駒澤大学で勝利したバリケードストライキ
(陳内洋介〕

【本稿は戦いに参加した学生の個人体験をもとにした報告である】

 駒澤大学では一九六六年、自然発生的に民主化闘争が起こった。蜂起した学生たちが結成した初期段階の「全学学生協議会」はゆるやかな連合組織であり、「言論・出版・集会・結社の自由」「学生自治会創設」等の要求を掲げて戦っていた。
 既存の学生組織「学友会」は大学当局との密接な関係のもとに、事実上、サークルの予算配分機関にすぎず、大学の矛盾と向き合う姿勢はなかった。
 同年十二月八日、戦う学生たちは学友会が主催する学生大会で議事運営や方針について執行部を追及。議長選出方法。学友会人事の実相を白日の下にさらすことによって、学友会は非民主的な組織であることが明らかとなった。
 学生大会をボイコットして学友会と完全に決別した学生たちは、独自に運動を展開することになる。学友会は大学改革運動に敵対する組織となった。
 学生大会翌日(十二月九日)から連日、約二〇〇〇から四〇〇〇名規模の学生集会を開催。決議した要求書を大学当局に提出した。当局が団交を拒否した十二日午後には、抗議書を突き付けて約二〇〇〇名の学生が約二時間にわたる座り込みを決行した。
 やがて当局が望みを託した冬季体暇に入った。

 翌年の一九六七年一月、大学当局は学則違反の集会開催等を理由に「退学一名、無期停学三名」の処分を決定した。一般学生として全学協の集会に何度か参加したことがある法学部二年生の富柴健(ふしばけん。仮名)が登校した授業初日の月曜日。乾いた冬の西空にはいくつか綿のようなちぎれ雲が亀のようにたなびく午前であった。
 正門を入ると中央広場がある。その一角に設置された大学掲示板の前は、十数人の人だかりでざわついていた。
 「集会を開いて退学処分かよ」
 「ひどいじゃないか」
 「学問の自由の下にある大学で、こんなのナンセンスだよ」
 「処分理由こそ人権侵害。本末転倒じゃないか」
 掲示された一枚の告示文には処分を下された四名の名前が列記されていた。
 学生たちのあいだには大学当局への不信感が広がっていく。
 告示文を見た富柴の心にも怒りがボヤのようにふつふつと沸いてくる。一限は約二百人の学生が授業を受ける大教室であった。ドァ側の前から二番目の席に座った富柴は隣の学生に聞いてみた。処分の告示を「まだ見ていない」というその学生に処分内容を話すと、驚いた彼はエサを求めるハトのように口を開け黙したまま瞠目している。
 富柴は意を決した。学生の意思を行動で示すために、たとえ一コマの授業でもストライキに決起しようと思ったのだ。
 授業開始時刻から数分遅れて哲学の教授が教科書を片手に入室した。すかさず立ち上がった富柴は教授に歩み寄る。
 「先生、申しわけありませんが、学生たちに伝えたいことがありますので少しだけ時間をいただけませんか?」
 「かまいませんよ。どうぞ」
 大学当局は、こんなとき学生にマイクを渡さないようにと教授会に伝達していたが、哲学教授は富柴の願いを受け入れた。
 一言礼を言って富柴はマイクをとり、学生たちに「四名に対する処分は不当である」と簡潔に訴えた。
 「したがってぼくたちの抗議の意思を大学当局に突きつけるために本日、この時間、授業放棄を行いたいと思います。多くの賛同者を求めます」
 富柴は、このストライキに賛成の学生は挙手してください、と言ってマイクを持った右手を高く掲げた。
 大教室は静まり返った。真剣に富柴を見つめる目、能面のような薄い微笑、何か不思議なものに注がれるような視線、ポカンとした表情などさまざまな顔があった。チラッと左右に首をふる様子見の光景もあちこちに見られる。
 奇妙な雰囲気を切り裂くように、中央の左側に座っていた学生の右手が一本だけ真っすぐに上がった。しかしそれに続く者は皆無である。しかたなく富柴はマイクを教授に戻して言った。
 「先生、唐突なお願いでしたが貴重な時間をいただき、ありがとうございました」
 「過半数の賛成は、得られませんでしたね」
 老いた教授の表情は地蔵のように穏やかである。皮肉な巡り合わせではあったが、富柴にとってひとつだけ幸いなのは、もっとも好きな科目の哲学の授業を受けられたことだった。
 授業が終わって教室を出ると、たった一人、賛同して挙手した学生が声をかけてきた。高丸和彦(仮名)と名乗った学生は、富柴を慰めるように言った。
 「ストライキなんて、いきなりじゃ無理だよ。時間をかけてクラス討論を重ねながら意思一致を克ち取っていかないと実現しないだろう」
 高丸の説明を実感した富柴は、短慮で軽挙な行為を自嘲するしかなかった。戦略・戦術論を心得た高丸の説く筋道には説得力がある。
 「クラス討論といっても、さっきのような大教室では難しい。語学等の小人数のクラスでないと実りある討論は期待できない。それも、最初は個人個人に話しかけて理解を得ることだ。退学処分は不当と思っても、即ストライキに賛成するとは限らないからな。ストライキのクラス決議は、クラス討論の前に、ある程度の基礎的なストライキ賛成票を獲得しておく必要があるんだ」
 哲学教室の授業放棄は不発に終わったものの、不当な処分に対する疑問と怒りは大学内にくすぶりつづけ、やがてキャンパスは熱気をはらんでいく。その後、燃え上がる学園闘争を主導するグループの中に高丸和彦がいた。

