この文章は、「続・全共闘白書」編纂委員会からの質問紙表に沿って書きました。
@1960年代の学生運動はなんだったのか?
▽戦った対象は:
個人史的には、私の高校生活の2年生の時に起こった学園闘争は、教師集団(教育体制)への抗議であったと思います。全ての教師が対象であったわけではありませんが、そして私たちの味方をしてくれた教員もいたわけですが、多くの教員、とりわけ悪徳教員は戦いの対象だったと思います。また、学校を支える教育観や生徒への視点、管理的な様々な規則や教員が持っている考え方が一つ一つ、戦いの対象であったでしょう。
ところが面白いことに、この教師集団への糾弾闘争は現在、生徒の教師評価として十年ほど前からアンケート調査の形で実施されるようになりました。これは誰が制度設計したのか知りませんが、学園闘争を体制に取り込み、その精神を骨抜きにして表向きは民主的にするという現代社会の醜悪な側面を如実に表しています。教師と生徒という権力の非対称性だけが問題であるのではなくて、学校を構成するすべての構成員の水平的な合議という形態こそ求められたものだったのですが、当時も今も制度を作る側の人間は根気のいる議論の場を設定することを拒否し続けています。なぜなら、それをすることは自らの制度を破壊することになるからでしょう。
戦った対象はそれだけではないでしょう。当時も今もそしてどこでもですが、多様な人間が生きているこの世界でそれぞれが思う息苦しさを素直に表明するフラットな空間が存在せず、既存の成功者と健全者を基準にした恐ろしく思い上がったスキームと規則で世界が出来上がっているということです。そして効率性と能力主義によってしか世界は維持できないという資本主義的恫喝による重苦しさでますます世界は人間を押しつぶしている訳です。当時はそんな仕組みなど知る由もなかったけれども、おそらく直感的に感じていたものでした。それはいわゆる「世間」と呼ばれるものでしょうが、それと戦っていたのではないかと考えます。
▽戦った理由は:
私たちの在籍していた生野高校は1968年に、一部の体育教員が業者と癒着してリベートをもらっていたということが暴露されました。闘争の発端はそこからでした。その時は私も一般的な生徒で、その暴露した3年生たちの勇敢な行為に触発され、社会問題への興味を持ち始めました。69年の1月にはかの有名な東大安田講堂の闘争があり、学生たちが大人社会への抗議活動を自らの身を挺して行っていることを知るにつけ、ますます何らかの行動が必要だと感じるようになったわけです。
最初は、社会問題研究会(今やこんな名前のクラブは存在しないようですが)というクラブへ入り、同じような問題意識を持つ仲間がいることを知りました。そして、仲間とともに学校の検閲体制への批判を開始しました。
▽誰が(どんな組織が)運動をリードしたのか?:
最初は、学校の様々な規則への批判から始まり、生徒新聞への検閲と学園祭への介入に対して抗議をしていきました。社研では学園祭で安保の問題や水俣の問題などを取り上げ、少しずつ仲間を増やしていったと思います。しかし、学校側の回答はのらりくらりとしたもので、一向に埒があきませんでした。その年の11月に私達社研の有志が秘密裏に「全学闘争委員会」を組織し、学校封鎖を計画しました。リーダーは三年生のE君でしたが、彼の元に10名ほどの仲間が集まり、10日早朝に職員室を封鎖しました。
封鎖闘争は一週間続きました。連日、校庭で全学集会を開き、私たちの訴えを全生徒に話し、教員集団への要求を掲げて戦いました。多くの学生が夕方遅くまで校庭で私たちの話を聞いてくれました。あの日々のことは私の全人生の中で最も人間が信頼に足りるものだという確信が生まれた瞬間でした。
〈職員室封鎖を伝える新聞〉 | ||
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▽60年安保との連続性の有無:
60年安保は私の九歳の時の出来事でほとんど知りません。後に知識としては知ることになるのですが、実際の安保闘争を知らない世代にとっては連続性など感じられませんでした。
