められる事態ではなくなった」とし、「その前に大学最高機関を対象とした全学集会を開くべきだ」という意見も出されたが、大衆団交による決定には、ほとんどの教官が反対の意向を示したため、学生の意見と鋭く対立。
5)S43.11.22教養部8クラスの学生がスト権を確立
 工学部教養自治会:6クラスがスト権確立
 医学部進学課程:1年2組、2年1組の2クラスがスト権確立
6)S43.11.25工学部教養自治会スト決行
 4項目要求を掲げてスト決行。
@学生の意思を受け入れず、全学統合の保証がない現計画の粉砕
A教養部移転、理学部着工阻止
B計画の全学的、全面的再検討
C学長、評議会、統合整備計画委員会を対象とした全学大衆団交開催
7)S43.11.25医学部進学課程2年1組、工学部に同調してスト決行
 医学部進学課程の全学生が授業ボイコット
 医学部自治会執行委員会がアピールを表明
 @工学部教養自治会のスト全面支援
 A大衆団交要求
 B全学集会での教養部移転決定
8)S43.11.27全学教官会議結成
 教養部の来年4月に五十嵐浜移転をめぐり、教養部学生がスト突入し、この問題を全学的立場で話し合う全学教官会議が結成された。同教官会議には、教養・人文・理・農・工・医・教育の7学部から100人以上が集まった。
9)S43.11.30歯学部進学課程1年生が無期限ストに突入
10)S43.12.2医学部進学課程1年2組がスト決行
11)S43.12.6新大附属病院の看護婦増員闘争がほぼ組合の要求通り妥結
12)S43.12.11人文学部もスト権確立、11日からスト突入
13)S43.12.17教育学部もスト権確立、17日からスト突入
  3項目要求
 @統合問題の全学的民主的再検討
 A全学協議会、学部協議会を設置せよ
 B以上の要求実現の保証がないままの教養部移転、理学部着工阻止、そのための大衆団交要求
14)S43.12.17 12月21日に全学集会開催を決定
 12月21日午後1時から、新潟市公会堂で全学集会開催を決定
15)S43.12.20第4回全学教官集会開催(農学部)
 1.統合移転計画は全面的に再検討すべきである
 2.再検討は全学的な意思の形成が可能な全学的協議の場で行われるべきである
 との決議案を採択。
16)S43.12.21 全学集会は流会

※昭和43年12月末(1968)時点での全学的な学生側の対応
@S43.11.25工学部教養自治会が4項目要求を掲げてスト決行
AS4.11.25医学部進学課程2年1組、工学部に同調してスト決行
     医学部進学課程の全学生が授業ボイコット
BS43.11.30歯学部進学課程1年生が無期限ストに突入
CS43.12.2医学部進学課程1年2組がスト決行
DS43.12.11人文学部もスト権確立、11日からスト突入
ES43.12.17教育学部もスト権確立、17日からスト突入
 新潟市内の西大畑及び旭町キャンパスの教養部、工学部、医学部、歯学部でスト決行や授業ボイコットが起き、人文学部と教育学部では学部全体でスト決行。ストや授業ボイコットを決めていなかったのは、理学部だけとなり、医学部自治会執行委員会が統合移転に関してアピールを表明。歯学部自治会(?)の動きは不明。

※農学部の対応
東新潟の河渡キャンパスにあった農学部は、自治会がなく、学友会が学生組織としてあったが、態度は不明であった。私は農学部の2年生であったが学友会からの情報はほとんど入ってこなかったように思う。農学部は教養部に2年間在籍し、2年目の後期(10月以降)のカリキュラムは、教養部で、語学2科目(必修)と教養科目を受講しながら、河渡キャンパスで専門科目も受講していた。従って、統合移転に関する全学的な動向は、西大畑の教養部での授業の際には知ることが出来たが、河渡キャンパスでの農学部の授業の際には、ほとんど情報は得られていなかったように思う。農学部5学科の中には、3年生から卒論研究で研究室に入る学科もあり、3年生〜4年生の統合移転に関する活動は低調であったように思う。

※教養部の3回の全体集会(大衆団交)への参加について
 11月7日の新潟日報ホールでの第1回教養部全体集会(大衆団交)には参加した記憶がない。続いて第2回全体集会(大衆団交)と第3回全体集会(大衆団交)も教養部の授業があれば参加をしたかもしれないが、記憶には残っていない。第3回全体集会が人文学部40番教室で開催されたので、もしかしたら参加をしたかもしれない。統合移転問題に関わるようになったのは、昭和43年末から昭和44年に入って全学集会(大衆団交)が開催されてからだと思う。
※農芸化学科2年生の対応
 教養部プレハブ校舎の一部が11月27日以降、工学部教養自治会に占拠されて、それを見ながら、農学部は講義を受講していたので、周りの学部がどんどんスト決行をしていく中で、農学部の1年生、2年生も対応を考えざるを得ない情況にあった。クラス毎に議論をしていく中で、学科毎にクラスの代表者を出して、「クラス代表者会議」を作ったような記憶がある。そこで、どのような議論が行われたかは定かではないが、農芸化学科2年生のクラスでは、スト賛成派と反対派が拮抗して、最初のクラス会では賛成派が数では上回ったが、2回目のクラス会では賛成派から欠席が出て、短期間に反対派が上回ってしまったため農芸化学科2年生はスト決行には至らなかったように思う。同級生の中には、「クラス代表者会議」を作った記憶がないという者もいて、50年も経過しており、その辺の記憶が曖昧である。

昭和44年1月から昭和44年4月(1969)までの経過

1.S44年1月14日、大学側と学生代表とが公開予備折衝の打合せを行い、次の点が決められた。
@1月18日午後1時から6時まで(若干の延長はあり得る)新潟市公会堂で公開予備折衝を開催
A大学側の出席者は学長、評議員、統合整備計画委員を含む全権を持った者。
B議長団の人選、数は学生側に一任。
C折衝内容は当日決定する。
D長岡、高田分校の学生参加のため交通機関確保など大学側が善処する。

2.S44年1月18日(1969)全学集会予備折衝(新潟市公会堂)/参加学生1500人
 折衝方法をめぐり学生側が意見対立。
@人文自治会系提案の代表団方式:各学部学生自治会、学友会で選出した代表団24人が学生側を代表して大学と折衝し、一般学生は議長の指示に基づいて発言する。
A工学部教養自治会提案の大衆団交方式:折衝には全学生が平等に参加する。
学生内部で激しい議論が戦わされた。このため議場は混乱、5時間後ようやく代表団方式を採択。対立する学生側は退席。

3.S44年1月21日(1969)全学教官集会は討議結果を「再検討白書」にまとめる
白書は全文79頁、5章21節からなっており、現統合整備計画の問題点を新大の研究教育体制、管理運営機構の両面からいま出ている統合整備計画を究明し、計画を軌道に乗せるための問題提起を行っている。
第1章「統合整備計画のこれまでの進め方」では、計画が紛糾する原因を「新しい総合大学創造のためのビジョンの欠除にある」として
@ビジョン作成のための全学的討論の開始
A討論を通じての全学一致の意思形成を提唱
第4章「新潟大学民主化の課題」では
@学部教授会
A教授再審査制度
B医学部無給医局員などの問題点
をとりあげ「新大の真の民主化を行うためには、学長、評議会という既存の管理機構とは別の新しい機構を設けることが必要である」としている。そして、昨年12月21日に表明された当局の再検討声明では、その姿勢がまだはっきりしていないとして
第5章で再検討の内容と方法をとりあげ
@同声明をも再検討の対象とする
A再検討を行う場所は全学的な意思形成が必要な全学集会でなければならない
といっている。

4.S44年1月22日(1969)第2回全学集会予備折衝(新潟市公会堂)/学生・教職員約1700人
全学集会を、1月25日午後1時から新潟市の県民会館で開催することに決定。集会の性格規定に議題を移し、学生側が「意思決定の場としての集会でなければならない」との要求を提出。山内学長は
@評議会で了解していたものが、集会の席でも合意に達した場合、事実上の決定となる。
A大学側ではまだ審議中のものが、双方の努力で合意できた場合、大学は大学側に持ち帰って関係に機関にはかる。その結果了解されたものについては大学の意思としてもよい。
B集会で合意できなかったものについては、その場で評議会を開いて決定せよ、という学生側の要求には応じられないと回答した。
学生たちはこのあと、12月21日に発表された山内学長の統合移転計画の進め方についての再検討声明″を取り上げ「声明の中に盛られた反省″再検討″とはとはどういう意味か」「反省、再検討の内容としてわれわれは、講座制、学部教授会の改善、改組を要求する」と大学側を追求した。
山内学長はこれについては「新潟大学だけでできる問題とできない問題がある。新設される新しい機構としては、学内の学生、職員、教官など各層の意見が大学の運営にじゅうぶん反映されるものを考えている」と答え、話し合いは一部平行線をたどった。