 さらに約一年二カ月後の一九六八年二月五日、「建学の理念を中傷・学則違反のビラ配布」を理由に学園民主化闘争を支える中心メンバーの「学生十一名が退学処分」された。
 前年の処分は運動参加者および一般学生に対する恫喝であったが、十一名の退学処分は、ビラ配布に加わっていない学生二名が含まれていたことからも推定できるように、高揚する学園闘争への頂上攻撃であることは明らかである。こうした事態の推移は、着実に進展する運動を邪視する当局の苛立ちと咆哮を写す鏡のようでもあった。
 退学処分が告示された二月以来、蜂起した学生たちは、退学処分が正当であるというなら「その根拠を全学生に釈明すべきだ」として大学当局に大衆団交を再三申し入れたが、当局は拒否した。

 新たに「全学共闘会議」結成を準備していた学生たちは、新学期の授業開始とともに連日のようにクラス討論・集会・学内デモを組織した。
 ある日の「座り込み闘争」が注目を集めた。
 いつも僧侶の袈裟をまとって通学する青い目の学生が座り込みのスクラムを組んで胡座をかいていたのだ。彼は仏教学部の大学院に入学して仏教を研究するアメリカ人の留学生である。キャンパスを歩く背の高い彼は日頃から目立つ存在であり学部を越えて学生によく知られていた。彼と何度か話したことのある高丸によると、学生の要求は理解できるので、自分にできる範囲のことはするつもりだと語っていたという。
 当初富柴が予想した以上に「十一名の不当処分自紙撤回、自治会創設」等の大学改革運動は各学部へと急速に拡大した。