60年安保闘争の精神と私たち世代の闘いの精神とはかなりの距離があるように感じます。60年安保のことを書物でしか知り得ない私にとっては勘違いもあるかもしれませんが、あの時代の闘いは政治的課題がはっきりしていたと思います。勤評闘争や炭労の闘いなど50年代後期の戦いがあったとはいえ、60年の安保闘争ははっきりと条約破棄が焦点化されていました。そして、あの時点で条約を破棄するための闘争とは請願闘争でしかなかったと考えます。それに反して60年代末の私たちの闘争はもう少し広範囲な文化的で社会的でかつ政治的でもある闘争だったと考えます。50年代後期から安保へ至る闘争は、戦後民主主義期から反動期へ転換し、繊維産業/石炭産業から重化学産業/石油産業へと転換する節目であったことで、社会的変動が安保条約に焦点化されていきましたが、60年代後期の学生の闘争は高度経済成長期にあって労働者の経済闘争は終息局面にあり、むしろ社会的な矛盾が先鋭化していた時代だったのではないでしょうか。だから、全学連系党派は単なる条約廃棄だけではなく政府転覆そのものを暗に示唆していたし、全共闘は社会そのものの作り替えを目指していたと思います。当時はそのことをはっきりと意識化できていなかったかもしれませんが、東大闘争と日大闘争が示唆するものは、権力の頂点である官僚組織=国家のあり方と民間=市民社会の金銭まみれの世間への抗議として二重の日本社会への抗議運動であったと考えます。
A運動に関わる契機、思想遍歴
▽進学大学(学部)を選んだ理由(進学の動機):
高校進学はただなんとなくでしょう。中学のほとんどの生徒が進学する中で疑問も抱かず進学を選びました。大学進学は1972年です(関西大学)。なぜ大学へ進学したのかははっきりしません。多分、両親から懇願されたからだと思います。親と関係はそれほど悪くありませんでした。私の高校での活動にも理解を示してくれましたし、実のところ高校2年生の年に留年をして二度二年生を経験していますが、特に親から咎められはしませんでした。
同じ高校で戦った友人たちには高校を出てすぐ働きに行った者も多いし、大学へ進学することに若干の後ろめたさはありました。現役で通らなければ働きに行くつもりではいたのですが、たまたま通ってしまったことで、成り行き上進学したというのが正直なところです。
▽所属サークル:
先にも言ったように高校では社会問題研究会で多くのことを学びました。実は、一年生の時は演劇クラブでしたし、二回目の二年生の時には生徒会の役員もやりました。その他には美術クラブにも出入りしていました。
大学では、一年生(72年)の時に「現代中国研究会」に入りましたが、それほど熱心な活動家ではありませんでした。三年生になって学部の自治会再建闘争(69年の全共闘運動の結果、学部自治会は消滅していました)に関わってからはそれなりに熱心に活動しました。当時、狭山闘争がサークル連合全体で取り組んでいましたので、そこにも少し関わりました。自治会が再建された後は、なぜか委員長に押されて、その後四回生の時に学費値上げ闘争に関わり、その縁で京都や滋賀の大学ともお付き合いすることになり、それなりに党派とも関わりましたが、当時は学園は中核派とブント系の党派がいて、それぞれそれなりの関係を保っていました。
私の所属していた社会学部は中核派が主導権を表面上握っていましたが、自治会は彼らと取引して、三里塚闘争を担うという条件で共存することになりました。一応、自治会は大学生協がバックアップをしていて、ブント系ということで共存が可能だったのでしょう。
▽読書体験など(教師、先輩、同級生、自分をオルグした人物など):
個人史的には、中学生の頃から実存主義には関心があり、サルトルやカミユなどを読んでいました。高校2年の社研に入るまでは政治的なものはほとんど関心がなかったと思います。どちらかというと文学青年でした。キルケゴールやバビュルス、トルストイやドストエフスキーなどを乱読していました。
2年生になって、にわかに政治的な文献を読むようになりました。先輩や仲間から勧められて、マルクス・レーニン関連の文献を読むようになりました。マルクスは難しすぎて、その時はほとんど理解していませんでした。印象に残っているのはレーニンの『国家と革命』やジョン・リードの『世界を揺るがした十日間』エドガー・スノーの『中国の赤い星』などでしょうか。
私に多大な影響を与えた人としては恩師のM先生がいます。彼は私たち全闘委の全てのことをサポートしてくれていました。私が高校を卒業できたのも恩師のおかげです。彼は戦後すぐの民主主義改革期に教職員組合で先頭に立って闘っていた教員で、毛沢東主義者でした。彼から中国革命に関する情報を色々教わったものです。日中友好協会の理事をしていたと思います。
共に戦った旧友たちも今や一人二人と亡くなっているので寂しい限りですが、今も数人とは年に一度二度会うことがあり、終生の友であります。
大学では、学部が社会学であったことで、疎外論系の書物を読むことが多かったように記憶しています。マルクーゼやフランクフルト学派系のものと『資本論』などマルクス系のものとを並行して読んでいました。
▽影響を与えた人物(自分がオルグした人物など):
オルグした人物などはおこがましくて言えません。誰かを個人的に説得しようとした覚えはありません。ただ、学級への入り込みや集会での演説などは何度も経験しました。元々、全闘委は組織的なものではなくて、いわば仲間集団でしたので、別に「綱領」があるわけでもなく、自由な集まりでした。