5.S44年1月25日(1969)新潟大学第1回全学集会(新潟県民会館)/学生・教職員2500人
 集会の議事運営段階で、またも学生間の主導権争いとなって混乱、流会。山内学長は、大衆団交に臨むつもりだと声明。

新大開校以来の学生で埋め尽くされた県民会館大ホール
(S44.1.26)2
新潟日報 昭和44年1月26日朝刊15面(国立国会図書館所蔵)  

6.S44年1月28日(1969)人文学部一般学生同盟が結成された

7.S44年1月31日(1969)新大公開打ち合わせ会/人文学部40番教室
@議事運営で学生の意見が一致し、混乱を繰り返さないことが確認できれば、2月4日午後1時から新潟市体育館で全学集会を開く。
A同集会での大学側提案は「2月2日午前中に明らかにする」ことを決めた。

8.S44年2月1日(1969)理学部の有志学生が、要求を掲げてハンストに突入
 理学部物理学科の2年生数人で、新潟市西大畑町の理学部正門玄関前にオレンジ色のテント2つを張って中に数人の学生が断食しての泊まり込み戦術に出たもの。要求は、
@現統合計画の白紙撤回
A教養部の移転中止
B理学部の着工中止
C当局のはっきりした自己批判と、反省を基礎にした計画の再検討
D意思決定の場としての大衆団交開催  を掲げている。

9.S44年2月2日(1969)第2回全学集会の討議資料を配布
 新潟大学では、全学統合紛争を収拾するため「教養部の移転正式決定を延期し、理学部も五十嵐地区での着工を中止、現統合整備計画を全学的に再検討する」という方針を決めた。この方針は、きょう2月2日午前中に学生に配布、4日午後1時から新潟市の体育館で開かれる第2回全学集会の討議資料として提案する。討議資料の中で大学側は、これまでの統合計画の進め方や学外からの干渉について示したあいまいな姿勢を反省し、統合移転計画を決定した第136回評議会(40年2月)にまでさかのぼって計画を再検討するとしている。新しい統合計画の進め方と組織に関しては、まず「全学集会と全学協議会の設置」を提案。そこで決まったことの実行機関として「大学改革委員会と統合企画委員会を新設」。この新しい機構が整備されたら、既存の統合整備計画委員会は解体するとしている。
「全学集会」は、全学統合と大学改革の方針の決定、および緊急課題を処理する場とする。「全学協議会」は大学改革委員会と統合企画委員会立案された原案を検討する。そして「全学協議会」は学生、教職員代表と数人の評議員で運営し、協議会で決まったことは実現させるよう、評議会でも努力する。
また大学改革、民主化の問題では、
@教授会の新しい構成を学部ごとに検討する。
A評議会に助教授以下を教官代表として参加させる方法を検討する。
B学長、学部長、評議員の選出には、学生教職員の意思を反映させる方法を検討する。
を盛り込んでいる。

10.S44年2月2日(1969)山内学長が記者会見
 午後1時過ぎから本部で山内学長が記者会見し「全学集会で全学統合をやるのかどうか″根本的な問題を学生諸君と十分な論議を尽くし合意を得たい」と解決への堅い決意を表明した。また学生側も大衆団交″でこの提案を土台に大学側の姿勢を厳しく追及する構えを見せており、長引いている新大紛争は新たな局面を迎えている。同大学は午前11時過ぎ本部で、各学部から集まった学生代表に提案書を配り、学生間の討論を要望した。
山内学長が記者会見で、理学部の五十嵐地区での着工の作業を停止する″という点について「第1期工事は入札の関係で2月中旬がギリギリの線だが、学生との合意を優先したい」と発言。また「合意に達しなければその時点で再び大学側の態度を表明したい」と述べ、今月中旬まで残された期間を学生側との話し合いに全てをかける姿勢を示した。一方、学生側はこの提案をもとに人文学部が同日学生集会を開き、工学部教養自治会、理学部などがきょう3日それぞれ学生大会を開くなどそれぞれ反応を見せている。

11.S44年2月4日(1969)第2回全学集会開催(新潟市体育館)
 新潟大学の第2回全学集会は2月4日午後1時から新潟市体育館で開かれたが、統合移転計画の「再検討」を主張する大学側と、その「白紙撤回」を要求する学生側の要求が激しく対立。集会の場で山内学長が不快を訴え、医師の手当てを受けるという事態があったため、結論を得ぬまま午後6時半過ぎ散会した。

12.S44年2月7日(1969)第3回全学集会開催(新潟市公会堂)/学生・教職員約2300人 山内峻呉学長が統合移転計画の白紙撤回と辞任を表明
 新潟大学の山内峻呉学長は、2月7日午後1時から新潟市公会堂で開かれた第3回全学集会で所信を表明「統合移転計画は、無条件で白紙撤回する。その責任をとって私は辞任する」と語った。所信表明の中で山内学長は、まず、統合移転に対する学生の要求に触れ、「白紙撤回せよ″という学生諸君の要求と、それについての学部教授会の意見を聞いて、検討、調整した結果、計画を無条件に白紙撤回する」と述べた。山内学長は、さらに教養部の移転正式決定と、理学部着工が、時間切れ寸前に直面してなお決定できないでいる現実にふれ「この時、討議を白紙に戻す責任の重大さはよく知っている。私は新大を去るに当たって新大の教職員、学生全員が心を1つにして計画を推進し、統合移転が見事に実現することを希望する」と述べて、辞意を全員に表明した。なお学長の所信表明は、この時点では、評議会の承認を得た段階にとどまっており、新大の正式決定となるためには、各学部教授会での承認が必要となっている。
学長が退場した後、評議会、統合計画委員会、各学部長を代表して川瀬農学部長が臨時代行″となって学生との討議に入った。ここで学生側は白紙撤回″になったいきさつと内容を追及。大学側は「白紙撤回″はすべての計画を白紙に戻すもので、全学的な合意がない限り、教養部、理学部の移転・着工はしない。理学部の予算返上も覚悟している」と回答した。
 ※過去2回の全学集会(大衆団交)では、学生同士の議論の応酬ばかりが続いて、議論が詰められていかなかったように思う。第3回全学集会で、山内学長が「統合移転計画の白紙撤回をして、学長を辞任する」ことを表明したことは、衝撃的なことであった。学生側が現統合移転計画の白紙撤回を要求していたので、大学側が学生の要求を認めたことになる。
 統合移転問題については、工学部教養自治会や人文学部の一部では、どういう総合大学を造るのかマスタープランを作れと言っていたし、新潟大学を統合してどういう大学を造っていくのかという点では、私は工学部教養自治会系(全共闘系)の考えに賛同していた。難解な言語表現が多くてわかりづらかったが、その主張は正しいのではないかと思っていた。一方、民青系の人文学部や教育学部自治会の考え方は、大学の民主化を中心とした諸要求で、大学の民主化が中心の話ではないだろうと思っていた。2年生後期には、専門科目の受講も始まり、自宅通学から河渡で下宿生活に移っていたので、新聞の購読もしていなかった。今度の新聞記事検索で、全学教官会議が出した「再検討白書」中の、「統合整備計画のこれまでの進め方」では、計画が紛糾する原因を「新しい総合大学創造のためのビジョンの欠除にある」と指摘していたことを改めて知った。
人文学部や教養部の一部の教官の間では、学生の意見に賛同してくれる先生方がおられたことは聞いていたので、それらの意見を集約したものだったのではないかと思われる。

熱気をはらんだ全学集会、学生たちは要求を叫んで大学側にせまる
(7日の全学集会=新潟市公会堂で)

(S44.2.9-14)
新潟日報 昭和44年2月9日 朝刊14面(国立国会図書館所蔵)  