 四月二十五日、本館前の中央広場で男子学生二名・女子学生一名がハンガーストライキに突入。
 翌二十六日、約三千名の大規模な抗議集会が開かれ、その場で「全学共闘会議」が結成された。
 さらに二十七日、全共闘はバリケードストライキを決議。主に文学部と法学部が使用していた一・二・八号館を、机と椅子を組み上げてバリケード封鎖した。
 二日後の二十九日、大学当局は土建業者等を引き入れて八号館のバリケードを取り壊したが、全共闘はただちにバリケードを再構築した。
 バリケードは目的ではない。学生の自主活動を保障するためにある。建物の封鎖は学問研究を阻害するものではない。大学の制度下における授業は阻上したが、全共闘は自主講座実行委員会を設置して学生独自の授業をバリケード内で実施。学外から著名な学者など講師を招くことも何度かあり、自主講座は盛況に継続された。
 バリケード闘争に入ってから、全共闘と学友会派の学生とのあいだで衝突が起こりかねない緊張をはらんでいたが、キャンパスの風景はほとんど以前と変わらなかった。一般学生の中にはアルバイトに精を出す者や遊びに行ってしまう学生もいたが、多くの学生が登校していた。また経済学部と短期大学部では通常授業が行われていたのである。
 ある日の昼休み富柴が正門を通ると、学生食堂や各校舎前には学生がたむろし、植え込みの陰ではギターをつま弾く複数の学生の周りにも人だかりがあった。
 広場の中央に置かれた全共闘の立て看板の前に、日程を丁度書き終わって立ち上がり、右手に筆を持ったまま確認している中肉中背の全共闘派一年生男子学生がいた。彼のもとにがっしりした体躯の体育会系学生が近寄って何やら因縁をつけ始めた。
 「危ない」と富柴は思った。
 心配そうに一般学生は遠まきに見つめている。付近に全共闘の中央委員はだれもいない。富柴は走って一年生の前に立ち、体育会系学生に背を向けたまま言った。
 「もうすぐ八号館の部会室で会議が始まるから、君はすぐ行きなさい」
 「はい」と同時に脱兎のごとく駆けて行く一年生を見ながら富柴は背中の気配を感じ取ろうとした。
 その直後である。
 「てめえ、このやろう」強烈な蹴りだった。富柴は左足太ももの後ろに焼きゴテを押し付けられたような激痛が走り、うずくまった。左手で足を押さえ、頭を守ろうとした右手のひらは地面についたまま。立ち上がれずにいると、体育会系学生は捨てぜりふを吐いて去っていった。
 しばらくして一年生が書き入れた立て看板を確認したあと富柴は、あの一年生、これに懲りず戦線を離脱しなければいいがと思った。

 その後、大学当局は運動の自然消滅をねらって「休講戦術」にでた。
 全共闘は広く登校を呼びかけ、多くの学生が自主学習をつづけた。
 一方、通常授業が行われていた経済学部では、全共闘の学生がクラス討論を重ねていた。そして五月八日、約千名の学生総会でバリケードストライキを決議。ただちに三号館を封鎖した。
 二重権力構造の過程で、何度か交渉が行われていた全共闘と大学当局とのあいだで七項目確認事項が取り交わされた。
 学生の強固な団結体を前に大学当局はついに六月四日、「退学処分の自紙撤回」「自治会建設」等、全共闘の要求を受け入れたのだ。
 四十日にわたるストライキ闘争に勝利した全共闘は翌六月五日、バリケードを解いて教室の原状を回復した。
 同年の秋には、各学部で行われていた学生選挙によって学生自治会が設立される。
 学友会は体育部・文化部連絡会の統括機関に移行した。
 その後も自治会費の取り扱いなど諸問題をめぐって学生自治会と当局の対立はつづく。一九六九年六月、学生自治会はバリケード闘争で対抗したが、九月二日、当局は機動隊を導入。大学をロックアウトして戦ぅ学生を締め出すため「通行証」を発行した。ロックアウトに反対して通行証を拒否した全共闘は検間所を突破して学内集会を開くなど粘り強い闘争を継続した。