▽戦争世代である両親との関係:
父は兵士として南方へ派遣され、スマトラで終戦を迎えました。戦後日本へ帰ってきて、母と見合い結婚で世帯を持ちました。東洋紡績の社員で普通のサラリーマンです。母は専業主婦ですので、戦後の典型的な核家族です。私は一人っ子ですので、三人家族です。父は戦前に両親を早くに亡くした苦労人です。二人の姉に育てられたということです。しかし、どうやら私と同じで文学青年であったようで、フランス文学に傾倒していたようです。家にはバルザック全集やロマンロランの本などがあります。また、政治的には戦前の青年にありそうな革新派で北一輝やヒトラーなどの本も読んでいたようです。戦後は社会党の右派を応援していました。
先にも書きましたが、親との関係は良好でした。私が政治活動をするようになっても、一定の理解を示してくれました。父との会話はそれほど覚えていませんが、彼が懐疑論者であったように感じています。ちょっと世の中を斜めに見ていたようです。彼の愛読書が永井荷風(全集がありました)でしたので、なんとなくわかるような気がします。
母は大阪の京橋でメリヤス会社を営む一家の娘で、戦前は大きな家に住んでいたようです。戦争中は淡路島へ疎開し、大阪が空襲で空が真っ赤になるのを見たとよく話してくれました。戦争による傷痕はここにも見ることができます。戦後の何もない時代に結婚して、本人的には苦労したという思いはありました。戦後すぐ、大阪へ帰ってきた時、工場も全てなくなっていて焼け野が原であったということです。私にはよく戦争の話をしてくれました。戦争中に反戦活動をしていた大学教授のお宅で住み込みのお手伝いさんをしていたそうで、「戦争は負ける」と教えてもらってびっくりしたが、その通りになったということを何度も話してくれたのが印象に残っています。知識人へのリスペクトがあったようです。
▽時代の空気(国際的、社会的、文化的な時代背景):
当時はベトナム戦争が激しかったし、学生運動も盛んでしたから、世の中をなんとかしなければという気分は今よりも大きかったと感じます。また、ちょうど若者文化がそれまでのものとは違って目新しいものに映っていました。米軍のお下がり品でジーンズやずた袋などカーキー色の製品が流行っていました。音楽もビートルズの長髪が流行り、私も伸ばしていました。文化的には様々なものがごちゃ混ぜになっていた時代だったように思います。私たちは制服を拒否して、ジーンズに下駄を履いて登校したものです。旧制高校のバンカラとアメリカ文化が混ざったような姿でした。
反抗することが若者の特権であるような時代でした。今から考えれば、大人たちもそれを比較的許容していたのではないでしょうか。おそらく、まだ戦後焼け跡時代の記憶がかすかに残っている時代で、戦前の規範を否定して始まった戦後日本の新たなスタイルを模索しているようなワクワクするような感じがあったと記憶します。現在のような息苦しい感じではなく、苦しくとも未来を信じることができるような時代だったと感じます。次々と新しい文化が生まれ、私自身も、実存主義からマルクス主義へ移りながらも、文化的にはビートルズよりジャズが刺激的であったし、マイルスやコルトレーンをよく聴きました。また、アングラ劇場なども流行りだし、アンダーグラウンド的な文化が魅力的なものに見えていた時代です。
B党派性について
▽党派との関わり(個人的な党派性、学園としての党派性)とその評価
高校時代の党派と言っても、それほど意識したものではなかったと思います。全闘委には反戦高協に入っていた者がいたし、ベ平連やフロントなどの活動家もいました。私自身はあまりそういう政治的な党派性を意識したことはありませんでした。大学生やもっと上の世代の活動家との接触もありましたが、彼らの話は「すごいなあ」と思うことはあっても組織的な活動に入り込むことはありませんでした。やはり基本は高校生活でした。確か、70年安保闘争の時は全闘委のメンバーはフロントのバスで東京へ行ったのだったように記憶しています。私は行きませんでしたが。
大学では、先にも言ったように中核派とブントがいました。中核派に誘われて、二回生の頃に東京へ行ったことを覚えています。何の闘争だったか今では完全に忘れました。ブントにも誘われて三里塚へ援農に行きましたが、そこで自身がいかに体力がないか思い知りました。そんな訳でそこそこお付き合いはするものの組織には入りませんでした。四回生の頃に学費闘争の縁で関西のいくつかの大学と関わることになりましたが、その時、同志社大学の全学闘に誘われて小さなサークルに入りましたが、それも卒業してすぐに自然消滅してしまいました。