13.S44.2.8(1969)第6回全学教官集会開催(県民会館)/大学・教官100人
 新潟大学の全学教官集会は、2月8日午後1時半から、新潟市の県民会館に山内学長はじめ評議会、統合整備計画委員会委員の出席を求めて第6回集会を開いた。集会には大学側から約20人、全学教官集会側から、各学部の若手教官約80人が出席した。教官集会側は「計画白紙撤回」について質問。答弁に立った山内学長は「これは評議会、統合整備計画委員会の合同会議で決めた。撤回をきっかけに、新しい新大の創造に努めてほしい」とその趣旨を説明した。しかし若手教官側は、その具体的内容の説明を要求し「撤回の中には紛争収拾対策的なニュアンスは含んでいないか。撤回を決める際、大学側はどんな点をどのように反省したか」「大学民主化の方針は、単なるカラ手形に終わらないか。終わらないとしたら、その点の気構えを聞かせてほしい」と迫った。これに対して、北村四郎医学部教授は、医局問題に触れ「医局制度には長年のアカがついている。方法は検討しなければならないが、アカは洗い落とさなければならない」と答え、遠藤工学部長は「統合移転問題では、最近、助手以上を含めて討議することにした。また学部長選挙には助手も加えることにした」と語った。

14.S44年2月10日(1969)第4回全学集会開催(新潟市公会堂)/学生・教職員約1500人
 2月10日午後1時から、新潟市公会堂で開かれた新潟大学の第4回全学集会は、前回の第3回集会で行われた山内学長の「現統合移転計画無条件白紙撤回」声明を、文書で確認する段階で、日共系学生が撤回の内容を定める確認文書を大学側に渡すことを強行したため、反日共系学生と乱闘になり、会場は大混乱した。大学側は確認文書を一応受け取り、大学に持ち帰ったが、学生の間では、この文書交換をめぐり賛否両論が対立、今後さらに激化する見通しとなった。
この日の全学集会には、大学側から評議員と統合整備委員の大学首脳約40人、学生側から約1500人が参加、3人の一般学生を議長団に「白紙撤回」声明の内容確認で開会した。人文学部を中心とする日共系学生は「撤回の内容を40年2月に新潟市郊外の五十嵐地区に全学を移転、統合すると決定した第136評議会以降の計画をすべて白紙撤回する″ものとする。撤回に基づく計画の再検討は学生を含めた場で行う」と主張した。これに対して工学部教養自治会系の反日共系学生は、撤回″を「既存の大学機構の破綻」として「全学統合ができるための大学の新しい組織の創造、大学変革でなければならない」と主張。その新組織を考える場として「全学大衆団交」を要求。この2つの意見はあくまで平行線をたどった。このため理学部学生の「確認書交換は、各学部自治会、学友会の意思で決定すればよい」とする提案が議長団に認められ、各学部自治会ごとの意思表示にはいろうとしたところ、人文学部自治会代表がいきなり壇上にかけあがり、大学側に確認文書を手渡したため、工学部教養自治会系の学生たちがおこり、両派約200人が乱闘、会場は約30分にわたり大混乱した。大学側は確認書を一応受け取り評議会に持ち帰って検討するとしているが、この確認書の受け渡しが、有効か無効かで学生の意見が分かれているため、問題は今後尾を引くものとみられる。尚、乱闘では、10人前後の学生が鼻血を出すなどのけがをした。
 ※前回の全学集会(大衆団交)で、山内学長が現統合移転計画の白紙撤回を表明したことで、今後、新潟大学は、総合大学としてどのような方向に進むべきか議論すべきであったが、白紙撤回の内容確認でまた意見が分かれ、人文・教育両自治会が、山内学長に代わって川瀬(農学部長)学長代理と「確認文書交換」を強行しようとしたことから、会場は大混乱となった。これは、会場にいた私の目からも、一方的な確認文書交換と写った。折角、全学的な合意ができる機会だったが、その機会が失われた。

15.S44年2月10日(1969)新大医学部合同討論会開催(医学部第3講堂)
 2月10日新大医学部では、先に43年卒、44年卒生から出されている非入局研修問題をめぐって、同日午後5時から医学部第3講堂で合同討論会を開いた。この討論会は、同学部の無給医会が呼びかけ、助教授、講師会、助手会、43年卒青年医師会、現4年生クラス会の、教授会を除く全学部的な発起で、お互いの意見を出し合った。席上、現在同学部教授会に提出されている3項目の要求について各会での見解が発表されたが、会場には400人を越す医学部関係者が詰めかけ、いずれも要求を本質的に支持する姿勢を示した。なお教授会では、要求に対するまだ正式な回答を出していない。
<3項目要求>医学部の卒業後の研修のあり方をめぐって、現在の医局・講座制を改革しようと、学生から提出されている要求。
@現在の医局にはいらず、大学病院直属の医師として研修を受ける。
A43年卒と現4年生を組織として認める。
B以上@Aを前提として研修のカリキュラムについては、教授、指導医、研修医の三者から成る研修委員会の合議で作成する。
の3点を打ち出している。

16.S44年2月11日(1969)人文学部学生大会開催
 人文学部学生大会は同日午後3時から同学部40番教室に、約530人の学生が集まって開かれた。大会では、闘争委員会から大学側との白紙撤回″確認の批准が提案され論議が行われた。人文学部ストライキ闘争委員会では確認書の交換で白紙撤回″が認められたとして、同学部4年生のスト解除の方針を固めている。

17. S44年2月11日(1969)工学部教養自治会学生集会開催
 工学部教養自治会は学生集会を開くなど活発な動きを見せた。工学部教養自治会では、705番教室に約150人が集まり、同自治会の要求4項目再確認の討論を行った。同学部ストライキ闘争委員会は全学集会の人文、教育学部系の確認書交換に対して「日共系学生の確認強行は許せない」として、さらに対決する方針を決めた。

18.S44年2月12日(1969)新大人文学部4年生がスト解除
 新潟大学人文学部学生自治会ストライキ闘争委員会(佐藤清純委員長)は2月12日、10日の全学集会で、白紙撤回″の確認書が交換されたことから、要求が認められたとして、同日から4年生260人のストを解いた。また1-3年生は大学側提案の内容について@交渉権などの保証A教授会の拡大ーなどについてさらに追及するためスト体制を続ける。

19.S44年2月13日(1969)新大教育学部がスト解除
 新潟大学教育学部の学生は、2月13日午後2時から同学部41番講義室で学生大会を開き、10日の全学集会で大学側と交わした確認書を批准。このあと賛成290余票、反対10票、保留20票で、きょう14日の3限からスト解除することを決めた。これで同学部は昨年12月17日以来約2か月ぶりでストが解かれる運びとなった。なお統合移転問題については「全学統合の線でいくべきだ、この大会で確認せよ」との声も出、注目された。

20.S44年2月13日(1969)新大医学部S44年卒業生卒業試験をボイコット
 新大医学部の卒業後の臨床研修のあり方をめぐって、44年卒業生(現4年生・留学生2人を含む82人)は、2月13日午後からクラス会を開き、15、21日に行われる予定の卒業試験をボイコットすることを決めた。同学部では、昨年から卒業後研修の改革を要望する声が学生を中心に高まり、クラス会では先に教授会に対し、現在の医局へは入らず付属病院直属の医師として研修することなどの3項目の要求を提出していた。これに対し教授会側は13日、研修のあり方についての教授会案を示し、学生をはじめ、助教授、講師会、助手会などに説明会を開いていたが、学生側は要求に対する回答がないとして、ボイコット方針を打ち出した。同学部自治会でもこれに同調、スト突入も辞さないとする態度を固めており、昨年から続いている医学部紛争は激化する様相をおびてきた。

21.S44年2月17日(1969)新大医学部自治会3項目要求を掲げてスト権を確立
 新大医学部自治会(小関康之委員長)は2月17日、1-3年生の学生大会を同学部第3講堂で開き、「医局にはいらずに卒業後の臨床研修を行う」など、いわゆる3項目要求を教授会に認めさせるためのスト権を確立した。大会は午後1時40分から始まり、オブザーバーとして出席した4年生や43年卒業生らも加わってギッシリ。「教授会の姿勢を正し医学部民主化を実現するためにはスト権確立で要求を貫徹する以外にない」「スト権確立といった力関係では問題の解決は得られない」という2つの意見が対立。午後6時近くまで討議を重ねた後、ようやく採決に入った。この結果、賛成141、反対88と過半数の賛成票をえてスト権が確立され、先に卒業試験ボイコットで事実上のストに突入している4年生を合わせ医学部全学年が「3項目要求実現」への力を結集することになった。同自治会では近く学生の結集大会を開き、教授会との大衆団交を行うが、要求が認められないときには「ただちにストにはいる」ことにしている。
22.S44年2月17日(1969)新大教養部の期末試験延期
 新大教養部では2月17日に行われる予定だった5教科の期末試験を延期した。同部では先に統合移転問題を中心とする一部反対派学生の行動と当面の学部内の事情を合わせ、期末試験の実施を担当教官の自主的判断に任せる方針を取ったが、この日は社会学、法学、フランス語、美術、ドイツ語の試験が中止、延期された。特に午後1時10分から人文21番教室で行われる予定だったドイツ語試験(農学部進学2年生)では一部学生がバリケードを築いて受験生を阻止する一幕もあった。同日午後開かれた教授会では期末試験の問題や移転白紙撤回″をめぐる教養部内の現状分析などが討議され、期末試験は3月10日までいっさい行わないという方針が確認された。