 一九六〇年代後半、ベトナム戦争は一段と激化していた。
 日本政府は米軍支援を通してベトナム戦争に深くコミットしていた。日本の米軍基地から毎日のように米軍機が出撃する。「戦争放棄」の憲法九条は完全に空洞化し、日本国の「非核三原則」をあざ笑うかのように(移動する核基地)原子力空母エンタープライズ号の佐世保寄港(一九六八年一月)を日本政府は認めるにいたった。
 ベトナム反戦闘争はアメリカ、ヨーロッパなど世界に広がり各国の若者の戦いは先鋭化していった。
 日本でも一部の高校を含む全国学園闘争・反戦闘争さらに労働者の戦いも燎原の火の如く全国に拡大していく。
 全共闘はクラス討論や学習会・学内集会等で民主化闘争の学内枠を越えてベトナム反戦・反ファッショ・反産学協同路線闘争を共に戦うことを学生大衆に呼びかけていた。
 全学連の街頭デモに参加する学生も増加していった。
 富柴はある日の夜、全学連のベトナム反戦デモに参加してアパートの狭い部屋に戻った後、着替えを持って銭湯に行った。シャツを脱ぐとき背中がヒリヒリと痛む。大鏡に写してみると、みみず腫れが三筋、赤く浮いている。デモの隊列になだれ込んで来た機動隊員に警棒でしたたかに打たれた跡だ。しかし、機動隊員も同じ人間、個人的な恨みを感ずることはなかった。
 「今日も、あいつは出動していたのかな」
 交友は途絶えたままだが、少年時代から目的意識を強く抱いて刑事を志し警察官になった高校クラスメイトの、細い唇を結んで微笑する懐かしい表情が思いだされる。
 帰り道、大通りに出て閉店準備中の薬局に飛び込み塗り薬を買う。帰宅後、背中の中心部にはどうしても指先が届かない。三十センチの物差しの端に薬を塗りなぞってみるが、十センチ角の手鏡しかなく、うまく塗れたか分からなかった。
 体をいたわり布団に横たわるが敷布団に背中をつけることができない。横向きのまま眠れぬ夜が更けてゆく。
 「自分の人生は、どうなってしまうのだろうか」
 一カ月も経たないうちに、また大規模な戦いがやってくる。身の竦む恐怖のなかで、目を閉じれば安穏に暮らすさまざまな想像風景がささやくように流れてくる。
 同時に、この国に生まれ、この国の歴史を生きる個人として、まとわりつく現実の矛盾に素知らぬ顔をすることはできないと思う。こうしているときも、ベトナムでは降り注ぐ爆弾の大地に泣き叫ぶ子どもたちの声がこだましているだろう。
 寝返りをうつたびに背中の傷がうずく。彼の脳裏には、数カ月まえに読んで以来、胸に刻印されたある本の一節、しびれるほどの苛酷な信念の詩が一条の光の如く浮かんできた。アメリカの黒人解放闘争を戦った戦士が書いた書物である。
 「愛が不平をかこち、理性がいらだとうとも、ひとつの声が聞こえてくる。真理のために死なねばならぬとき、身の安全を図るのは、人間の破滅だ」
 人間をやめるわけにはいかないと思った。右肘で体を支えながら南の窓側にゆっくり寝返ると、真っ白な朝霧にけむるふるさとの山河が思い出される。
 ときどき食料を送ってくれる母と父は、元気にしているだろうか。
 このままでは、両親が期待するような息子の人生は無理であろう。これ以上、親の援助に頼るのは申しわけない。
 彼は背中をいたわるように起き上がると机に向かって便せんを開く。両親の落胆と失意を思うと忍び難きことなれど、彼は決意の手紙を書き始めた。
 これまで育ててくれた感謝とともに、その恩に報いることはできそうにないこと、世界史的個人として、なぜ戦わなければならないか。
 「したがってこれからの生活はアルバイトでなんとかするので、以後の仕送りは停止してください」としたためた。
 手紙の封筒に宛名を書きながら蘇るのは日に焼けた母の心配顔だった。
 富柴は「ごめん」と念じた。
 夏期休暇や正月に帰省した彼が一週間くらいで大学に戻るとき、「もう、東京へ行くんだね」と母はいつもつぶやいた。「うん」と言って玄関を出て行くと、見送りに追いかけてきて「あまりアルバイトに時間をとられないでね」と言いながら母は、彼のポケットにそっとお金をしのばせる。父の了解によるものか、母のへそくりであったかはわからない。子どものように高ぶる気分で電車に乗ってから取り出すと、いつも四つ折りに畳まれた一万円だった。曙光の門出に立つように心の底から有り難いと思った。その感謝の気持ちを彼は一度も、言葉で母に伝えたことが無かったことを思い出したのだ。
 (後に帰省したとき、父はこの手紙について、親子の縁を切るつもりかもしれないと誤解したことが分かった。そのために親からの結びの絆として「今後も仕送りを受け取りなさい」と息子に返信したのだった)