確かに党派の組織は大学生の運動が一過性であるのに反して継続性があるので必要であると感じられますが、当時の党派の理論は今から考えれば、かなり未熟なもので、大学闘争の継続的で組織的な闘いに有益であったかどうかは疑わしいものがあります。党派の組織的利害が優先されて、個別大学での運動の継続と維持にどれだけ役立ったかは定かではありません。
私個人はブント系の人たちから資本主義批判の重要性を学ばさせてもらいました。70年代中期に直接の関わりがなかったものの、赤報派の榎原理論には傾倒していました。
▽運動時に対立した組織とその評価:
高校闘争で対立した組織はありませんが、個人的には何人かの生徒が封鎖に反対して、集会に参加しなかったようです。
大学では、学園内に対立していた組織は、右派系の勝共連合や日本共産党がありました。一度、学内で情宣活動をしている右翼に抗議に行って、返り討ちにあって負傷者が出たことがあります。また、サークル活動内部での様々な利害対立は日常的にありました。個人的には一度某サークルの人に大学内でナイフで襲われたことがあります。幸い、その人は屁っ放り腰だったので無事逃げることができました。
▽党派性を伴う運動は必然だったか:
党派が高校闘争に介入してくるという経験をしていませんので、よく分かりませんが、当時69年10月に東京で大きな闘争があり、党派の人間は動員をかけられていたようです。大阪の私たち南大阪地域の高校では、それを巡って地元で封鎖闘争をするか、東京の中央闘争に行くかで悩んだ人がいたという話は聞いたことがあります。ちなみに、この11月の封鎖闘争は南大阪の数校で同時多発の封鎖闘争が起こりました。多分、誰かが画策したのだと思います。誰とは知りませんが。
▽内ゲバについて:
内ゲバは私が大学に入ってから経験しました。直接には関係しませんでしたが、中核と革マルの内ゲバで死人が出ました。私自身は、学内で右翼系の集団に仲間がやられたのを見ています。また、自身も組織的な対立で個人的な暴行に会いましたし、逆に私たちのサークル活動に敵対していると思い込んだ人物を襲撃したこともあります。これは、明らかにコミュニケーション不足でしょう。組織対組織の内ゲバは路線の違いからというよりも、ちょっとしたきっかけで起こる利害対立や偶発的な事件を端緒にして、怨念や仕返し感情に基づくものであると感じています。これはどの社会でも起こりうることでしょうが、やはり狭い集団であればあるほど、それが拗れるように思われます。いかに開かれた組織が肝心かを示しています。反政府組織となるとどうしても国家権力の介入を防ぐために閉鎖的になる傾向がありますが、おそらくこのような反政府闘争や反体制闘争を開かれた組織として構築することで幾度も敗北してきた経験があるからでしょう。その意味では、政府あるいは体制側が圧倒的に有利であることは確かで、そのような戦術レベルの闘争は限定的なものだというのが教訓です。小手先の戦術や組織防衛路線で世の中が変わるものではないということを知ることは重要です。その意味では内ゲバは大きな教訓だと思います。日本の反体制運動の一種の「敗戦」の教訓だと思います。生かすべきです。
もう一つ、この悲劇について語る視点があるようです。それは、これらの抗争は極めて原始的な方法がとられていることです。近代戦のような飛び道具は使われず、中世の決闘のような肉弾戦のような形態がほとんどです。そしてにも関わらず、中世のような決闘のルールのようなものが存在しませんでした。むしろ、近代戦の大量殺戮を思わせるような残酷な面も持ち合わせていました。歯止めがかからず、報復合戦という意味でもそれは目に余る様相を呈していました。これはある意味では20世紀の戦争でもあったのでしょう。ホブズボームが『20世紀の歴史』で指摘していたように、形は原始的でもその本質は近代的な精神で行われていたのかもしれません。標的となった対象は党派の活動家ではありましたが、それはまさに職業兵士へのそれでしたし、さらに周辺のシンパにも及んだことを考え合わせると、近代における民衆への無差別攻撃を想起させるものでもありました。これらのことを考え合わせると、この内ゲバの悲劇は20世紀の革命思想のおけるレーニン的な遺産であるかもしれません。何故なら、彼は党派を固く結合した職業革命家の組織として形成したからです。それは帝政ロシアにおける弾圧から組織を防衛するものであったとはいえ、その形態が多くの革命を目指す組織の模範ともなりました。60年代という時代に起こったチリでの反革命やボリビアでのゲバラの戦いに触発されていた当時の若者にとっては当然の帰結であったかもしれません。ただ、長い間その悲劇を繰り返してその時代性に気付かなかったということは深く教訓としなければならないことだと考えます。
C学生運動の成果はあったか?
