1972年春広島大学 闘争の記録

 ここに掲げる資料は、全国の大学を席巻した1969年全共闘運動ピーク時の記録ではない。そこから2年余り過ぎた1971〜1972年の記録である。全共闘運動としての広大闘争最終局面での闘いであり、いわば「広大闘争最後の闘い」とでもいうべきものである。
 1969年の広島大学の大学闘争を簡単に振り返ってみよう。69年2月教養部学生大会においてストライキが可決された。その後ストライキとバリケード封鎖は他学部へも拡大していった。しかし、半年後の8月には機動隊導入によって全面的な封鎖解除が行われ、9月1日から授業再開となったが、一か月ほどの闘いの後の9月末には全共闘は完全に制圧された。教養部校舎前の森戸道路での最後の学内デモは30人にも満たないほどであった。
 70年に入り、大学移転(現在の東広島市への移転)が持ち出されるようになったが、その中で、医学部・政経学部社研などの学生達(69年全共闘運動経験者たちを中心とする約20名)は、先導役としての「学生部」の役割を問題とし、またそこに所属する文部省出向の学生部次長を通じた動きが徐々に明らかになるにつれて、大学移転阻止と学生部解体を中心とした「大学再編問題」を俎上にのせるようになった。さらに、72年春から国立大学の授業料値上げが予定されており、これに反対する学生の要求として、飯島広島大学学長自身の説明とその賛否表明を求め、これが「学長団交」を実現する運動へと展開していった。
 以下の資料は、71年秋の学生部封鎖、72年3月の教養部期末試験阻止闘争、72年6月の「今堀教養部長との大衆団交」実現のための教養部バリケード封鎖における宣言文とその基本的見解を、当時のビラから文字起ししたものである。
 さらに、ここに掲げた朝日新聞・中国新聞の切り抜き記事は、学費値上げに反対する学生になんら解答せぬまま、3月8日から強行された教養部期末試験に怒り、それをボイコット・阻止すべく集まった教養部学生の半数あたる約3000人近くが千田町キャンパスの4か所の門で3日間の座り込みをした時の記録である。学生に賛同し試験を取りやめた教官、また反対に座り込み排除にかかった教官・大学職員の記事もある。そののち3か月間の両者の膠着状態があり、6月には学生百数十名が「教養部長団交」実現のための教養部バリケード封鎖を実行した。これに対して、大学側は機動隊導入によって学生の排除と授業の正常化を試みた。この闘争において、十数名の学生が逮捕され、このうち4名のものが起訴された。ここには、その中の1名の者の裁判での意見陳述書を掲げた。(この逮捕は、1週間にわたって教養部を封鎖していたノンセクト学生約100名が、強制的団交実現のために今堀教養部長を学生会館へと連行したことに関してであった。ちなみに起訴の罪名は、@建造物侵入罪、A逮捕・監禁罪、B暴力行為等処罰に関する法律違反である。なお4名の1年後に下された判決は、懲役3か月、執行猶予3年であった。)

(文責 H.T.)


 資料は以下のとおりである。
●資料1 (教養部バリケード)封鎖宣言(1972年6月13日)

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●資料2 教養部バリケード封鎖に於ける我々の基本的見解 (1972年6月13日)

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●資料3 被告人意見陳述書(F.M.) (昭和48年5月1日)

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●資料4 中国新聞・朝日新聞・毎日新聞記事切り抜き

 資料4一覧  資料4を見る

@ 学生部長室占拠 (中国新聞昭和46年11月19日)
A 四室を一時占拠 (朝日新聞昭和46年11月19日)
B 団交要求し集会 (中国新聞昭和47年3月6日夕刊)
C 期末試験ボイコットへ (中国新聞昭和47年3月7日)
D 学生、ピケで阻止行動 (中国新聞昭和47年3月8日)
E 受験者は1割足らず/完敗と教授も苦笑 (中国新聞昭和47年3月9日)
F 大学側の強い姿勢に反発/大半受けられず (朝日新聞昭和47年3月9日)
G 「私の試験はしない」/脱無関心の弁 (中国新聞昭和47年3月9日夕刊)
H 教官に対話の動き (中国新聞昭和47年3月10日)
I 大学側追試も検討 (中国新聞昭和47年3月11日)
J 広大学生、教養部長を軟禁 (中国新聞昭和47年6月20日)
K 教養部長を軟禁 (朝日新聞昭和47年6月20日)
L 広大で学生7人逮捕 (毎日新聞昭和47年6月20日)