 正月の十五日。全共闘は新宿西口前の地上広場でベトナム反戦の署名・カンパ活動を行った。一般市民の関心は高く、「これ、何に遣うんですか?」と聞いてくる。
 「原子力空母エンタープライズ号の寄港阻止闘争の為に、九州の佐世保まで行く交通費です」
 ある壮年の男性は黙って一万円札をカンパ袋に入れて歩きだした。
 「署名もお願いできますか」と駆け寄ると、「それは遠慮します」とていねいに一礼し立ち去って行った。男性の大卒初任給(当時、女性のデータは記録されなかった)の平均額が三万六百円(厚生労働省)の時代、カンパ袋をチェックするとき何度か少なくない一万円札の数に驚かされたものだ。
 腕を組んで歩いていた男女の二人連れがいったん立ち止まってから富柴に近寄って来る。「カンパもいいけどよ、ブタ箱にいる学生らは大変そうだったぜ」
 こう言いながら大きな財布を左手に持った三十代とおぼしきやくざ風の男性は、千円札を二、三枚抜き出してカンパ袋に入れてくれた。
 「ありがとうございます。あなたも逮捕されていたんですか?」
 「そうだ、きょう出てきたばかりだよ」
 「そうだったんですか」驚いてあいづちをうつ富柴に、もう一度男性の左腕を軽く両手でつかんだ連れの若い女性が、微笑して真っ赤な唇をそっと開いた。
 「学生さんと違って、うちの人はケンカですけどね」
 「ありがとうございます。署名もお願いできますか」
 男性は背を向けたまま右手首を振って寄り添う二人は新宿駅構内に消えた。
 この日、通行人のなかに振り袖姿の若い女性が目立っていた。思えば今日は成人式だ。自分も同じだったと気がついた。彼女たちは同級生なのだと気を良くした彼は親しみを込めて積極的に声掛けをする。
 「成人おめでとうございます。ベトナム反戦の署名活動にご協力ください」
 しかし、振り袖姿の女性たちの中にはただ一人として協力者はいなかった。署名活動が終わったあと、つい愚痴をこぼした富柴に高丸は笑った。
 「成果はあったんだ。そんなことでしょげるなよ」

 全国から連帯して戦うため集結した多くの学生とスクラムを組む東大闘争は、全国学園闘争の天王山といわれた。それゆえ東大闘争は、権力の集中砲火を目前に控えて火花のような緊張感をはらんでいた。
 その年も暮れようとするころ、各党派による思想の対立から学生同士の内ゲバも激しくなっていた。
 それまで内ゲバには加わらなかった富柴だが、東大闘争支援と連帯のために東大構内に立てこもっていたある夜、一度だけ激しい衝突を目の当たりにして立ちすくんだことがある。
 どう考えても割り切れなかった。呆然としたまま一人、立てこもっていた校舎の屋上に上がり空気がしぼんだように天を仰いで大の字に寝転んだ。
 考えをめぐらせても整合の橋はかけられない。聞いたふうな言葉は虚無感に奪われた。繰り返し吐き上げるため息だけが夜のしじまを震わせる。
 しゃにむに求め続けた道標が闇に吸われて消えゆくのを憐れむように、小さな星たちが瞬いていた。
 その夜、彼は決めた。
 「もうぼくは、このまま進むことはできない」
 階下に降りて高丸と向き合った。
 「よく考えた結果、ぼくはここまでだ。今すぐ、この場から撤退する」
 「分かった。状況を見て、我々も判断する。大学でまた逢おう」
 「気をつけてな」
 こうして富柴は第一線から身を引いた。

【資料「駒澤大学全学共闘会議・1967]】(一部要約)
 バリケード闘争勝利のために!