▽学園内、学園外での成果の有無(文化的成果を含む):
高校時代に私たちが行ったちっぽけな闘いは、私の学年から数えて二つほど後までは続きました。私たちの下の学年の者が私たちの闘いを継承して、制服自由化闘争に取り組み、自由服を勝ち取りました。しかし、数年して風の便りによれば、元の制服へ戻ったそうです。おそらく、色々と紆余曲折があったのでしょうが、私たちの世代の文化は長くは続かなかったようです。
学校という所は次々と世代が交代する場所です。そしてそこは国家と政府が管理する場所であり、それを管理する教職員たちは国家の雇われ人です。そんな所で、一時的に通過する者でしかない我々には闘いの文化を持続させることなどできるはずもありません。更に言うなら、国家にとって厄介者でしかない我々の闘争文化を金と権力を用いてじわじわと潰しにかかるなどと言うことは至極容易なことでもあるでしょう。ただ、私たちができることはこの闘いの文化の遺産を伝承することぐらいです。たとえ小さな範囲であっても子や孫や近しい者たちに言い伝えることが、できることの最大のことだと思います。闘争課題という意味では、闘いはそこを管理する者たちをも巻き込まなければ十分な成果は得られないということでもあります。しかしそれは往々にして闘争の鋭さを鈍らせる所以にもなります。この相反する要因をいかに克服して、最大の成果を得ることを目指すかが政治の目的なのでしょうが、年若い学生や生徒にとってそれを望むのは無理があります。学園闘争の歴史的な意義が一過性であったというのは無理からぬことでもあったということでしょう。
学生運動という大きな社会的出来事が日本社会に与えた影響を私があれこれ言うことなどできるはずもありません。ただ、私たちの世代が経験したあれこれの文化の表層は、後に洗練された形で精神が骨抜きとなって今も続いています。若者はジーンズを穿き、ジャズを聞き、アングラ演劇も見ているかもしれないが、あの時代の反抗精神は受け継がれなかったように見えます。あるいは、これは私の勘違いであって、全く違った形で引き継がれているのかもしれませんが、年寄りにはなかなか見えにくいものでもあります。
▽成果についての反省あるいは教訓:
「70年ショック」という言葉があります。小熊英二やサ秀実の著書には「7・7華青闘の告発」を契機に70年代以降新しい市民運動が現れたとあります。確かに、反公害運動や環境運動、反差別運動や女性運動、障害者運動など日本社会が持っていたこれまでの見逃されてきた様々な社会問題が噴出しました。これは確かに60年末の学生たちの反乱がなければ生まれなかったものかもしれません。現在の人権運動やリベラル派の運動などもこれらを引き継いでいることは確かであって、その反作用であるナショナリズムも強力ではあるものの、抵抗闘争は絶えることはないでしょう。その意味では貴重な遺産を残したのかもしれません。
ただ、教訓というものを考えるとありすぎるぐらいあるでしょう。その一番に挙げられるのは、政治的パフォーマンスがあの時代には街頭闘争や学園の占拠闘争で幅が限られていました。新宿のフォーク広場のような広場占拠闘争(2010年代の世界的な占拠闘争の先駆形態でした)は偶然生まれたものであって、意識的には作れませんでした。また、国政レベルでのパフォーマンスは皆無だったように思います。今のように広いコミュニケーションの回路がなかった時代ではあるとはいえ、一つ前の時代の政治活動家との世代的断絶、感覚的な断絶は大きなものだったように思えます。それは私が働き出して労働運動に参加したときに痛感したものです。私たちの前の世代は戦後の民主化闘争を闘った人々です。彼ら彼女らの民主主義に対する感性はそれほど私たちと変わらないのですが、組織の話や闘争の仕方をめぐる議論になると大きな違いがあります。あの世代の人たちは戦後民主化闘争で勝ち得た成果を守ろうとしすぎる傾向があります。確かに戦後の民主化闘争の歴史を知れば知るほど、苛烈な闘いだったことが分かります。炭労の闘いや第二組合をめぐる闘いなど占領軍が戦車を動員する局面もあるぐらい苛烈であったことで、当局との取引によって勝ち得たわずかばかりの成果を守ろうとする気持ちは分かりますが、そのような裏取引によって得た成果がいかに脆いものであるかは歴史が教えてくれています。かつて江戸時代の農民一揆が革命ではなくて、領主へのお願いであったことはよく知られた事実です。農民の請願が受け入れられたとしても、一揆指導者は斬首されるというパターンが繰り返されてきました。この民衆の抵抗と支配者との関係は今も続いています。労働争議の解決のパターンは常にこの形態です。必ず、指導者が解雇され労働組合は面倒を見続けなければならないのです。
戦後民主化闘争の労働運動側面から見るなら、現在ではその成果のほとんどが反古にされています。その責任の一端は運動の成果を当局の交渉結果に依存しすぎて、法的な確固とした枠組みを形成することを疎かにしてきたからではないでしょうか。闘わない中途半端な組織をいくら残してもへのつっぱりにもならないというのが私の感想です。
これは80年代の労戦統一を巡る闘いで「連合」へと吸収されていった既存組合が今では見る影もない姿を晒していることを考えれば、例え少数とはいえ節操を守ることの方が真の闘いの伝統を継承するということにつながるのではないかと思います。
D学生運動後(卒業後)どうしたか?