23.S44年2月18日(1969)新大人文学部1-3年もスト解除
 新潟大学人文学部学生自治会ストライキ闘争委員会(佐藤清純委員長)は要求がほぼ認められたとして18日、同学部1-3年生のスト体制を解除した。人文学部学生大会は2月17日午後3時過ぎから開かれたが、闘争委員会は@闘争によって大学民主化の一歩を踏み出したA政府文部省の大学支配による統合移転を一応阻止できたーとしてスト解除を提案。18日未明まで論議した結果、賛成多数で1-3年生のストを解除した。これで同学部は13日の4年生スト解除に続き、全面的にスト体制が解かれた。授業再開は明日19日の教授会で検討され、20日から正式に始まる予定。

24.S44年2月18日(1969)新大学長代行に鈴木教授を選出
 新潟大学は2月18日午後から夜10時にかけて学外で評議会、統合整備計画委員会の合同会議を開き、山内学長の辞任を承認。鈴木保正教養部長を学長代行として選んだ。同部長の代行就任は、28日の閣議にはかられ、承認されれば3月1日付で発令になる予定。
25.S44年2月18日(1969)新潟大学評議会「白紙撤回」に統一見解
 新潟大学は、2月18日午後、学外で評議会と協議会を開き、山内学長の辞任を承認。鈴木保正教養部長を学長代行に選んだあと、山内学長が発表した現統合計画の白紙撤回声明について討議した。その結果、総合大学としての新大が、学内の教育、研究機能を有機的に結び付けて、大学の発展を目指すことは当然のことだーとする統一見解をまとめた。これは計画白紙撤回の受け取り方がいろいろあって、学内全体に混乱が生じていることに対して、大学側が統一見解を示したことを意味しており、計画の白紙撤回から計画の再検討にはいる時の出発点になるとみられ、注目される。この点について学内の意見一致をはかるため、大学では21日午後1時から新潟市公会堂で第5回全学集会を開くことにした。

26.S44年2月18日(1969)新潟大学工学部教養自治会評議会室(本部)を占拠/大衆団交の開催を要求
 新潟大学工学部教養自治会の学生約40人は、2月18日午後2時、同大本部2階の評議会室を占拠して、大学側に大衆団交を要求した。大学側は、これに対して「21日午後1時から新潟市公会堂で集会を開催する」と伝えた。

27.S44年2月19日(1969)新大医学部学部集会開催/医学部教授会「3項目要求」のむ
 新潟大学医学部(三国敬吉学部長)は2月19日午後1時から同学部第3講堂で、当面する卒後臨床研修問題などについて学部集会を開く。これより先、17日夜行われた同教授会と、研修医の入局をめぐるいわゆる3項目要求″の実現を急ぐ助教授、講師、助手、勤務医局員との話し合いの席上、教授会側は「3項目要求は認める。2月7日に出した教授会案は白紙撤回する」との態度を明らかにした。
@入局によらない卒後臨床研修を行い、病院長直属の医師として契約する。
A研修医の組織を認める。
B研修委員会の運営は教授、指導医、研修医3者の合議で行う。
という3項目は学部内の若手医師、学生側から強く要求されており、44年卒業生の卒業試験拒否闘争や17日開かれた学生自治会(1-3年生)のスト権確立などの事態を引き起こしている。19日の学部集会では当然、この3項目に対する教授会側の考え方や、それに付随する研修医の性格や位置づけなど、細目についても討議が行われるものと予想される。学生側、特に44年卒業生は卒業試験、国家試験というタイムリミットに迫られており、その点からも教授会との合意、協約書の調印の時期に関心が集中するものとみられ、学部集会を契機に医学部紛争は新しい局面を迎えることになる。
「医学部学部集会確認事項」:
1.学生、青年医師が展開した研修協約闘争は、医学部の革新および卒業研修改善に意義ある運動であったことを認める。
1.一昨年11月以来、学生、青年医師に対してとってきた教授会の従来の姿勢には反省すべき点が多々あったことを認め、その反省の上に立って前向きの姿勢で3項目実現に努力してゆくことを確認する。
1.教授会は以上2点の反省の上に立って、従来教授会自治と呼ばれてきた医学部の管理運営体制を根本的に改めるため、今後の医学部内の諸問題に関して、学生を含めた学内各層の決定への過程に参加を認める。なお、単なる形式だけの民主的システムや意見の表示の場にしないことを保障し、決定権、拒否権については各層からの要求があればこれを認める用意がある。
1.教授会は、従来の医局制度、講座制度にとらわれず、医学部における教育研究体制のあり方を学生および学内各層と共に検討し、決定してゆくことを確認する。
 ※2月10日、全学集会(大衆団交)で、確認文書をめぐって混乱をしていた時期に、医学部では、卒後研修をめぐって、合同討論会を実施、卒業試験ボイコット、医学部自治会が3項目要求を掲げてスト権確立などが続いてきた。教授会と助教授以下の各層との交渉の結果、教授会が3項目の要求を認めた。この医学部の戦いが起きていたことは全く知らなかったが、医学部の研修医の問題を大きく前進させたのではないか。昨年、看護婦の増員問題が妥結し、今回、医学部の研修医の入局の問題を合意にこぎつけたことをみて、医学部の底力を見る思いをした。当時、医局講座制解体、教授会解体などのスローガンが掲げられていたが、その具体的な活動の中から、内実的な再検討が行われていたことを知った。