 駒大のすべての学友諸君! あらゆる敵の権力の攻撃に屈せぬ団結を、われわれ自身の手で築きあげようではないか。
 十一名の不当処分白紙撤回
 学生自治会建設
 言論・出版・集会・結社の自由
〈はじめに〉
 一昨年、自然発生的に民主化闘争を開始し、一年五カ月経た現在、バリケードのなかで我々は戦っている。あらゆる学生の運動が国家権力と癒着した大学当局によって弾圧されつづけている中で、その攻撃に対決してきたのは、学生の普遍的な団結であった。現実に起こっているバリケード闘争が、いかなる内容を我々個人に突き付けているのか、再度問い直しておくべきであろう。

〈1〉「十一名の退学処分」「バリケード闘争」は何を意味しているのか
【質問1】「十一名の退学処分」をどうとらえるか? 説明してください。
[回答]直接の処分理由は、二月一・二・三日の受験生へのビラ配布が「建学の理念を中傷、学則に違反」としています。処分は拙速にも二月五日に告示されました。授業は終了して一般学生不在の春季体暇中のことです。
 現在、学生の諸活動は大学事務機構内の学生部で審議・決定されます。
 今回の処分についても、学生部の調査資料が教授会に提出され、決定しています。被処分者の中に、ビラ配布に加わっていない学生が二名含まれていることから、処分対象者の選択には、これまで運動を継続的に調査してきた学生部の恣意性が充分窺えます。
 処分の基本的な動機は、駒大における学生運動の高揚を抑圧・消滅させることにあったと思います。レッドパージの側面ばかりでなく、全学生の自治活動に対する弾圧です。したがって我々は、処分の不当性を追及するのみでなく、学生の自治活動を抑圧し弾圧する諸規定の不当性を追及していかなければならないのです。
 大学当局による学生自治活動破壊の方向性は、現在の文部省・私学当局の基本的な課題としての、産業秩序再編・細分化に対応する教育の専門化・細分化と平行しておこなわれている事実を見なければなりません。「期待される人間像」「愛国心」の強調は、人間を国家権力のもとに従属させていくものです。
 ここに他大学学生の戦いとも連帯する意味があります。
 国家権力と産業資本が要請する主体性の喪失した学生、資本のもとで黙々と働く労働者に加工するために、学生の自治活動は害であり不要なのです。われわれを、自治能力の無い主体性喪失の学生として大学体制内におしとどめようとするものとして「十一名の退学処分」があるかぎり、自分自身の問題として捉え直し、すべての学生にかけられた攻撃として「不当処分白紙撤回」を戦わねばならないのです。

【質問2】『バリケード闘争」は何を意味するのですか? もう少し当局と話し合いをするなり、バリケード以外の手段はないのですか?
[回答]バリケード闘争に入る前、我々は法学部・社会学会・国文学会の連署により、不当な処分に抗議するため大学当局に対し「処分の釈明要求」を掲げて再三、大衆団交を申し入れました。にも拘わらず一方的に「非合法」として拒否してきました。
 駒大において異議申し立てをする場合、学生部の許可制のまえに悉く却下されます。いわゆる合法手段はすべて奪われているのです。大学当局の意に添わぬ要求に関して合法手段は不可能という大学それ自体が不法です。
 そこで我々は、より多くの学友の団結をもって要求するため各学部で形成された行動委員会・文連闘争委員会と連帯し「全学共闘会議」を結成しました。
 我々は人間存在をかけて、自己を抹殺してくる大学権力に反逆し対決する必要があるのです。それが、学生が日常利用してきた机や椅子でバリケードを組むことでした。
 バリケードを組むことが我々の目的ではなく、まさしく我々の連帯と団結をもって自己を権力から解放すること、人間として学生として、奪われてきたものを取り戻すために存在しているのです。自由な討論会や研究会、言論表現のための立て看板やビラの製作は、このバリケードのなかで行われています。こうした自由な自治活動はバリケードがなくても必要なのです。
 バリケードの意味は、我々を抑圧するあらゆる権力に対して、もっとも鋭い意志をもった反逆です。我々の連帯と団結によって支えてゆかねばならないのです。同時に我々の戦いを、権力の暴力的破壊から守るためにもあるのです。

(終)


【サイト管理者より】
資料として、81枚の写真が送られてきていますが、サイズ合計が625MBになるので、WEBではサイズを縮小加工して公開したいと思いますので、少し時間をください。