▽労働運動など生活の中で学生時代の問いとどう向き合ったか?:
高校を卒業後、大学へ進学し、そこでサークル運動に関わり、「現代中国研究会」や自治会、学生生協などで活動した。大学では狭山闘争や学費闘争があった。どちらも大勢の学生が集まり大規模な集会が行われたが、私にとってはあまりにも多くの学生が集合することで返ってそれぞれの顔が見えないという感覚を持った。何千という集団を統率することの難しさを感じ、学園での政治的振る舞い方に戸惑いを感じた。私などは運動の一端を担っただけではあったが、今ここで自分が何をいかに為すべきかに悩んだ。唯一の成果としてはそれまでなかった学生自治会を再建し、曲がりなりにもその後後輩たちが引き継いでくれて、80年代初頭までは存続したようだ。
卒業後は小さな中小企業に就職し、現場の肉体労働に従事したが、大卒ということで営業に回され、自分の性に合っていないことに気づき、退職した。そしてもう一度教職課程を通信大学で取り直して、2年浪人して小学校教員となり、紆余曲折しながらも無事定年まで勤め上げた。民間を退職した時、教職に就くことに抵抗がなかったわけではなかったが、すでに結婚して子供が産まれていたので、生活のためと割り切って教員試験を受けた。
教員時代には労働組合活動には熱を入れたが、ここでも厚い壁が立ちはだかった。特に、80年代の労働戦線統一に巡って組織内で分裂騒ぎが起こり、連合への統合へ反対しつつも、現場での活動基盤を守ることを大切にしながら踏みとどまった。労働運動の基本は現場での仲間との会話や関わりである。しかし、ここでも新しく入ってくる新人教員との落差を感じることが多くなった。政治的な話が避けられ、自らの利害についても個人的な処理を重んじる傾向があり、組織でなんとかするという文化がどんどん廃れていった。退職間際になって大阪の地に維新の会が登場し、彼らが現場へ分断を持ち込み、それまでの大阪の教員の闘いの遺産は悉く潰されていった。これには、現場の闘いだけではどうしようもない限界を感じている。おそらくこれは、かつて高校で闘った時に感じた政治的限界というものと同質であると思う。
▽その後の党派との関わりとその評価
大学を卒業してすぐの時期はまだ党派との関わりがあり、何度か集会などに参加したが、賃労働生活と家庭生活とが中心となりそれほど熱心には取り組めなかった。党派自身も80年代以降痩せ細っていったように感じる。理論的な古さも感じていた。特に、世界的な金融資本主義時代となっていく中で、国内政治的な課題だけではなく世界的な動向が自身の生活に密接に関わってくる時代になったことや、世界的な人権運動への様々な傾向と多様な理論が現れ始めたことを、既存の党派が消化しきれていないと思われた。90年代のソ連崩壊以降はますますそれを感じるようになった。
現在は昔の活動家たちの小さな研究会に参加している。個人ではなかなか世界の情報や最新の理論的な話を得るのは限界があるので、末席ながら参加させてもらっている。
▽運動仲間のその後の活動について(周りを見渡して)
高校時代の仲間はそれぞれ自分たちの仕事へと分散されて、今や年に一二度同窓会的に会うだけである。彼ら彼女らもまだ気分は高校当時と変わらないにしても、社会運動への回路も断たれているし、それぞれ己の置かれた立場から戦っていると思う。
大学時代の友人たちもまた労働運動や社会運動へ入り込んでいる者もいるが、私と同様に悩み多い課題を抱えながら奮闘している。ある者は労働運動、ある者は生協運動、ある者は市民運動へと散り散りになりつつも、それぞれの立場で学生時代の精神を保持している者が多い。確かに、中には完全に立場を変えて、企業の管理職へと上り詰めた者もいるにはいるが、偶然顔を合わせる機会に接触を避けられることが多いのは、多分彼ら彼女らもまた後ろめたいものを抱えているからだろう。
E現時点の思想について
▽現時点における「社会主義」の評価とその理由:
理念としての「社会主義」「共産主義」に関しては今も人々の中にユートピアとして残り続けていると感じる。しかし、20世紀は実験としての「社会主義国家」が存在し、それが無惨にも失敗したこともまた事実として大きい。90年代に私なりにかつてのソビエト連邦の歴史を学び直したことがあるが、続々と明らかになる歴史的資料を見るにつれて、レーニンが危惧したように欧州革命が敗北したことで歪められたロシア革命の姿が痛々しい。スターリンに罪を全部押し付けることも可能かもしれないが、それだけではないだろう。つまり、帝国主義に囲まれて「社会主義国家」を維持することがいかに不可能かということ、そしてそれも遅れてきた資本主義国家の革命であったことでますます危機が深まったことなどを考えれば今日の「社会主義革命」がどうあるべきかを示唆しているように思われる。