28.S44年2月19日(1969)新大が自己批判パンフ″学生に配布/統合へ全学一致を呼びかけ
 新潟大学(鈴木保正学長代行)は2月19日、「新潟大学の危機打開を全学生に訴える」と題するパンフレットを学生に配った。内容は、
@現統合移転計画白紙撤回の責任と理由ははっきりと示さなければならなかった。
A撤回しなければならなくなった事情、問題点をはっきり反省しなかったことが、危機を一層深めている。
と、自己批判の態度を明示している点が注目される。この姿勢は、そのあとに続いている「評議会の反省」「白紙撤回の意味・内容」「危機を克服するために」「全学的な一致点を求めて」の各項目についても、はっきりと貫かれており、計画の白紙撤回に関しては、
@大学の反省を前提として新しい総合大学の建設と大学民主化に取り組む。
Aその出発点として第136回評議会決定(注40年2月)以降の現統合移転計画を無条件白紙撤回する。
B教養部校舎、土地利用、理学部予算については、新たな計画を追及していく中で再検討する。
C全学的意思を統一しないままの教養部移転、理学部着工は強行しない。
の線で全学の意見一致が得られるよう、学生、教職員に訴えている。
「新大パンフレット(要旨)」:
【評議会の反省】計画を白紙撤回しなければならなかった理由を、全学に明らかにする義務がある。第一は、136回評議会決定が、全学の総意を結集する意味で、民主的だったとは言えない点。第二は、計画に全体構想がなかった点の反省である。また第三には、計画実現の段階で派生した、学外からの政治的介入に、断固とした姿勢を取らなかったことである。しかも、評議会は、過去1年以上にわたり、学生諸君との話し合いを持たなかった。さらに大学に対する学生の不信感を蓄積してきた。この時なお、撤回の理由をはっきりしないでおくならば大学への不信はさらに拡大するだろう。
【白紙撤回の意味・内容】計画の白紙撤回は、紛争の拡大を防ぎ、1日も早く事態を解決しようという強い願いから生まれた。無条件白紙撤回声明がこれに賛成する学生層との合意を急いで賛成できない学生の意見にじゅうぶん答えるという姿勢に欠ける結果になったことも否定できない。一方で「無条件白紙撤回」を決めながら、他方で全学統合を主張することは論理的におかしい。しかし総合大学としての新大が、研究教育機能を有機的に統合できる体制を目ざすことは、どのような学園建設を考える場合でも、いわば固有の原理である。計画の白紙撤回により、このような原理まで否定されるものだとするなら、それは「赤ん坊を水に流す」行水のたとえに似た愚行である。高度産業社会下の大学が、どのようなものであるべきかは、大学人なら容易に頭に描くことが出来るはずである。
【危機を克服するために】学生がいだいている白紙撤回″の疑問点や主張を率直に受け止めて合意点を早急に見つけ出し、再検討のスタートとしなければならない。理由はいま新大が直面している二重の危機を回避する必要があるからだ。その1つは新しい新潟大学建設の物質的基盤の崩壊を防ぐこと。例えば年度内に理学部着工が出来ない場合、せっかくの今年度予算を国庫返上しなければならない。これは全国の国立大学でも最劣等の研究、教育施設に悩む教養、理学部の窮状打開のチャンスを失うことになるからだ。第2は全学生、全教職員の一致を見ないまま学園紛争が最悪の事態に直面した場合(警察権介入、学生間の実力行使の意味)、そこに残されるものは精神的、道徳的荒廃であって物質的破壊、損害とは比較できない一大損失であり、大学再建は不可能となるだろう。
【全学的な一致点を求めて】白紙撤回の意味・内容で学生間に2つの意見が対立しているが、一致点はないものか。あるし、必ず見いだせると確信する。人文、教育両学部自治会が、大学と交換した確認書は、当該自治会と大学側に関する限り、効力は否定できない。他方、白紙撤回をまだ認めることができない学生層は、この白紙撤回によって「全学統合」の理念までも失うものではないという保障を求めているようである。この意見の不一致は両方の学生間で話し合いで統一されることを願う。しかしその時の到来を黙って待っていられる事態ではない。そこで、新潟大学は、大学の危機を克服するための最後の提案をする。
【白紙撤回にかんする確認書案】(原文のまま)本学の現統合計画の全体に対する大学側の反省を前提とし、さる2月7日の全学集会における学長の白紙撤回の所信表明とその後明らかになった学生間意見の一致点をふまえて、大学として全体構想と総合的研究教育の体制を備えた新しい総合大学の建設、大学民主化に取り組む出発点に立つために、次のことをここに確認する。
1.第136回評議会決定と、それにもとづく教養・理学部の移転着工計画を含む現統合計画を何らの条件をつけずに白紙撤回する。
2.教養部の建物、土地利用、理学部の予算については、新たな路線を追及する再検討の内容とする。
3.全学的意見一致のないままの教養部の移転、理学部の着工は強行しない。右確認する。

29.S44年2月20日(1969)新潟大学の三国政吉医学部長と小林収病院長が辞任/29人の評議員中、大半の評議員が辞任を表明
 新潟大学の三国政吉医学部長と小林収病院長は、2月20日開かれた同学部教授会に、医学部長と病院長の辞任を申し出た。同教授会は2人の辞表を受け取った。後任の学部長が決まるまでは大鶴正満教授(医動物学)が臨時学部長代理を勤める。
一方、新潟大学では、2月21日午後からの第5回全学集会を前にして、同日午前10時から評議会を開き、集会に臨む執行部の態度を協議した。この席で、29人の評議員中、大半の評議員が数日中に辞任することを表明した。7日の全学集会で山内学長が辞意を表明して以来、川瀬農学部長ら数人の評議員が、全学教官集会などの席上で、暗に辞任を表明しており、評議員の大量辞職が起こるのは、このころから予想されていた。

30.S44年2月21日(1969)鈴木保正代行をはじめ現執行部が、評議会で総辞職を決定
 新潟大学の統合移転紛争は、2月7日、山内学長が計画の白紙撤回と学長辞任発表してから、事態が流動化していたが、21日同学長の後任に就任した鈴木保正代行をはじめとする現執行部が、同日午前の評議会で総辞職を決めた。

31.S44年2月21日(1969)第5回全学集会中止
山内学長に代わって登場した鈴木保正代行らは、統合移転問題の推進で移転問題をめぐって発生した紛争の中で取ってきた大学側の姿勢を自己批判。これを討論の題材として、もう一度全学生と話し合い、事態を完全収拾するため21日の全学集会開催を予定した。ところが、集会の開催に先立って開かれた同日午前の評議会で、集会に臨む大学側の態度を協議した結果、評議会内部からも、この全学集会には反対の声が強く出されたため、鈴木代行が中止を決定。

32.S44年2月21日(1969)工学部教養自治会の反日共系学生が同大本部を封鎖
 工学部教養自治会の反日共系学生が、大衆団交開催の要求が通らなかったとして、同大本部を封鎖するなどあわただしい動きをみせた。

バリケードを築く学生たちは興奮状態 部屋のカギがこわされる。
次々にロッカーが持ち出され本部内は混乱状態となった

(S44.2.22)
新潟日報 昭和44年2月22日 朝刊15面(国立国会図書館所蔵)  

33.S44年2月21日(1969)鈴木保正学長代行ら4首脳が記者会見
 新潟大学の鈴木保正学長代行、竹内公基学生部長、青木清理学部長、小林茂夫歯学部長の4首脳は、全学集会の中止、それに続く工学部教養自治会系(反日共系)学生の本部封鎖が行われた21日夕刻、新潟市公会堂で記者会見し、理学部着工、入学試験など当面の問題について次のように語った。
1.混乱を収拾する最後の集会と期待したが、学生自治会、評議会で集会を持つこと自体に反対意見が強かったため中止した。
1.この結果、現執行部では事態解決の方法がないと判断、全員が総辞職することにした。1.新しい評議会の構成は法令で定められているので助教授を加えるかどうかは文部省と協議しなければ決められない。
1.間近に迫った入試は、社会的責任も大きいので、統合問題より重視し、必ず行う。(共闘派の学生が入試阻止に出た場合どうするか?との問いに対し)事態がどう動くかわからないが、警察力の導入は避けたい。
1.理学部着工問題は、各学部教授会、学生の了解を得て、できるだけ着工したい。全学統合の一部としての着工とか、部分統合ということではなく、老朽校舎の改築という気持ちだ。
 ※鈴木保正学長代行が新潟大学として、2月19日、「新潟大学の危機打開を全学生に訴える」と題するパンフレットを学生に配った背景には、山之内学長が表明した「現統合移転計画の白紙撤回」にたいする理解に学内で混乱があり、
@現統合移転計画白紙撤回の責任と理由ははっきりと示さなければならなかった。
A撤回しなければならなくなった事情、問題点をはっきり反省しなかったことが、危機を一層深めている、という認識があったのではないか。
計画の白紙撤回に関しては、
@大学の反省を前提として新しい総合大学の建設と大学民主化に取り組む。
Aその出発点として第136回評議会決定(注40年2月)以降の現統合移転計画を無条件白紙撤回する。
B教養部校舎、土地利用、理学部予算については、新たな計画を追及していく中で再検討する。
C全学的意思を統一しないままの教養部移転、理学部着工は強行しない。
とし、新大パンフレットで、「評議会の反省」「白紙撤回の意味・内容」「危機を克服するために」「全学的な一致点を求めて」の各項目で、今後の方針を示して、2月21日の全学集会に臨もうとしていたが、2月21日午前の評議員会で、鈴木学長代行他大半の評議員が総辞職する結果になった。この段階で、鈴木学長代行の下で新しい方針に基づいてまとまらなかった原因が何だったのか?その前日、医学部の研修医問題で3項目要求を受け入れて、三国政吉医学部長と小林収病院長が辞任を表明して受理されたことも大きな影響を及ぼしたようにも見受けられる。新大パンフレットの内容に賛同できなかった評議員が多数いたのかどうか?今となっては、その当時の評議員会の議論がどうだったのかはわからないが、川瀬農学部長や小笠原教授にその時の評議員会がどう判断したのか聞いておくべきだったと反省している。
 結果として、新潟大学は総合大学として、五十嵐浜に結集して、各学部間の連携を取りながら、学問研究を進めていくんだ、そのために理学部も移転をするんだという全学的な合意を得ないまま、評議員の改選を行うことになってしまった。

34.S44年3月2日(1969)新大新執行部スタート/初の評議員会開催
 新潟大学は入試をひかえた3月2日、新しく選出された学部長、評議員による初の評議員会を開いた。全学的な意思統一を図るため、13日ごろにまず大学初の「全学教官懇談会」を開くことを決めた。