中国に関しては、路線として資本主義を復活させるというケ小平の路線は一面正しいものだったと思う。それしか選択肢がなかったのだろう。今や中国は国家資本主義となってしまったが、これから中国共産党がどのように変質していくか関心がある。20世紀初頭にソビエトロシアが直面した困難とはまた異質な困難を今、中国は抱えていると感じる。
決定的と思えることは、ロシア革命の失敗で明らかになったことは、計画経済は社会主義の路線ではないということだ。今や、資本主義国家でさえ計画経済を導入している時代であり、この計画性は基本資本主義経済のサブ発展系でしかなかったのだ。だから、これからの社会主義理念は文化人類学的な知見を導入していくべきだろう。斎藤幸平も言っているが、環境問題が地球規模で問題となっている時代には、社会主義は一国であったり、先進国であったり、経済的な改革であったり、政治的な改革であったりするのではないのではないだろうか。その意味では、日本は最も遅れた地域であるかもしれない。つまり、人々が自らの生活環境を自らの力で作ろうとする自治の習慣が極めて低いレベルにある。個々バラバラに解体された今の日本の労働者を見ていると、その感をひしひしと感じ、官僚任せ、政府任せ、管理職任せの世相を変えていくところからしか展望が開けないのではないだろうか。
▽現時点におけるマルクス・レーニン主義についての評価とその理由:
マルクスに関しては『資本論』で展開され、後期のマルクスが当時の世界を捉えていた視点には見るべきものが多いと思う。特に、「価値論」については今も有効だろう。しかし、百年以上も前の理論であり、所々古びてしまっているものもあり、これから我々は彼の残した理論を発展させる必要がある。マルクス「主義」にこだわる人々もいるようだが、この立場には私は立たない。現代の世界を見て、ここから出発するべきであって、マルクスから出発するのではない。
レーニンに関しては、政治理論としてはもはや有効ではない。労農同盟やソビエト論などは歴史的産物として今教訓とすべきである。ただ、彼の決断としての革命観に関しては今も生きているかもしれない。特に私が彼の知性に敬意を払いたいと思うのは、ロシア革命が困難に直面していた時に現実的な選択を常にしていたことだ。ネップが彼の死を持って終焉したこと、スターリンによって変節してしまったことは返す返すも残念であった。もしネップをそのまま続けていれば、今の中国の突き当たっている困難が20世紀中期に現れていたかもしれない。そうなれば、歴史は50年は早く問題を提起できていたはずで、資本主義国家群の戦後のケインズ主義的福祉国家政策との合流もまた視野に入っていたかもしれない。歴史に「もしも」はないが、そんな妄想を抱かせるような政治家ではあった。
▽現時点における「日本共産党」の評価とその理由:
日共に関しては、私は元々悪い印象を持っていない。確かに、60年代の一時期六全協の余波で様々な党的な分裂を経験しており、その際に頑なな党派批判、特に私たち全共闘を「トロツキスト」呼ばわりしたことには辟易したが、同じことが新左翼諸党派もまたそれ以上に党派批判がひどかったことを考えれば、時代がなせる技であったかもしれない。むしろこの時期に革新自治体路線や民族民主革命論に関しては、その後の昭和天皇の米帝との確約などが情報開示されるにつれ、日共の視点が一定の正当性を持っていたことも明らかになっただろう。
また、私の教員時代に経験した労働組合内部の分裂に際して作用した「反日共」路線の頑固な反共主義こそが組合を骨抜きにしたことは辛い思い出である。私の「全共闘」的立ち位置を組合幹部が上手に「反日共」として利用したことは今も思い出される。現場では共産党シンパの同僚と一緒に闘ったことを思い出し、一つとして違和感がなかったことは申し添えておきたい。若い共産党シンパが「全共闘」へリスペクトしてくれていたことを思い出す。
現在の日共の路線には詳しくないが、娘が一時期共産党のオルグを受けていて、その時彼女から相談を受けた印象からは悪いものを感じなかった。
F子供との関係について(山本義隆氏の嘆きをどう聴くか)
▽自分との関係性:
この質問は、実の子どものことを言っているのか、一般的な下の世代のことを言っているのか分からないので、分けて述べていきたい。
私の子どもは一人娘で、彼女が小学生高学年の時に私自身が離婚を経験しているので色々苦労をかけてしまった。中高時代は反抗期でかなり言い争いもしたし、彼女の人生に対しては親として十分にしてやれなかった思いはある。しかし、彼女は高校を卒業してすぐ家を出て、大学卒業後就職まで何の支援もなしに自分で全て決めてきたことは立派であると今も思っている。大学にはわずかではあるが、金銭的支援はしたが、基本的には彼女自身が独立して全て決定している。
今では年に一二度会うだけであるが、しっかりとした考えを持ち、政治的な立場もはっきりしている。大学では女性学を学び、現在は自称フェミニストであり、その運動にも積極的に関わっている。一度、東京でフェミニストの勉強会に誘われて参加させてもらったことがあるが、彼女の仲間とも会って話すと、皆しっかり者ばかりである。私とは少々立場は違っても議論できる人たちばかりであった。
一般的に若い世代についてあれこれ話すことが年寄りは多いが、若者もまた人それぞれであって、我々と同様千差万別である。職場で新しく入ってくる新人教員もまたそれぞれなのだが、大阪では教育委員会が意図的に体育会系を採用しているので、傾向としては社会問題に疎い者が多かった。組合に勧誘しても、先入観から拒否する者もいて、時代を感じさせた。ただ言えることは新人教員の中では女性教員の方がしっかり者が多いし、教育問題への感性は鋭い人が多い。今の時代、世相的に社会運動が表面化されず、表層的で浮薄ないわゆるローマ社会的なサーカス現象が蔓延しており、若い人たちはそれに大きく影響されて、社会的思考力を麻痺させられている。その意味では、かつての我々の若かった時代とは比較にならないほど社会全体が管理され統制され窒息させられていると感じる。その上、社会そのものを変えることができないという選択肢の剥奪感情が強固である。運命論とでも言い得るような人生観が蔓延している。ただ社会の仕組みを知らないだけだとは言えないような(それなら啓蒙でなんとかなるが)、自らの境遇を宿命と感じる感性が蔓延っている。これはおそらく現代社会の極めて巧妙な情報操作と現代文化のありようと関係がありそうだ。例えばその典型的な事例が自己責任論だ。この考え方は、かつて我々の時代に「自立論」が盛んに議論されたことを考えれば、隔世の感がある。かつての自立とは親や大人たちの古い家父長的でお節介ながんじがらめの規則づくめの世間に対して、自ら考えてそれに対抗しうる自己を形成するという意味であった。ただ世間の常識を鵜呑みにして黙々と付き従うだけではダメだという意味合いであった。それが、今では社会的な競争社会での敗者に対して自責を迫る議論へとすり替えられている。自立は成し遂げられずに個人としての最低限の自尊心さえ押しつぶす規範としての自己責任論が蔓延している現状は、今流行りの新自由主義的風潮が原因だということだけでは説明がつかないほど悲惨な現状がある。また一方で社会的成功者(そういうものがあるとして)は自分の境遇がさまざまな周囲の援助があってこそであるのに、自分の才覚だけに溺れる人も多い。これらのことから、現在の若者はかつて以上に厳しい境遇に再会していると言えるのではないか。自分の考えを普通に言えて、それを周囲が謙虚に聴くという普通の社会が今は存在しない。周囲に気兼ねしながら、自分の考えをひた隠しにしつつ、果ては何が自分の考えなのかさえ分からなくなるような社会というのはもはや死んだ社会ではないのかと思う。現在の職場では政治的/社会的な話題は極力忌避され、たわいのない世間話か仕事の話しかできない人が多い。とりわけ公的な場面での討議の場が極めて少ないというのが今の日本社会ではないだろうか。決められたルールに従って、当たり障りのないことを言うというのが大人の世界だという、かつて我々が忌避していた世界が今もまだ生き生きとして存在している。これでは若者が活躍する可能性すら存在しないのではないだろうか。
▽自分と子供の人生の比較:
私の子ども世代はいわゆるバブル崩壊期以降の氷河期世代で、ちょうど私が就職する時期も石油ショック直後で同じように就職先がなく苦労したが、現在に至るも日本の労働市場は硬直的で大学を卒業する時期に就職先を逸すると余程の幸運に恵まれ、人一倍の努力をしない限り後の人生が決定されてしまうような仕組みになっていて、娘もかなり苦労したようだ。一般的な労働者世帯の子どもたちにとって今の日本は本当に暮らしにくい社会ではないだろうか。子どもの人生との違いを考える時、私の育ってきた時代背景と子どもたちが育ってきた時代背景が違いすぎるので、一概に比べることができそうもない。私が小学生の頃はまだ戦後闇市的風景が残っていて、商店街には傷痍軍人が募金をしていたし、虚無僧が家々を回っていた。道は未舗装で土を掘り返してビー玉遊びをしたり、あちこちにある空き地で土まみれになって爆竹遊びをしたものだが、そんな風景は今やどこにも見られない。学級数が一学年に20近くあった我々の時代は街に子供が溢れていた。今は整備された公園へ行っても遊んでいる子供はちらほら見受けられるだけである。これほどの短い間に激変した社会では子供たちの育ち方を比べることすら難しいのではないか。資本主義の巨大な生産力は次々と新しい技術と産業を生み出して、欲望の赴くままに爆走していくが、本来人間が育つ過程は自然過程であって、ゆっくりとしたものだ。この人間を生み出し、育てていく過程だけは資本主義にはどうしようもないし、機械化できずに自然過程に任せるしかない。その矛盾が今の日本に、あるいは世界中で起こっているのではないだろうか。人間の生活を支える産業過程を人間の自然成長性に適合させるようなものにすることが今切に求められているように感じる。