35.S44年3月13日(1969)学長代行に農学部の長崎教授
 新潟大学は3月13日午後1時から、新潟市内で評議会を開き、鈴木保正学長代行の後任を互選の結果、長崎明農学部長を新学長代行に選んだ。

36.S44年3月14日(1969)初の全学教官懇談会開催
 3月14日午後1時から新潟市公会堂で初の全学教官懇談会を開き、約5時間にわたる討論を展開した。

37.S44年3月17日(1969)新大理学部着工問題、あさって態度を決定
 新潟大学は、理学部着工のタイムリミットを20日に控え、あわただしい動きを見せている。長崎明学長代行ら大学首脳は17日、文部省を訪れ、理学部着工期限の再延長を申し入れたが、受け入れられず「20日に着工可否の決定」を確認する結果となった。

38.S44年3月18日(1969)第2回全学教官懇談会開催
 新潟大学は3月18日、新潟市公会堂で第2回「全学教官懇談会」を開いた。長崎学長代行ら新執行部はこの懇談会で20日がタイムリミットといわれている理学部着工問題について教官の意思統一を目指したが、全共闘系学生の激しい反対や、教官の意見の食い違いも表面化、結論は出なかった。

39.S44年3月19日(1969)第6回全学集会開催(新潟市体育館)/「理学部着工」結論出ず
 新潟大学では、3月19日午後3時から新潟市体育館で、長崎学長代行らの新執行部発足後初の全学集会を開いた。この集会で新執行部は、一応20日がタイムリミットとなっている理学部着工問題についての教職員、学生の意見を聞き、「新大再建」への共通基盤をさぐる予定だったが、集会はしばしば日共系と全共闘系学生の対立の場となった。このため論点が定まらず、教官、学生、職員の意見を煮詰めることができなかった。

40.S44年3月20日(1969)第7回全学集会開催(新潟市公会堂)また空転
 新潟大学は、3月19日に引き続き、20日午前10時から新潟市公会堂で全学集会を開催した。この日の集会で長崎代行は「学内意思統一の基盤を探し求め、新大の民主化の改革を進める。しかし大学の再建には精神と同時に施設、設備の充実も必要である。大学としては理学部着工を決定したい」と大学の考えを述べ、議題として討議するよう提案した。しかし集会は相変わらず学生間の勢力争いの場となってサッパリ焦点が絞られず、いつもと同じ不毛の集会となった。21日午後1時から新大医学部グランドで青空全学集会を開き最後の意思統一を図る。

41.S44年3月21日(1969)第8回全学集会流会(教育学部グランド)
 新潟大学では3月21日、再度全学集会を開いて、極限に迫った理学部着工問題を討議する予定だった。ところが集会に臨もうとした長崎学長代行が、会場の教育学部体育館横手のグランドで全共闘系学生約50人に取り囲まれ、3時間余りにわたりつるしあげられたため、全学集会は中止となった。理学部の着工をめぐって荒れ続ける新大は、3月21日の全学集会を混乱のうちにまた流産させた。
冷たい雨がパラつき、膚寒い風が吹き抜ける教育学部グランドの中で、長崎学長代行を取り囲んだ学生たち。約3時間半にわたる学生の追及に、堅く口を閉じて答えない代行。肩をすくめてこれを見守るだけの教職員たち。夕刻、代行はついに救急車で脱出したが、大学当局・日共系学生・全共闘系学生の救いがたい対立はますます深まり、新しい糸口を見つけ出す術もないまま、また1日を空費した。混乱は長崎代行の会場到着と同時に始まった。全共闘系学生約30人が駆け寄り「集会の目的は何か、理由をはっきりさせろ」と迫った。教官十数人が代行をかばうように人垣を作り、学生とのもみ合いが続いた。長崎代行と全共闘系学生を中心に人の渦巻きができ、それがずるずるとグランドへ。渦の中、長崎代行は人波に押されてか顔面蒼白。大学側は附属病院の救急車をグランドに入れた。しかし車の前ですわり込んだ全共闘系学生たちに代行の脱出は阻止され、事態は悪化。何回かの殴り合い、もみ合いの後、代行を中心に円陣が出来て、学生たちのつるし上げが始まった。日共系学生は「暴力学生排除、大衆団交の予備折衝を開け」と全共闘系学生を非難。激しいやり取りの中、長崎代行は終始無口。じっとこらえている様子。約1時間半の不毛の野外団交が続いた。大粒の雨が横なぐりに降り始め、円陣の一角が崩れると同時に教職員、日共系学生がスクラムを組み長崎代行を救急車へ。つかみ合い、殴り合い、怒号と罵声が入り乱れ、じりじりと人波が動き、何度かの衝突。もみ合いの中から長崎代行はやっと救急車へ。最後は代行の乗った救急車を護衛する学生と阻止しようとする学生の対立になった。カタツムリのようにのろのろと移動してようやく道路へ押し出され、阻止する学生を振り切って、救急車はスピードをあげて中心部方向へ消えた。

長崎代行を取り囲み、集会の趣旨説明と理学部着工中止決定を迫る全共闘系学生と、代行を学生たちから守ろうとする教官、職員のもみ合い。この混乱は三時間余り続けられた。↓ 印は長崎代行
(S44.3.22-1)
新潟日報 昭和44年3月22日 朝刊1面(国立国会図書館所蔵)  

42.S44年3月22日(1969)新大長崎学長代行が発表/理学部着工は進める
 新大は3月21日の全学集会が混乱のうちに流れた後、新潟市内の「湖畔」で徹夜の評議会を開き、22日午前2時、理学部新校舎の着工を強行する方針を決め、22日朝文部省など関係機関にも連絡した。長崎代行は22日午前9時50分からの記者会見でこの方針を発表するとともに、今後若干の困難はあってもこの方針を推進する決意を表明した。
「評議会声明」=原文のまま=:
3月21日新潟大学評議会は左記事項を考慮に入れ、理学部新校舎の着工を決定した。
1.理学部の現校舎は老朽化がはなはだしく、到底今日の進歩した科学と教育・研究するための場たりうるものでなく、早急な改築が熱望されている。
2.五十嵐地区における土地・建物および本年度認められた理学部新校舎の予算は、新潟大学にとって大きな財産であって、これを教育・研究のために有効に使用することは、われわれ大学人が社会に対して当然負うべき責任である。もし予算を返上するならば、それは新潟大学の今後の整備計画に対して致命的ともいえる重大なる結果をもたらすであろう。
3.右の土地および建物予算は、第136回評議会(昭和40年2月)の決定にもとづく統合計画の一環として得られたものであり、したがって本年2月7日に山内前学長の決意表明によって統合計画が白紙撤回された以上、それは当然全学的再検討を経て、全学的合意のうえにのみ着工しうべき性質のものである。本日、年度末の期限に迫られて、右の条件がまだみたされていないにもかかわらず、着工を決定せざるをえなかったことは、現評議会が成立して以来いまだ日が浅いという事情があったこととはいえ、まことに遺憾なことである。4.特に大学側と学生諸君との間の信義にもとる決定をし、このことがひいては大学側と教官、事務職員諸君との間の信頼関係をそこねざるを得なかったことに対しては、甘んじて非難を受けなければならないと思う。しかしわれわれはこんご全学的再検討の場を早急に設定し、大学革新の途を精力的に追及するなかでわれわれと学内各層間との不信感を取り除きたいと念願している。
5.旧統合計画が白紙撤回されたことは、それを生んだ大学のもつ古い体質に対する批判から出発したものであり、したがって学内的にみた場合、それは必然性をもったものであるにもかかわらず、社会的には少なからぬ混乱を生みだし、大学の社会的信用を失墜したことは否めない事実である。われわれは今回の理学部新校舎着工決定を再出発点として真の総合大学の名にあたいする大学の建設に邁(マイ)進することにより社会の期待に答えたいとおもう。
6.今後に予想される困難な事態に対しては、学長はじめ評議会員全員が一致してその解決に当たる覚悟である。昭和44年3月21日新潟大学長ほか評議員一同
 ※鈴木学長代行らが総辞職をしてから、長崎学長代行が選出されるまで、3週間程度の空白があり、総合大学としてどのように進むのかを全学的に合意を得ないままに、理学部の工事着工のタイムリミットが迫っていた。この期に及んでは、
1)時間をかけて、新潟大学が総合大学としてどのようにして進むのかを全学的に議論して、合意を形成する道。早急な教養部の移転と理学部着工は行わない。
2)新潟大学が総合大学として進む道を早急に議論して合意を形成することは難しい情況であり、まずタイムリミットの迫った理学部着工について合意を得たい。
 という2つの選択があったと思われるが、長崎学長代行は、後者を選んだといえる。
これは評議会声明にもあるように、理学部の工事着工は全学的再検討を経て、全学的合意の着工しうべき性質のものであった。結果的に、大学側と学生側、教官、事務職員との間の大切な信頼関係を大きくそこねてしまったことになったと思う。
 ※3月21日の教育学部グランドでの全学集会には私も参加をしていたが、長崎学長代行に、いくら全共闘がものを言っても、理学部着工を決定するために、ひたすら追求されても耐え忍ぶ姿勢しか見られなかった。長崎学長代行からの反論はなかったように思う。この後の理学部着工決定が、その後の新潟大学の統合移転にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
結局、現在の新潟大学の五十嵐浜への統合移転の原型になったのではないか。長崎学長(代行)が新潟大学創立50周年で振り返って、医学部と歯学部が五十嵐浜に統合されなかったことを残念がっていたが、医学部教授会が本当に、旭町のキャンパスから五十嵐浜に移転して、全学統合を望んでいたのか、この時期に確認しておくべきだったように思う。もし、医学部と歯学部が五十嵐浜に移転をする全学統合を決定して、理工農学部と医歯学部が同一キャンパスに移転をしていたら、教育・研究の連携にどのように影響を与えていたか、現在の新潟大学の様相もだいぶ変わっていたかもしれない。その場合、医学部は、医学部を五十嵐浜に移転をして、附属病院を旭町キャンパスに残すのかどうか選択を迫られたと思う。新潟市内から五十嵐浜までバスで1時間程度の距離にあり、その半分程度の距離であれば移転する可能性があったかもしれないが、医学部としては難しい選択であったようにも思えるが、この後、医学部教授会は、五十嵐浜に移転しないことを決定した。
 人文・教育学部自治会系(民青系)の学生たちは、すでに確認文書の合意をしており、ストも解除して、抵抗らしい抵抗はしてこなかった。長崎学長代行の理学部工事着工の方針を支持していたように思える。
 全共闘は、「統合移転計画の白紙撤回」は勝ち取ったが、「理学部の工事着工」は阻止できなかった。

43.S44年4月4日(1969)新大、入学式取りやめ/新入生は自宅待機に(人文学部除く)
 新潟大学は4月4日午後、学生部協議会を開き、今年度新入生の入学式開催と新入生の取扱いについて協議の結果、この15日に予定していた同入学式は中止、人文学部を除く医、歯、工、農、教育、理の6学部新入生は、当分の間自宅待機させることに決定した。

44.S44年4月10日(1969)新大教養部教授会と工教自との団交物別れ/期末試験めぐり応酬
 新潟大学で4月10日、教養部教授会と工学部教養自治会の教授会団交が行われた。これは先に決定した教養部期末試験実施(大学側は18日から始めると発表)に反対する教養部自治会が教授会と話し合ったもので、午後1時過ぎから理学部17番教室で約80人の学生が参加して開かれた。学生側は「なぜ試験をやると決めたのか」「試験実施で闘争を圧殺するつもりとしか受け取れない」と教授会を追及。一方、教授会は「現在の情勢からみて、試験を中止、延期することは不可能だ」と回答。了解点のないままこの日の団交を終わった。

45.S44年4月11日(1969)「新大再建準備会」が発足
 新潟大学長崎明学長代行は4月11日記者会見し、今後の同大学のあり方の根本について考える「新潟大学再建委員会」の説明を行った。同委員会は実質的には10日から「準備会」としてスタートしており、学園紛争の中で起きた諸問題を検討し、大学改革を通して新しい大学づくりを目ざすという。同委員会設置は先月中旬の新評議会スタートと共に考えられていたもので、3月20日の全学集会で長崎代行が提案していた評議会では再建委員会設置の前にまず準備会を発足させ、問題点の整理と検討をする方針で、去る10日に第1回準備会が開かれた。準備会で取り扱う問題は、再建委員会の構成、討議事項、タイムスケジュールの設定、各種資料の収集調査などで、機構調査会、施設調査会など分科会を下部組織としてつくり活動するという。10日に開かれた第1回準備会では結論を出さないフリートーキングの形で進められた。この中で、主に討議されたのは、これから考えなければならないものとして
@総合大学としての新潟大学のあり方の再検討
A新潟大学の管理運営組織の再検討
B総合計画を含む施設整備計画の再検討
C大学管理運営への学生参加
D同じく職員参加の問題ーなど5点を挙げている。
この問題を通じて各学部、部局のあり方、評議会と各学部の関係、施設整備計画などを検討する必要があるとしている。特に、改革には各部局の改革の実践がまず必要で、それが再建委員会に反映されなければならない。これを準備会の基本的な考え方としていくべきだという意見が多かった。発表では同準備会のメンバーは32人(学長代行、教授14人、助教授13人、助手3人、無給医1人)。各学部から2-4人の委員が参加している。評議会としては、準備会の意向を尊重していく方針。今後は運営委員会をつくり、分科会の設置を早急に進め、なるべく早い時期に再建委員会を発足させたいという。

46.S44年4月14日(1969)新大期末試験に強い態度/工学部教養自治会スト解除に動く
 大学側は4月14日、この18日から行う試験日程を発表したが、学内情勢が落ち着かないため、試験会場を各学部に分散することに決め、さらに学内でただ一つ、ストを続けている工学部教養の学生については今回、受験させないことにした。このため同日午後開かれた工学部教養自治会の学生大会では、大学側の強硬態度≠反映してか、大勢は「スト解除」の方向に動き出したことが注目される。

47.S44年4月15日(1969)新大全共闘派、教養部事務室を占拠
 新潟大学で4月15日未明、教養部期末試験中止を要求していた全共闘系学生が同大教養部(新潟市西大畑町)の管理部門に当たる事務室をバリケード封鎖、占拠した。このため18日から予定されている期末試験の実施にかなりの支障がでるものと予想される。同日午前5時すぎ、ヘルメット、覆面姿の全共闘系学生約15人が教養部横の入口から学内にはいり、同学部の部長室、会計、庶務、厚生課の事務室と、廊下に隣接する理学部地質学教室プレハブ研究室を机、いす、ロッカーなどでバリケード封鎖、占拠した。大学側にとってこの封鎖は予期していなかったもので、期末試験用の事務書類、学籍簿、新入生の入学手続き関係書類、入学金、授業料などは一切持ち出していないため、18日からの期末試験にかなりの支障があるものと見られる。

48.S44年4月15日(1969)新大期末試験あくまで実施
 4月15日、新潟大学では評議会を開いて、封鎖に対する大学側の態度を協議した。この結果「一部学生が大学本部に続いて教養部事務室を封鎖したことは遺憾である。学生は直ちに封鎖を解除して退去せよ」という告示と「教育と研究の場の大学を不法に占拠するような行動は許されない。大学は一致して暴挙に対処する決意である」という声明を発表。長崎学長代行が記者会見し、次のように語った。「試験実施の方針には変更はない。試験には封鎖派の妨害も予想されるので、全職員を動員し、警戒に当たらせる方針だ。人命に危険を生じない限り機動隊は導入しない。まず教官の説得で自主解決を図る。」

49.S44年4月16日(1969)工教自、スト解除を決定
 新潟大学の本部を封鎖している全共闘の中心勢力、工学部教養自治会は、4月16日午後1時から教養部プレハブ教室で学生大会を開き、スト解除の問題を討議した結果、賛成159、反対、棄権91で、約5ヶ月半ぶりにストライキ解除を決定した。しかし本部封鎖後の全共闘学生は、前日の教養部事務室封鎖に続いて、この日午後零時過ぎ、更に教養部の教官プレハブ研究室を封鎖した。このため大学側は、学生部協議会を開き、封鎖に対する大学側の態度を協議した。この結果、全学の教官、職員を総動員、封鎖学生の説得に当たらせることになり、約600人の教職員を三班に分けて、本部など封鎖箇所に繰り出したところ、封鎖学生に反感を持っていた職員たちが、実力排除に出、教養部教官研究室は解放≠オたが、本部、教養部事務室の解放はできなかった。なお工学部教養自治会のスト解除で、新大の闘争学生は、各学部から集まった同志の学生≠ナ構成している全共闘だけとなった。また、全共闘は、この日の大学側の出方に態度を硬化させており、あす18日の教養部試験実施を控えて、学内に緊張の空気が高まることは必至となった。

50.S44年4月16日(1969)新大紛争、説得戦術も立ち往生
 4月16日の新大は、大学側がとった占拠解除のための説得作戦≠ェ不調に終わる一方、学生大会を開いてスト解除を決めた工学部教養自治会のうちスト堅持派*100人が新たに占拠に加わるなど、1日中目まぐるしく揺れ動いた。

51.S44年4月18日(1969)新大期末試験全共闘が実力阻止/農学部を除き中止
 新潟大学では、紛争で学年末試験が延期となっている教養部学生約1308人の大量留年を避けるため、きょう4月18日から1週間にわたり、各学部教室で分散試験を行うことにしていたが、試験実力阻止の方針を立てていた全共闘系学生が試験場封鎖、学生の入場阻止などの実力行動をとったため、1限の試験はほとんど中止された。試験実力阻止の方針を決めていた全共闘系学生は、この朝8時頃から行動に出、ヘルメットにゲバ棒を持った学生約30人が、まず人文学部の教室2棟20教室を机やイスでバリケード封鎖。そのあと約10人が教育学部正門玄関に押しかけピケを張った。一限の試験科目は経済学で、受験生は約100人。午前8時半開始を予定し、続々集まってきたが、全共闘学生の阻止行動で中に入れず立ち往生。人文学部では午前9時、試験中止を決定した。人文で受験を予定した約130人の学生は、教育学部正門玄関前に流れ、教育学部で試験を受けることになっていた約70人の学生の成り行きを見るのに集まったので、教育学部正門玄関は約200人の学生で膨れ上がった。この中で日共系を含む教育学部自治会学生が、全共闘学生に詰め寄って「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールを叫んだり、マイクで妨害の自主排除の構えをみせ、緊張した空気が流れた。このため試験実施は事実上不可能となり、午前10時10分、教養部は1限の試験中止を発表した。一方、医学部では、17日の学生集会で試験ボイコットを決めていた。医学部進学課程の生約100人が、この朝8時頃から旧医学部本館前に集合。説得に来た教養部教官と討論し、試験ボイコットの行動を取ったため、ここでも事実上試験は中止となった。結局1限の試験が予定通り行われたのは受験生43人の農学部だけだった。

52.S44年4月19日(1969)新大全共闘が本館封鎖/農学部試験も中止
 新潟大学学年末試験2日目の4月19日、全共闘系学生は再び試験妨害に出、新潟市小金町の農学部本館二階を占拠した。この日午前7時45分頃、全共闘系学生15、6人が農学部本館に入り、数学の試験が行われる予定だった特別講義室のある二階の階段二カ所をイスや机でバリケードを築き、二階を封鎖した。二階には特別講義室など4教室、事務室、会議室がある。この事態に対し、教養部教官が検討した結果、午前9時過ぎ、数学の試験中止を決定。全共闘系に封鎖された農学部は新潟市郊外にあり、いつもは静かなところだが、全共闘系学生のマイクのアジ演説が休むことなく響き渡った。教養部教官などは各所で占拠学生を相手に説得を続けたが、占拠学生はさらに4号館の二階に机やイスでバリケードを築くなど行動をエスカレートするばかり。これに対し一般学生はバリケードを崩そうとするなど学生同士の対決の動きも出始めている。

53.S44年4月21日(1969)期末試験、総くずれ/新大 ほとんどレポートに
 三日目を迎えた新潟大学教養部期末試験は4月21日、またも全共闘系学生の阻止行動にあいほとんど実施できなかった。一方、農学部学生が「このような混乱状態で受験しても無意味だ」と大衆団交を要求して、自主的に試験をボイコットしたのを始め、歯学部進学課程1年でも試験ボイコットを決めた。この日14科目約600人の試験が予定されていたが、受験したのは4科目25人だけ。こうした事態に対し大学側では、約30科目予定されている22日以降の試験をほとんどレポートに切り替え、混乱を避ける方針。農学部では同日午前9時過ぎ、全共闘系学生数人が、受験生にボイコットを呼びかけた。このため受験生たちは急きょクラス討議を行い、約80人が試験をボイコット。しかし18人が教室に入り受験したため、これを阻止しようとする全共闘系学生と入り口を守る教職員が対立。スピーカーでボイコットを訴える混乱の中で英語の試験が行われた。また人文学部でも第一限の英語は二教室が封鎖されて中止。午後は理学部と人文学部で6人受験しただけ。残りの十科目がレポートに切り替えられた。三日間ともほとんどの試験場で妨害を受けた大学側は万策尽きた感じ。これ以上混乱を繰り返してはと、筆記試験をレポートに替える教官が増えてきた。理学部前の掲示板に発表されている試験日程表も次々に消され「レポートに変更」の赤字が目立った。

54.S44年4月28日(1969)沖縄返せ≠ニデモ/新潟市でも2つの集会
 4・28沖縄デーの4月28日夜、新潟市では2つの集会が開かれ、それぞれ集会の性格は違いながら「安保条約破棄、沖縄を返せ」と政府に抗議した。県庁前広場では県反戦委員会・新潟地区反戦青年委員会主催の集会は、同5時半過ぎから学生・青年労働者など約500人が参加。社会党子田忠男県議、鈴木県評議長らが「4月28日は日本にとって屈辱の日である。佐藤内閣を打倒して安保条約破棄・沖縄即時返還を勝ち取ろう」と演説。集会には官公労、国労、動労、民間単組の青年労働者、学生が参加。特に新潟大学の全共闘系学生が、ヘルメット姿で行進をリード。東中通ー柾谷小路ー駅前大通りのコースをセンターラインを超える激しいジグザグデモで気勢を上げた。このため国道8号、7号線などが混乱。交通は一時マヒ状態になった。学生たちはデモ終了後、駅前タクシー駐車場で集会、参加者の中に高校生の姿も目立った。

※何故、全共闘の運動に参加をしたのか?
 全学集会(大衆団交)に参加をして、様々な討論を聴く中で、新潟大学が総合大学として、どのように進んだらよいのかを考えたときに、工学部教養自治会を中心とした反日共系(後の全共闘系)の考えに近かったことが挙げられると思う。大学の民主化や学生の参加要求など諸要求貫徹型の日共系自治会の考え方とは異なっていたように思う。2月10日の確認書の交換の行動を見て、決定的になった。更に、東大全共闘が唱えた「学問とは何か?」「大学とは何か?」といった根源的な問いかけに対して、学生としてこの問いを避けて通れなかったように思う。若干20歳で、この問題にぶつかったことが、あとあと重い課題を背負うことになってしまった。

※新潟大学全共闘(全学共闘会議)はいつ結成されたのか?
 新潟大学全共闘がいつ結成されたのかははっきりしない。元全共闘議長に聞いてみたが、2月21日に本部封鎖をしてから、新潟大学全学共闘会議準備会が本部封鎖の中で結成されたようである。
 新潟日報の記事では、S44.3.2の記事15面に、全共闘の学生による本部封鎖・・・という表現が初めて登場している。
また、S44.4.16の記事14面で、「二十歳の新大/長い坂道―岐路に立つ移転統合<5>体制への挑戦(上)」の中で、
全共闘派:正確には新大全学共闘会議準備会、2月21日以降、二度目の大学本部封鎖を続ける占拠派学生たちのこと。勢力は100人から120人。クラス、学部の学生組織を合体した全学的共闘体制の確立を目指しているが、個人参加の色彩の強い有志学生の集団=B
の記載がある。
 ※2年生の学期末試験の対応は、専門科目で、農芸化学科の後期実験の試験及び専門課程(必修)の科目をボイコットした結果、必然として留年が決定。
 決して裕福でもない家庭で育ち、兄弟3人の中で大学に進学させてもらったのは私だけだったことを考えると、厳しい選択だったが、試験のボイコットを呼びかけながら、自分が試験を受けることは矛盾しており、留年をすることを決断したことはやむを得ない選択だった。5年目の生活費はバイトで稼がなくてはならなかった。ただ、有機化学(必修)の試験もボイコットしたが、どういう事情か忘れたが、小笠原教授の研究室で有機化学の追試を受けさせてもらった記憶がある。

〈参考資料〉
1)新潟日報 朝刊・夕刊記事(1969)
2)五十嵐文夫「新潟大学統合の思惑 大学の裏庭D」(『現代の眼』9(8),210-219,1968)
以上